第41話 忘れられなくて

 コンサートは盛況の中で幕を閉じ、やがて、公園を埋め尽くした観客たちは次々と客席を立ち始めた。

 自宅に帰るため僕の傍を通り過ぎる人達は、皆にこやかな表情を浮かべていた。

 会場受付をしている美絵瑠先生も、満面の笑みを浮かべながら手を振って観客を送り出し、小さい子どもが通り過ぎると、手を差し伸べてハイタッチしていた。


 その時、僕のすぐ傍で、大きなリュックを背負い赤いベレー帽をかぶった若い女性が、ケビン達の姿を遠目に見ていた。

 ベレー帽から肩まで伸びる髪は金色に染まり、唇には真っ赤な口紅が引かれ、派手なデザインのTシャツを羽織り、高いヒールの靴を履いたその女性は、この田舎町でなかなか見ない風貌であったが、どことなくあどけない横顔は、いつかどこかで見た記憶があった。


「元気にすくすく育ってるのね。しばらく見ない間に大きくなったね」


 そういうと、女性はヒールの音を響かせながらケビンに近づいた。

 女性はケビンの前のベンチに腰を下ろすと、リュックを下ろし、その中から大きなノートを取り出した。

 あのノートは、いつかの……だとしたら、あの子は、燐花?


「あら、ひょっとして、燐花ちゃん?」


 コンサートを終えて引き上げる途中だった啓一と万里子が、声を上げて驚いていた。


「はい、今日久しぶりに帰ってきました。あっちの学校が夏休みに入ったんで」

「え?『あっち』って?」

「あ、ごめんなさい。私は今、フランスの大学で絵を勉強してるんです。もっと絵が上手くなりたいっていう気持ちがあって。そのためには国内の大学ではなく、本場で厳しい指導を受けて切磋琢磨したいって思って、高校卒業と同時に渡仏したんです」

「すご~い!なかなか出来る決断じゃないわよ。さすがは燐花ちゃん」

「帰国して、いの一番にここに来ちゃいました。この木のことを描きたいと思うと、居てもたってもいられなくて」


 そういうと、燐花はベンチに腰掛け、ノートを広げると、ケビンを鋭い目線で注視した。しばらく沈黙を続けた後、何か閃いたかのように突然、鉛筆をノートの上に走らせ始めた。

 ケビンは、折角落ち着いた様子を取り戻したのに、燐花を前に再び体が硬直している様子だった。


「燐花ちゃん、相変わらず凄いわね。細かい所までしっかり描いてるわ」


 万里子は、燐花の真後ろからノートに描かれたケビンの姿をしっかりと見つめていた。


「まだ若いのにしっかりしてるよ。俺も若い時、もっとがんばればよかったなあ」


 啓一は、頭を掻きながら苦笑いしていた。


「何言ってるのよ!私たちはこれからでしょ、これから」

「そうだね。これからだね、俺たちは。だから……」

「だから?」


 そういうと、啓一はジャケットのポケットから、何やら小さな箱を取り出し、そのまま万里子の目の前に差し出した。


「え!え?何よ、啓一さん、突然」


 万里子は、啓一から受け取った小箱をそっと開けた。すると、太陽に照らされ鋭い光を放ちながら、金色の指輪が姿を現した。


「啓一さん、これって……」

「これは、俺の気持ちだよ。俺、音楽だけでなく、人生のパートナーとしても、万里子さんと一緒にやっていきたいんだ」


 万里子はしばらく考え込んだ。突然のプロポーズに、どう反応して良いか分からなかった。


「俺、心に決めていたんだ。このコンサートが終わったら、二人の思い出の場所であるこの木の下で、自分の気持ちを伝えようって。万里子さんが俺のことどう思ってるかは知らないけど、これが、俺の偽りのない気持ちだから!」


 啓一の表情は真剣そのものだった。

 言葉は少ないけど、一生懸命、自分の思いを伝えようとしているのは、この僕にも理解できた。


「ありがとう、すごく嬉しいよ!啓一さん…じゃなくて啓一君?いや、啓一がいいのかな?」

「え?」


 万里子が突然発した言葉に、啓一はしばらくあっけに取られていた。


「だってさ、これから人生のパートナーになる人に「さん」付けするのは他人行儀で、もどかしくって」

「万里子さん……!」

「あははは、啓一も私の事「さん」付けしなくていいわよ。万里子とか、マリリンでもいいよ。親しい友人は私の事そう言ってるし」

「マ、マリリンはちょっと……じゃあ、万里子って呼ぼうかな?」

「ありがとう、啓一。こんな私で良かったら、これからも、よろしくね」

「俺もだよ、万里子。もうちょっとしっかりしなくちゃいけないけど……何があっても君のこと、守るから」


 万里子は啓一から貰った指輪をはめると、突然、驚いた表情で啓一の目の前に指輪をはめた指を差し出した。


「ねえ、この指輪、私の指のサイズにぴったり!どうしてわかったの?」

「だって、万里子がピアノを弾くのを、今まで傍で見てきたから、大体この位のサイズなのかなあって……」


 啓一は照れ臭そうに答えた。


「あのね!変な所見ないで、ちゃんと練習に集中してよ!本当にもう、啓一ったら…」


 万里子は口を尖らせつつも、クスっと笑って、啓一の手をそっと握った。

 啓一はその手を握り返すと、万里子は啓一の手を引っ張り、自分の体に啓一を抱き寄せた。

 二人が寄り添う間、町中の賑やかな場所にも関わらず、不思議な位に静寂が辺りを包んだ。

 南風が吹き、僕やケビンの枝葉が揺れる音だけが、かすかに響いていた。


 やがて、ベンチに座ってずっとケビンの絵を描いていた燐花が立ち上がり、二人の元へと駆け寄った。


「あの……お二人で盛り上がってるところ、ごめんなさい!絵が完成したんですけど、良かったらお二人に差し上げますから」


 啓一と万里子は驚き、しっかりと密着させていた体を離して振り向くと、燐花はにこやかな表情でノートから絵が描かれた用紙を取り外し、二人にそっと手渡した。


「ありがとう!え?なにこれ?この絵に描かれてるのって、ケヤキの木と……」

「俺たち二人の後ろ姿?」

「いい絵になるなあって思って、ケヤキの木をバックに、お二人の姿も入れちゃいました。勝手な真似してごめんなさい」


 僕は燐花の声を聞いて、どんな絵なのか気になり、後ろからこっそり覗き込んでみた。

 ノートの全体には、鉛筆でケビンの全身が細かい部分まで精緻に描かれていた。

 そして、その真下に、身体を向き合い、手を取り合う二人の姿が小さく描かれていた。

 それはまるで、愛し合う二人がケビンに真上から見守られているかのようにも見えた。


「すごい……燐花ちゃん、ありがとう!一生の宝にするね」


 燐花はベレー帽を外して髪を掻き、照れくさそうな表情を浮かべた。


「いやいや、この世界には私よりずっと上手い人はいっぱいいますって。まだまだ修行中の身ですよ。でもね、お二人に以前言われたこと、今も忘れず頑張ってますから」

「え?俺たち、燐花ちゃんに何か言ったっけ?」

「愛おしいという感情、大事にしなさいって……あれ?ひょっとして、忘れちゃいました?」

「言った……かなあ?」

「ええ!ひど~い!お二人の言葉を胸にここまでがんばってきたのに!」

「ああ、思い出した!そういや、たぶん、言ったかも、ね?ハハハハ」


 二人は笑ってごまかしていたが、おそらく燐花に言われるまでずっと忘れていたのかもしれない。


「私、自分が愛おしいと思う気持ちを大事に、絵を描いてるんです。この木は、私の自分の気持ちを惹きつけてやまないというか」

「その気持ちをいつまでも大事にしながら、いい絵をたくさん描いてね。そうそう、この絵、ありがとう」

「お幸せに~!」


 燐花は両手を思い切り振ると、リュックを再び背負い、靴音を響かせながら公園を去っていった。


「燐花ちゃんは、いつも俺たちの想像を超えてるよな。今日は二人にとって長年の夢を叶えたけれど、彼女に負けないように、俺たちもまだまだがんばらないとなあ」

「うん。音楽も、そして私たちの人生もね」


 二人は手を繋ぐと、万里子は啓一の肩にもたれ、そのままゆっくりと公園を去っていった。


『ルークさん、僕、今日は疲れちゃった。朝から色んなことがありすぎて……』


『アハハハ、そうだね。それは僕も一緒だよ。でも、みんな、自分の夢に向かって頑張ってるね。おじさんの残していったものは、やっぱり大きいな』


『おじさんって、そんなすごいケヤキだったんだ。みんな、おじさんの思い出が忘れられないみたいだし。僕みたいなのが、そんなすごいケヤキの跡継ぎで大丈夫なのかな?』


『なれるさ。もっと自信を持って。この町の人達は、ケビンの姿を見て、励まされているんだから』


『だって僕、何も言わないし、何もできないのに?』


『ああ。そうさ。何も言えなくても、何もできなくても、ね』


ケビンは僕の言葉をいまいち理解していない様子だったけど、いつの日か、分かってくれるようになると思う。

恥ずかしながら僕自身、このことが分かってきたのは、おじさんが居なくなってからだったのだから。



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