第171話 傀儡姫の日記

 今日は年が明けてから三度目の金曜日、時間は既に夜の八時、夜の帳はすっかり落ち、通りにでは街灯が煌々と道路を照らしていた。


 遂にお見合いが目前に迫ったイサベルは部屋の窓際の椅子に腰掛け、窓の外を見つめていた。


 風呂上りなのか、ゆったりとした寝間着に身を包み、艶やかな髪はいつものサイドテールではなく、一本に結わく束ねられ、左の肩に掛けている。


 顔や上のボタンを数個外し、緩んだ寝間着から覗くうなじは火照って赤くなっている。


 外の暗さに染まる窓には憂いを帯びた自分の顔が映っている。


 ルームメイトの梓織は用事があるとかで出掛けているので部屋には一人だ。


 イサベルは一日、一日とお見合いの日が近づくにつれて大きくなる不安に胸を苛まれていた。


 梓織に加えて、鏡華と言う強力な助言者が現れ、計画はより盤石なものになった。


 双魔とは毎日のように打ち合わせを目的にメッセージのやり取りをしている。


 一度やると決めたからか、双魔は一切嫌がらず、真剣に自分の恋人を演じてくれるようだった。


 思い人と画面越しとは言え、一種、秘密を共有しているような状況にイサベルの胸はときめきで満たされた。


 それでも、不安は収まるどころか大きくなっていく。しかも、その理由が分からない漠然とした不安だ。実に質が悪い。


 (…………双魔君に…………で、電話でもしてみようかしら?)


 時計を見ると八時を少し過ぎていた。


 (…………中途半端な時間ね……何かしている途中だったら……ここは我慢するしかないかしら)


 イサベルは人に必要以上に遠慮してしまうきらいがある。今も大概の人間が不安感に勝てずに電話を掛けてしまうところだが、それはしない。


 故に、イサベルの抱える不安は胸の中でぐるぐると渦を巻き一向に解消されない。


 「…………あ、そうだ」


 暗い表情で俯いたとき、イサベルはふと、あることを思って腰を上げた。


 その足で自分の机に向かい、一番下の棚を開く。


 中にはぎっしりとノートが詰まっている。その一番奥にしまわれた一冊を手に取り窓辺に戻って椅子に座りなおす。


 イサベルの膝に置かれた一冊のノート、それは数年前、ブリタニア王立魔導学園の中等部に入学するに当たって故郷のイスパニア王国マドリードからロンドンに引っ越してきたばかりの頃の日記帳だった。


 魔導学園の進学の流れは次のようになる。


 初めに各環境での初等教育、次に魔導学園中等部入学、最後に魔導学園の高等部入学。学生としては以上で卒業後、所属することになった組織や機関でより一層の研鑽を積むといった流れだ。


 もう少し詳しくここでは中等部入学までの仕組みを説明しよう。


 まず、数代続く魔導に関わる家の場合は幼少の子弟に基礎的な教養を授ける。


 また、一般の出で魔術師などを志す場合は魔術協会主催の魔導教養学校に入学させ、そこで六年間教育を受ける。


 その後、各地の魔導学園の中等部に進学する。ここで名家の子弟の場合はほとんどが七大国の王都にある王立魔導学園の中等部に入学させられることになる。


 イサベルも十三歳にして親元を離れ単身、ロンドンに越してきたのだ。


 このノートにはその当時の新たな世界への期待と大きな不安を抱えていた自分の心情や起こった出来事が赤裸々に記されている。


 「…………」


 表紙を捲ると一ページ目にはロンドンに到着した時の想いがあどけなさを感じさせる文字で綴られている。


 『今日からロンドンで一人暮らしをします。お母様やお父様はいないし、マドリードと何もかもが違うけれど、魔術を修めるために一生懸命頑張りたいと思います』


 ページを進めるとこの部屋に住むことが決まった時のことと、今や親友となった梓織との出会いについて書かれていた。


 『昨日まではホテルに泊まっていましたが、今日からは寮に住むことになりました。学園の高等部の近くで、中等部からは少し遠いですが綺麗な建物です。ルームメイトになった女の子は私と同い年でクラスも一緒のシオリという名前の日本人です。とても優しそうな子で安心しました。私が緊張しながら挨拶をしたら、笑顔で返してくれました。きっと仲良くなれると思います』


 「…………フフ……」


 自然と口元に笑みが浮かんできた。今思い返すとあの頃の自分は少しひ弱さが目立った気がする。が、幼さ故か文章は素直に書かれている。


 そのまま、ページを次々と捲っていく。


 授業で先生の質問に上手く答えられず落ち込んだことや、梓織たちと遊びに行ったこと、中等部の様子を見に来ていた学園長の目に留まり褒められたことなど様々な出来事が綴られている。


 「…………これは…………」


 次々とページを捲っていく中、イサベルの手が止まった。


 そこには、中等部に入学してしばらく経ち、生活にも慣れてきた或る初夏の日の出来事が記されていた。震えながら書いたのか字が所々歪になっている。


 『今日は学園から帰る途中、魔術科の制服を着た高等部の男子生徒が万引きをしているのを見掛けてしまったので声を掛けました。そうしたら腕を強く掴まれて店の外まで連れていかれてしまいました。周りに助けを求めて大きな声を出したけど誰も目を合わせてくれませんでした。連れ込まれた路地の奥には三人も如何にも悪そうな仲間がいて、私を見てニヤニヤと笑っていました。両腕を掴まれて胸元に手を掛けられてもう駄目だと思った時でした』


 ここまでの日記はそこまで長く書かれていなかったのだが、この日はページを跨いでいた。


 「…………」


 過去の自分が書いたものだ。内容は単調だが恐怖と切実さが伝わってくる。


 その後どうなるか知っているのだが、紙の上に置かれた手が強張ってしまう。


 「…………ふー……」


 息をついて、心を落ち着けてからゆっくりとページを進める。


 すると、目に入った文字は前のページとは一転、はっきりと綺麗に書かれていて、どこか喜びさえも感じさせるものだった。イサベルは内容を読んでいく。


 『路地の向こう側から一人の男の子が歩いてきました。髪の毛が黒と銀で、男の子の背と歳は私と同じくらいで遺物科の白い制服を着ていました。どこか具合が悪いのか顔を青くしていましたが、私が囲まれているのに気づくと、物怖じせずに「嫌がっているようだからやめろ」と言ってくれました。万引きするような人たちですから自分より年下で見るからに自分より弱そうな男の子に正面から咎められたのが気に喰わなかったのでしょう。私を捕まえている以外の三人が男の子を囲んで脅すような言葉を吐きました。でも、男の子はそれをただ風に吹かれているようにものともせずに呆れたような顔をしていました』


 「……フフフ」


 イサベルの口元に再び、自然と笑みが浮かんだ。あの頃から不思議なふてぶてしさは変わっていないようだ。文をさらに読み進める。


 『それで我慢が効かなくなってしまったのか一人が男の子に殴り掛かりました。体格の違いは大人と子供のようなものです。私は思わず目を強く瞑って顔を背けてしまいました。でも、次の瞬間、悲鳴を上げたのは殴り掛かった高等部の男子の方でした。目を開けてみると地面から生えてきた太い蔦がその人のことを締め上げています。「なんだこいつ!?」、「舐めやがって!」そう言いながら残りの二人は魔術を発動させようと男の子に手を向けましたが、その前に男の子は動きました。なんと二人の男子は男の子に指を向けられただけで泡を吹いて倒れてしまったのです』


 ここで、さらに次のページに文が移った。これで三ページ目だ。この日の出来事はかなり印象深かったのだろう。乾いてきた目を何度か瞬きをして潤わせるとページの上段に目を遣った。


 『二人が気絶したのを確認すると蔦が消えて、締め付けられていた男子がどさりとアスファルトの上に落ちます。そして、男の子は少しふらつきながらこちらに近づいてきます。私を掴んでいた男子生徒の手は震えていて、やがて怖くなったのか私を放り出して逃げていってしまいました。急に離されて尻餅をついた私を見ると男の子は手を差し伸べて立たせてくれました。男の子は私のことをつま先から頭の天辺まで熱に浮かされたような揺れる青い瞳で見つめると「怪我がないようで良かった」と微笑みました。私は何だか顔が熱くなって、心臓がどきどきとして、突然恥ずかしくなってしまって、俯いてしまいました。そんな私を見て、男の子は「あんまり無茶はしない方がいいよ」と優しい声で言うと、そのまま大通りの方に歩いていってしまいました。昔、お母様が「女の子には誰にでも王子様がやってきてくれる」と絵本を読みながら言っていましたが、名前も聞けなかったあの男の子は私の王子様かもしれません。となりの校舎にいるはずなので探してお礼を言いたいと思います』


 そこで、この日は締めくくられていた。


 読んでいて、改めて恥ずかしくなってしまうほど素直に感情が書かれていた。今の自分では羞恥に屈してこうは書けないだろう。


 その後の記述は何日も何日も「黒と銀の男の子は今日も見つからなかった」と書かれていた。同時に日に日に強くなっていく思いも綴られている。


 一通り読んで、イサベルは勢いよくノートを閉じた。


 「……っーーーーー!!」


 そして、両手で顔を覆って声にならない声を上げて悶えた。


 少しして、顔を上げて窓を見ると映った自分の顔は予想通り真っ赤に染まっていた。


 「……やっぱり、あの人が好きなのね…………私…………」


 夜闇に映し出された自分の顔がくしゃりと不格好な笑みを浮かべる。こんな顔は決して双魔には見せられない。そう思うが先ほどまでと違って不安は何処かへと去っていた。


 「ま、まあ?改めて思い直すこともないわよね、うん……私はずっと双魔君が好きだし……今のところ双魔君には鏡華さんがいるけれど、鏡華さんは双魔君が何人の女の子と付き合っても構わないって言ってたし……そうよね、こっちじゃ一夫一妻が常識だけど東洋では一人の男の人が何人もの女の人と付き合ってる場合もあるって本で読んだし……わ、私と同じで双魔君も押しに弱いみたいだからお父様に紹介してしまえば…………フフ……フフフ」


 イサベルがブツブツと呟き、不気味な笑い声を上げていると、玄関の鍵が開かれ、紙袋を両手に下げた梓織しおりが帰ってきた。


 「ただいまー。少し遅くなっちゃったわ……って…………ベル?何してるの?」

 「フフフ…………フフフフフフフ…………」

 「……こんなので大丈夫なのかしら?……」


 妄想の世界にトリップしてしまったらしいイサベルを冷めた目で見ながら、梓織は持ち帰った紙袋を床に置いた。


 それからしばらく、梓織が風呂を済ませてイサベルの前に座るまで、旅立っていたイサベルはルームメイトの帰宅に気づかずに、時々両手で顔を覆いながら笑い続けていた。

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