第290話 傅役の安堵

 「鏡華さま、ティルフィングさん何かありましたか?っ!?坊ちゃま!」


 鏡華が大きな声を出したのが気にかかったのか左文が階段を少々慌ただしく昇って部屋顔を出した。


 そして、丁度双魔と目が合った。その瞬間、左文は驚きと安堵の入り混じった優しい笑みを浮かべた。


 「ん、何か心配かけたみたいだな」

 「はい!もう本当に…………お熱は下がりましたか?」

 「ああ、ティルフィングのおかげでな」

 「?……何はともあれ良かったです……ああ、目を覚ましてすぐで申し訳ないのですが先ほどイサベル様からお電話がありまして、お見舞いに伺いたいとのことですが……よろしいですか?」

 「ん、分かった。取り敢えず汗を拭いて着替えたいんだが……」

 「かしこまりました、ご用意しますね。ティルフィングさんも手伝ってください」

 「うむ!ソーマ、少し待っているがいい」


 左文に連れられてティルフィングも部屋から出ていく。部屋には双魔とまだ双魔の胸に顔を埋めたままの鏡華二人だけだ。


 「……双魔……本当に心配したんやから……あんなに熱はあるし……苦しそうにうなされて……」


 今にも消え入りそうな声だ。昔、六道の屋敷で寝込んだ時も心配そうに双魔の手を握っていたが、久しぶりに自分が倒れたのを目にしたのは刺激が強かったのかもしれない。


 いつもは自分から抱きついてきても暫くすると顔を赤くして自分から離れるのだが今日は離れずに抱きついたままだ。


 「…………」


 仕方がないので両腕で思い切り、鏡華の華奢な身体を抱きしめる。熱は引いたはずだがまた身体に熱を感じる。


 人前では余裕たっぷりだが、二人きりになるとやはり年頃の少女だ。


 「…………」

 「ん?」


 やがて、鏡華は顔を上げたと思うとジッと双魔の目を見つめ、そのまま何も言わない。


 「……………………」


 まるで何かを待っているように、赤褐色の瞳が双魔の燐灰の瞳を映している。


 「…………んっ……」


 何となく鏡華の思うところを察した双魔は数瞬も逡巡の後、鏡華の前髪をそっと上げ、露わになった白い額に優しく唇を押しつけた。


 「………………あんまり、心配させんといて欲しいわ………」


 双魔の考えは正解だったようだ。鏡華は双魔から離れて椅子に座りなおした。その顔は満足気で、頬は朱に染まっていた。この間、偶然、額にキスをしてしまってかすっかり鏡華のお気に入りになってしまったらしい。


 「……ははは………」


 口調だけは少し拗ねている鏡華に、双魔は恥ずかしさを誤魔化すためにも苦笑するしかなかった。


 コンッ、コンッ、コンッ!


 『坊ちゃま、入ってもよろしいですか?お着替えと汗拭き用の蒸しタオルをご用意しました』


 部屋の扉がノックされ、続けて左文の声が聞こえてきた。


 「ん、入ってくれ」


 左文は部屋に入ると丸められた蒸しタオルを数本乗せたトレーを枕元に置いた。


 「ソーマ、着替えだぞ!」

 「ん、ありがとさん」


 ティルフィングは着替え一式を抱えて、同じように枕元に置いてくれた。


 「……双魔、身体、自分で拭けるん?」


 鏡華がはたはたと手で顔を仰ぎながらそんなことを聞いてきた。顔は赤いままだ。暗に「自分が身体を拭いてあげようか?」と言いたいようだったが、長い付き合いとは言え流石に双魔も少し恥ずかしい。


 「……自分で拭けるから大丈夫だ……着替え終わったら下に行くから、待ってってくれ」

 「……うん、じゃなくてええよ。双魔は病み上がりなんやから、少し経ったらうちらがまた来るよ」

 「私もその方がいいと思います。着替え終わりましたらベッドでくつろいでいてください。それではティルフィングさん、行きましょう」


 鏡華は少し不満げだったが立ち上がると何やら広げていた布地や裁縫道具を片付けはじめた。それを横目に左文とティルフィングが部屋から出ていき、片付けが終わった鏡華も出ていった。


 「…………」


 ドアを閉める前にまだ不安そうにこちらを振り返った鏡華に苦笑を浮かべて手を振っておいた。


 やっと部屋には双魔一人になる。


 (さて、と……大分汗かいたみたいだな……)


 ベッドから立ち上がると寝巻は汗でぐっしょりと濡れていた。早速、汗まみれの寝巻を脱いで温かい蒸しタオルで身体を拭いていく。


 適温になった蒸しタオルで身体を拭うのは気持ちよかった。


 身体中の汗を拭って下着とズボンを穿き、用意してもらったシャツに袖を通す。その間、双魔の思考はある一つのことに埋め尽くされていた。


 (あの夢は…………)


 ついさっき、目覚める寸前まで見ていた夢の内容について、珍しく双魔は覚えていた。


 あれは物心がついたころから母がよく聞かせてくれた寝物語だった。母のオリジナルらしく絵本などはなかったはずだ。今考えると子供向けの内容ではない。


 妙に臨場感に溢れる夢だった。細部まで覚えているわけではないがどうにも恐ろしい目にはあった気がする。うなされていたのはそのせいだろう。


 (…………何か……神話が関係しているような気はするんだが…………)


 話の内容を知識と関連付けようとシャツのボタンを一つ一つ留めながら片目を瞑って集中しようと試みる。


 「…………ん」


 しかし、脳内に靄が掛かったように考察が上手くいかない。まだ熱が引ききっていないようだ。ゆっくりと閉じた左眼を開いた。


 「……落ち着いたら考え直すかな」


 双魔は呟くように独りちる。ボタンもしっかりと留め終わった。椅子に掛けてあった厚手の上着を肩に掛けると少しふらつきながらベッドに腰を掛け、足を延ばし、枕をクッション代わりにヘッドボードに背中を預けた。


 「…………」


 そのまま窓の外を眺めるとふわりふわりと雪が舞っていた。何となしにそのままボーっとしていると訪れた微睡に意識を任せてしまう。今度の眠りは悪夢ではなく穏やかで優しいものだった。


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