第62話 雨の日の出来事
どんよりとした曇り空から、冷たい雨がとめどなく降り続く春の朝、僕の身体は全身びしょ濡れとなった。
僕の真正面に立つケビンも、ひたすら降り続く雨に打たれ、寒そうに立ち尽くしている様子であった。
そんな中でも、今日は朝から樹木医の理佐が来て、僕たちの診察をしてくれていた。雨具を着たまま枝や幹、根の先に至るまでしっかり点検し、その結果を書き記していた。
全ての点検が終わると、理佐は大きくため息をついた。
「ごめんね、こないだは助けに行けなくて。私も何も工事の日程を知らされていなくてね」
そう言うと、理佐は軽く頭を下げた。
「以前ここにあったケヤキを伐採する時に私たちが抵抗したから、今度は私たちに邪魔されないよう、極秘裏に工事を進めてるみたいでさ。本当に頭に来るよね」
理佐は、ポケットから写真を取り出した。
「今ね、あなた達の行き場所を手配してる所なの。あなた達が誰にも邪魔されず、ゆうゆうと安全に暮らせる場所を色々当たっているんだ。やっと目星がつきそうなの。ここはどうかな?今度出来た認定こども園の園庭なんだけど」
これって一体、どういうことなんだろう?
市の方で僕たちを伐採する前に、理佐の方で先に手を打つ、ということなんだろうか?
「以前ここにあったケヤキは、私が色々根回しして、遠い町に移植したのよね。まあ、普通に伐採するよりも予算はかかるから、市の担当者には正直嫌な顔をされたけどさ」
やっぱりそうか……おじさんは理佐に助けられて移植され、どこか遠くの町で生きているんだ。あのまま伐採されて、息絶えてしまったわけじゃないんだ。
僕が言葉を話すことが出来るならば、どうしても理佐に聞いて確かめたい。
おじさんは、一体どこに住んでいるのか?
そして、もし僕たちを移植するのならば、おじさんの住んでいる町に行かせてほしい。
おじさんと、もう一度会いたい。そして会えなかった日々の出来事を、時間を忘れて話し合いたい。
その時突然、小さな子どもが、絵柄の入った可愛らしい傘をさしながら、僕の方にそっと近寄ってきた。
こんな雨の中、どこの子どもなんだろう?僕は傘に隠れた顔をそっと覗き込んだ。
『あ…あいなちゃん?』
弁護士の一人娘・あいなが、雨が降りしきる中一人で僕の隣に立ち尽くしていた。いつもなら母親と一緒にこの場所に現れるが、今日は一人でやってきたようである。
あいなの姿に気づいた理佐が診察を止めて駆け寄り、あいなのすぐ隣にしゃがみ込むと、彼女と目線を合わせながら話しかけた。
「お姉ちゃんどうしたの?こんな雨の中一人できたの?」
「うん」
「お家はどこ?一緒に帰ろうか?」
「大丈夫。私、ひとりで行くもんって言って出てきたから」
「は?」
「だ~か~ら~、ひとりで行くもん!って言って出てきたの!」
そう言うと、あいなは理佐から目を背けた。
理佐は困った顔を見せたが、しばらく考え込むと、僕の目の前に立ち、あいなに話しかけるような口調で語りだした。
「ねえお姉ちゃん、この木、今年で何才になるか知ってる?」
あいなはしばらく無言であったが、やがて理佐の方を振り向くと、うーんと唸りながら、理佐の問いかけに対する答えを考えていた。
「10さい……?」
「ううん、もっと、もーっと生きてるわよ。もう40さいになるかな?」
「40、え、ええ~??なんか、すごい……」
あいなは理佐の言葉を聞いて、目を大きく開いて驚愕していた。
「これでもまだまだ若いんだよ。そうね……100年、いや、200年ぐらい生きる木もあるかな?」
「すごい!うちのおじいちゃんよりも長生きしてるの?」
「お姉ちゃんのおじいちゃんは、いくつ?」
「うーんとね……70……さいかな」
「あははは、じゃあ、おじいちゃんより長生きするかもね」
「すごい……」
理佐は、あいなの傍に近寄ると、僕の尖った頭頂部の辺りを指さした。
「見てごらん。この木、すごく大きいよね?でもね、小さい時はお姉ちゃんと同じぐらいの大きさしかないんだよ」
「私と、おなじぐらい?」
あいなは、自分の頭に手を乗せると、そのまま手をまっすぐ真横に伸ばした。
「そう、その位の大きさしかないんだよ。それが、こんなに大きくなるんだよ」
そう言うと理佐は、今度は僕の幹に腕を巻き付けてみせた。
「この木は私がこうやって腕を巻き付けても足りないくらい、太いんだよ。でもね、小さい時にはお姉ちゃんの腕ぐらいの太さしかないんだよ」
「私の、うで?」
あいなは、自分の腕を、もう片方の手でつかんでみた。
「こんなに、ほそいの?」
「そうだよ。でもね、あっという間にこんなに太くなるんだよ」
「どうして、こんなに大きくなるの?どうしてこんなに太くなるの?」
「それはね。たくさんの土と、おひさまの光と、今日みたいな雨。そうそう、それに、たくさんの人達がお世話をしてるからだよ」
理佐が言葉を発するたびに甘い吐息が僕の幹に吹きかけられると、僕の気持ちは突然高鳴りだした。
『ルークさん、何で照れてるの?』
『う、うるさい。こんなに密着したら、誰だって正気じゃいられなくなるよ』
理佐は僕から腕を離すと、あいなを手招きした。
あいなは傘を差したまま、ちょこまかと歩きながら理佐の元へ歩み寄った。
「この木に、少しずつ緑色の葉っぱが生えてるのが見える?」
「うん。葉っぱ、まだちっちゃいね」
「そう。でもね、これからだんだん暖かくなると、葉が大きくなるんだよ。大きな葉っぱでいっぱいになると、鳥さんがいっぱいここにやってくるんだ。そして秋になると、葉っぱが枯れて、地面に落ちてくるのよ。葉っぱの命は短いけれど、次の年になったら、また小さな葉っぱが生えてくるんだよ」
「ふーん……木って、不思議ないきものなんだね」
「そうね。お姉ちゃんの言う通りよ」
あいなは、しばらくの間真上の木をじっと見つめた。
そして、何か思い出したかのように理佐の方を振り向き、問いかけた。
「ねえ、木っておはなしできないんだよね?」
「そうね。木は何もお話しできないし、私たちの言葉もわからないかもしれない。でもね、私たちのことをいつもここで見てくれてるのよ」
「あいなのことも、見てくれてるのかなあ?」
「もちろんよ。ちゃんと学校行ってるかなあ?って、何も言わないけれどちゃんと見てくれてるわよ」
「そうなんだあ!すごいなあ、木って」
その時、公園の外から、あいなの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
その声は、次第に僕たちの方に徐々に迫ってきた。
「あいな!そこにいたのね?勝手にお家を飛び出して、どこに行ってたのよ?」
あいなの母親が、慌てた様子であいなに駆け寄った。
あいなはきょとんとした顔で、母親の顔を見つめていた。
「だって私、ここにいたかったんだもん。お家にはいたくなかったんだもん」
「はあ?こんな雨の中、風邪ひいたらどうするのよ?さ、帰りましょ!」
「イヤだ!ここにいたいの!このお姉さんと一緒に、木のお話をしていたいの!」
すると、母親は理佐の方を向き直った。
その表情は、まさしく鬼のような形相であった。
「あなたは誰なんですか?うちの娘が一人でここに来てるのに、変だと思わなかったんですか?」
「私はこの子に、お家に帰ろうってちゃんとお話しましたよ。でもね、お家に帰りたくないって。私は樹木医なんですけど、この木のお話をしたら、興味津々に耳を傾けてくれたんです」
「そんな余計なお話しないでくれませんか?こんな雨の中、ずっとここに居させるなんて、非常識もいい所ですよ。樹木医だか何だか知らないけど、勝手なことしないでください!」
「でもねお母さん。この子、この公園のことや、この木のこと、すごく興味を持って
くれていますよ。私のしたことは確かに良くはありませんけど、お子さんのそういう気持ち、もっと大事にしてあげたらいいんじゃないですか?」
「もうこれ以上何も言わないで!さ、帰るわよあいな。お父さんもお家で心配して待ってるんだから」
「いやだ~!帰りたくない!パパの所なんて帰りたくない!」
「どうしてよ!あいなのことをこの世で一番心配してるのはママ、そしてパパなんだよ」
「ちがうよ!だってパパ、あいなのお話、ちゃんと聞いてくれないんだもん。あいながこの公園のおはなししたら、そんなあぶないところに行っちゃだめって言って、怒り出すんだもん。さっきも公園に行きたいって言ったら、怒ってほっぺをたたいてきたの。だからあいな、ここに一人で来たんだもん」
母親は、突然口をつぐんだ。歯ぎしりをしながら、しばらく無言のまま、あいなの手を握っていた。
その時、母親のスカートの辺りから音楽が流れた。
母親はポケットから小さな電話を取り出すと、慌てて耳に押し当てた。
「あ、お父さん?ごめん、あいなは公園にいたよ。うん、そうね…今すぐ連れて帰るから。うん、そうよね、ごめんなさい。風邪ひかせちゃまずいもんね」
母親は電話を再びポケットに入れると、あいなにそっと目を遣った。
「とにかく、風邪を引くから、今日は帰るわよ!さ、行こう!」
「イヤだ!」
「行くわよ!」
「帰りたくない!」
母親は、嫌がるあいなの手を無理やり引っ張ると、あいなは必死に抵抗した。
ついに母親は無理矢理あいなを抱きかかえて、小走りにマンションへ戻っていった。
あいなの泣き声と叫び声が、しばらくの間公園の中に響き渡った。
「あのお姉ちゃんの心に届いたかな?私の言葉」
それだけ言うと、理佐は道具を片付け、公園を去っていった。
『り、理佐先生。さっきの話ですけど、もし僕たちが移植されるなら、おじさんのいる場所に行きたいんです!おじさんはどこにいるんですか?』
僕はありったけの声で理佐に叫んだが、理佐の姿はもう僕たちの視界には無かった。僕たちの声が、ちゃんと理佐に届いているといいけれど……。
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