第524話 霊峰に眠りし神

 霊峰ダマーヴァンド。ペルシャ王国北部、カスピ海の南に位置する標高約五千六百メートルを誇る東洋最高峰の火山だ。銀雪に覆われた彼の山は太古より羊飼いたちの仕事場であり、多くの伝説や神話の舞台となった聖地であった。そして今尚、とある恐ろしき魔神の眠る地でもある。


 六月初旬、霊峰が鳴動した。近年、火山活動はほとんどなく静かにその美貌を人々に見上げられていたダマーヴァンドが突如、大きく震え出したのだ。その振動は周囲の町を著しく損壊させ無辜なる民を恐怖への突き落とした。何故、静謐だった霊峰が動き出したのか。齢百を超える長老たちは口を揃えて、重々しく言った。


 「ダマーヴァンドに封じられた……眠りし神が怒っているのだ……我々に出来ることは……祈ることのみ……」



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 天を突く聖なるダマーヴァンド山の頂から海抜零メートルまで下り、さらに真下へ潜りに潜った地下五千六百メートル地点。人の営みとは隔絶された余人では知りえぬその場所に一つの神殿が存在する。地底の洞に建てられた石造りの厳かながら簡素な神殿。そこには世界を滅ぼすほどの魔の力を息を吐くように行使できる一柱の神、三頭を持つ悍ましくも美しい異形の竜神が静かに時を食んでいる。


 「……もう一度申してみよ。ザッハーク」


 幾星霜、静かに暮らしてきたはずの女神が漆黒の瞳孔を細め、冷徹に従者を睨みつけていた。表情は一切変えず、僅かに目元を動かしたばかりだが、身体から漏れ出た膨大な魔力が大地を圧迫し、神殿全体を大きく揺らしている。彼女は怒っているのだ。


 (……この揺れでは地上にもそれなりの被害が出ているであろうな)


 身の丈凡そ三・五メートル。金細工の散りばめられた豪奢な御座に座っていようとも、上から威圧的に自分を見下ろす主に傅きながら、蛇の刺繡のローブを被った従者、ザッハークは考えた。しかし、主の問いに答え、望みのままにせねば地震どころでは済まされない。すぐさまくぐもった声でもう一度主に言上した。


 「はっ……双魔殿にはご主人様の意は伝えておりません」


 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…………


 ザッハークの言葉を聞いて揺れが強くなった。壁が息をするように土煙を吐き、パラパラと小さな石の欠片が降ってザッハークの頭を叩いた。


 「……どういうつもりだ?」

 『答エロ!答エロ!返答次第デ命ハ無イゾ!』

 『ドウシテ!?双魔ニ会イタイ!!』


 主だけでなく主の髪の房。命と知性を持った二つの蛇頭も身をくねらせてザッハークを責め立てる。蛇頭が喋り出すとうっとおしがる主も今回ばかりは同じ意なのか何も言わなかった。ザッハークは慎重に言葉を選ばなければならない。千年以上の永き時に渡って仕えているのだ。癇癪で殺されては流石に困る。が、この世の多くを知り尽くす聡明な主だ。理を説けば分かってもらえることを、ザッハークは知っている。


 「……は。ご主人様が双魔殿との対面をお望みになった時期が少し悪かったようでございます。丁度、ブリタニア王立魔導学園は学園祭の季節でございました」

 「……それで?」

 「ははっ……双魔殿はその陣頭指揮を執るお役目でしたようでした。多忙ながら、健やかに楽しまれていたようです。双魔殿はお優しい気性。ご主人様がお会いになりたいとなれば板挟みになりましょう。双魔殿にそのような思いをさせるのはご主人様も本意ではありますまい……と、勝手ながらこのザッハーク、愚かしくもご主人様の命を全うせずにおりました。どうぞ、ご存分に罰していただきますよう……」


 ザッハークは言い終えるとその場に跪いて平伏した。背中には主の捉えられた者は恐怖に身を凍らせる蛇眼の眼差しが突き刺さっている。


 「……ザッハーク」

 「……はっ」


 絶対零度も生温いほど冷たい声がザッハークに振りかけられた。ただ、短く応えてその後に続く言葉を待つ。


 「……双魔は楽しげであったのだろうな?」

 「はっ、実に……余談となりますが、諸事情により衝突した“英雄”序列十位“滅魔の修道女”と“聖絶剣”と実力伯仲。突如出現した“天の使徒”の無粋な介入も打ち払ったようでございます」

 「……ふむ……そうか」


 主が漆黒の鱗に包まれた嫋やかな手で美貌の頬を撫でたのが分かった。同時にザッハークを威圧していた全てと神殿全体を崩さんばかりだった振動もピタリと止んだ。如何やら怒りは解けたようだ。


 「ザッハーク、主の言葉には理があった。妾の我儘で双魔に辛い思いをさせることは望まぬ。主の気遣いには感謝せねばな……」

 『ザッハーク!タマニハ気ガ利ク!』

 『デモデモー!双魔ニ会イタイーー!』

 「ははっ」


 ザッハークは鷹揚な態度に戻った主と二頭の蛇に更に頭を下げ、額を地面につけた。


 「時に我儘を言い、時に我慢をするのが魅力的な女と神代から決まっておる。それは人も神も同じこと……しかし、妾は今すぐにでも双魔に会いたい。凛々しくなった顔を久方ぶりに見てみたい……弱々しかった身体を抱いて成長を感じてみたい……これ以上待つのは……辛い……」


 唯一の愛弟子のこととなると、恐ろしき女神も形無し。まるで、過保護な母親か、年の離れた恋人を思うただの女のようになってしまう。


 その様子にザッハークは己の経験から判断して静かに立ち上がった。謝罪から主の要望を叶える従者の本業に戻り時だ。


 「ご主人様、双魔殿は近く大中華帝国、蜀国へと出向くご様子。その移動の際にダマーヴァンド付近上空を通過するでしょう」


 『ナルホド!ソコヲ狙ッテ転移魔術!』

 『ザッハーク!賢イ!デモ、チョットムカツク!』


 ザッハークの提案に蛇たちは感心しているようだ。されど、主の表情は曇ったまま。


 「そのようなことをして双魔に嫌われぬだろうか?」

 「ご心配召されますな。双魔殿がご主人様をそのように思われることなど世界が滅びてもあり得ませぬ。万事、このザッハークにお任せを」

 「うむうむ、主に任せる。今度こそ妾を謀るでないぞ」

 『今度ハ嚙ミツクゾー!』

 『毒漬ケニシチャウゾ!』

 「ウフフフフフフッ……妾の可愛い双魔に会える……衣はどれが良いかのう?髪の手入れもせねば……」

 『イツモ綺麗ダカラ大丈夫ダヨー!』

 『気取ラナイ方ガイインジャナイカー?』

 「そうはいくまい……久方ぶりに会うのじゃからな。ウフフフフフフッ!」


 主は立ち上がると上機嫌で身体をくねらせて寝所へと戻っていった。空になった巨大な御座とザッハークだけが魔力で灯された炎が揺れる仄暗い謁見の間に残される。


 「……さて、双魔殿は大丈夫だと思うが……改めて様子を探っておこう……」


 ザッハークは身体を起こすとそっと頭を覆っていたローブを脱いだ。照らされたのは白髪混じりの髪と髭が美しい壮年の男。ただ、両の肩から蛇の生えた異形だった。鎌首をもたげた蛇はチロチロと舌を出し、忙しなく目玉を動かした。


 ザッハークは瞼を閉じ、蛇たちに視覚を委ねた。悪魔の化身である蛇たちは現在を見通す千里眼を持っている。この力で主の希望に応えるべく、双魔の様子を窺ってきた。


 蛇たちの目が怪しく紫光で輝き出した。ザッハークはすぐに眉間に皺を寄せた。


 「……双魔殿を慕う女たちも同行するのか……はてさて、どうしたものか……」

 女神に仕える従者の悩みは中々尽きてくれそうになかった。


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