第99話 すべて、あなたのために。

  セミ達がけたたましく鳴き続ける夏が去り、徐々に涼しい風が吹きつけるようになった。風に吹かれて揺れる僕たちの葉が音を立てる中、芽衣がベビーカーに生まれたばかりの赤ちゃんを載せてゆっくりと歩いていた。

 赤ちゃんはベビーカーの中で両手を握りしめたまま、ずっと目を閉じていた。

 芽衣は時折小さな声で歌を唄いながら、ベビーカーを前後に優しく動かしていた。


「あらら、樹里じゅり、今日もぐっすりさんだね」


 芽衣はベビーカーを覗き込み、眠り込んだ赤ちゃんの寝顔を見て笑っていた。


「あなたの名前……公園の木々たちに囲まれた場所で生まれたから、樹里って名前にしたんだよ。私、樹里がうらやましいなあ。木に囲まれて、自然一杯の場所で生まれ育つなんて……私なんか、都会の真ん中で育ったから、自然が近くに無かったもん。芽衣っていう名前も、単に五月生まれなだけで英語の『May』を漢字にしただけだし」


 この子の名前、樹里と名付けたらしい。僕たちから名前を付けるとは、ちょっと照れくさいけど、シュウと芽衣には感謝の気持ちでいっぱいだった。

 その時、公園の中に車輪の音を立てながら一台の車椅子が入って来た。

 怜奈が引く車椅子の上には、すっかり痩せこけた隆也の姿があった。


「あれ?お義父さん?」


 驚いた芽衣は、ベビーカーを引きながら車椅子に近づいた。


「お父さんが、たまには表に出たいんだって」

「ええ?お義父さん、最近はほとんど寝たきりで、しゃべるのも辛いくらい体調が悪いのに?」

「それがね、公園の中に行きたいって言ってきかないのよ。ケヤキのことが気になるんだって。ま、いつも言いだしたら聞かないタイプだし、今日は天気も良いから、一緒に表に出てみたのよ」

「お義父さん、ホントにそんなこと言ってるんですか?下手に寝床から身体を動かしたら病状が悪くなっちゃうじゃないですか?」

「大丈夫、お父さん嬉しそうな顔してるわよ。ねえ父さん、ケヤキ達のことが気になってしょうがないんでしょ?」


 すると、隆也は目を閉じたまま軽くうなずいた。


「お父さん、見てごらん。ここのケヤキ、もうこんなに大きくなったのよ。以前、ここに立っていたケヤキの後に来たんだけど、あっという間に私たちの家くらいの高さまで大きくなったんだよ」


 そう言うと、怜奈はベンチにこしかけ、隆也の手を握りながらケビンの姿をしばらく見つめていた。


「覚えてるかな?結婚して初めてこの場所に来た時、以前ここに立っていた木に私を紹介してくれたでしょ?兄弟のないお父さんにとっては、兄弟みたいな存在だったんだもんね。あ、そうそう、その時お父さんが私にミキモトのネックレスをプレゼントしてくれたでしょ?ずっと欲しかったネックレスだったから、すごく嬉しくて、思わずお父さんのほっぺにキスしちゃった。今もそのネックレス、ちゃんと持ってるし、これからも大事に使うからね」


 僕はその時のことを今も鮮明に覚えていた。あの時は隆也も怜奈も若くて、すごく幸せそうだったなあ。

 一方、隆也は怜奈の話に「そうか」と小声で言っただけで、以前のように派手に照れ笑いしたり必死に否定したりすることは無かった。

 怜奈は隆也の反応が悪かったことにちょっぴりがっかりしていたが、立ち上がると車椅子を引きながら、苗木達の立ち並ぶ方向へと歩き出した。


「あ、それから、公園の両脇に植えたケヤキの苗木も、私たち位の背丈になってきたし、みんな順調に成長してるわよ」


 怜奈は公園の木々を指さしながら、隆也にも分かるように一つ一つの木の様子を開設していた。そして、怜奈は車椅子を動かし、僕の根元にたどり着いた。


「今、この公園にあるケヤキで一番大きいのはこの木かな?」


 怜奈は顔を上げると、葉の間から差し込む陽光をまぶしそうに両手でさえぎりながら、じっと僕の頭の辺りを見つめていた。


「この木、私がここに来る前から立ってたもんね。この公園のことは、きっと私たちよりもずっと見ているし、知ってるかもしれないよね」


 隆也はずっと薄目を開けたまま、怜奈の話をじっと聞いては頭を上下に動かしていた。


「お父さんが一生懸命手入れしていたから、ここの公園の木たちは、みんな元気だよ。お父さんがいなければ、この公園は草ぼうぼうで荒れ果てたり、コンクリートに遊具だけの無機質な場所にされていたかもしれない。そして木たちは人間達の都合で切り倒されたりしていたかもしれない……」


 怜奈は隆也の手を掴むと、そっと僕の幹の辺りに触れさせた。

 隆也はしばらく僕の幹を手で触っていたが、やがて手を引っ込めると、手をじっと見つめ、その感触をずっと確かめていた。


「俺……今、ケヤキに、触ったのか?」

「そうだよ。この木に触ったんだよ」


 怜奈は笑いかけると、隆也は首を左右に曲げて、不思議そうに手を見つめていた。


「そうそう、この木たちには剣道の練習相手にもなってもらったんでしょ?だからお父さんは剣道も上達したじゃない?シュウも、近くのマンションの剛介君もお父さんから指導を受けて、この公園の木を相手に練習して、みんな剣道が上達したんだからね」


 隆也は、頭を掻きながらちょっとだけ照れ笑いを浮かべていたように感じた。


「公園も、こんな街の真ん中にあるのに、雑草もゴミもないし。私がここに来た時からきれいな公園だなって思ってたけど、今もずーっと変わってないんだから、すごいよね?」

「でも……今は俺、何もしていないから」

「そうかな?ここまでずっとがんばってきたじゃない?その姿を見て私たち家族もがんばったし、沢山の人達が支援してくれたでしょ?お父さんの気持ちが、他のみんなにちゃんと伝わったんだよ。それだけでもう十分だよ」


 怜奈は途中から、言葉を詰まらせながら話していた。よく見ると、目には涙が光っていた。


「怜奈さん、どうしたんですか?急に泣き出したりして」


 芽衣は怜奈の異変に気付き、ベビーカーを引いて怜奈に近づいた。


「私は大丈夫だから。気にしないで。樹里のことちゃんと見守らなくちゃダメだよ」

「は、はい……」


 怜奈はそう言うと、車椅子を転回し、ケビンのいる方向へと進めていった。


「なあ、怜奈……」

「なあに?」

「頼んだぞ。みんなのこと、そして、公園とケヤキたちのこと……」

「今からそんなこと言わないでよ。悲しくなるでしょ?」

「俺のことはいいから。こんなどうしようもない奴のことは」


 怜奈は鼻をすすりながら、片手で何度も目の辺りを拭っていた。


「ねえ、お父さん……」

「何だい?」

「大好き」


 怜奈は身体を屈めると、車椅子に座る隆也の頬にそっと口づけた。

 隆也は片手で頬をそっと撫でると、真横に座る怜奈に顔を向けた。


「怜奈」

「なあに?」

「俺も、好きだ」

「お父さん……」


 怜奈は車椅子ごしに、隆也の肩にそっと手を回した。

 隆也は、怜奈の髪を片手で何度も撫で回していた。

 その様子を、芽衣は遠くからずっと見守っていた。


「あれ?親父におふくろ……一体、どうしたの?」


 ちょうど仕事帰りのシュウが、公園の中に姿を現した。


「な、何よシュウ。ちょうどいい所だったのに!」

「何言ってんだよ、ちょうどいい所って。年甲斐もなくデートかい?」


 シュウは呆れ顔で二人の様子を見ていたが、怜奈は何かを思いついたのか、シュウの元に近づくと


「ねえ、シュウ。あんたのスマホで写真撮ってくれるかな?私たち家族の集合写真」

「な、何だよいきなり?」

「いいから、早く!」


 怜奈に急かされるまま、シュウはポケットからスマートフォンを取り出した。


「さ、芽衣ちゃんもここに来て。ケヤキ達がちゃんと写真に収まるように、この場所が良いかな」


 怜奈は公園のちょうど真ん中あたりに立つと、芽衣もその場所にベビーカーを動かしてきた。


「シュウ、あんたも家族なんだから、一緒に写真に入ったら?こっちにおいでよ!」


 怜奈はシュウを手招きした。


「でも、誰も周りにいないし……」

「ううん、いるでしょ?おーい、拓馬君!」


 すると突然、黒いパーカーを羽織った拓馬が怜奈の元へと走ってきた。

 偶然に公園の近くを通りかかっていたのを、怜奈が発見したようだ。

 拓馬はしばらく姿を見なかったが、今は一体何をやっているのだろうか?


「お久しぶりです、怜奈さん。ちょうど仕事の休みが取れてこっちに帰って来たんです」

「拓馬君、早速で悪いんだけどさ、シュウのスマホで私たちのこと撮ってくれる?」

「いいですけど……」

「さ、シュウも早くここに来て!」


 怜奈に急かされるままにシュウは怜奈の隣に立った。


「行きますよ!はい、レアチーズ!」


 シャッター音とともに、隆也一家全員が僕たちケヤキに囲まれるように写真に収まっていた。しかし、レアチーズとは一体……?


「ごめんね、せっかく帰ってきたばかりなのにお願いしちゃって」

「いいですよ、でも、どうしたんですか急に?」


 すると怜奈は、拓馬の元に近寄りそっと耳打ちした。


「ま、マジですか……?」


 怜奈は何も言わず頷くと、拓馬は隆也の元に近寄り、その手をそっと握りしめた。長く金色の前髪の隙間から覗く目には、涙が光っていた。


「隆也さん!俺……」

「いいんだよ、拓馬……ありがとな」


 隆也は拓馬の背中を何度も撫でた。


「さ、帰ろうか?そろそろ寝ないと、また発作が起きるからね」

「ああ」


 隆也はまるで名残惜しむかのように公園の中を見回すと、そっと笑みを浮かべて、「ありがとな」と小さな声でつぶやいていた。


『ねえ、ルークさん……今日はみんな、ヘンな感じだね。隆也さんも、周りの人達も、一体何があったのかな?』


 ケビンは、公園を立ち去る隆也達の姿を不思議そうに見続けていた。


『いよいよ、別れの時が近づいているのかな』


『え?別れって……』


『いや、何でもないよ』


 僕は言葉を濁したが、隆也との別れの時が訪れることを何となく察知していた。

 その時は、僕たちに刻一刻と迫っていた。







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