第120話 大将軍の涙
そして、長い旅路の末、田村麻呂は帰京。阿弖流為は初の入京を果たした。
京は目を
もう一つ、目を瞠ったのは田村麻呂の人気ぶりだった。
大通りに入った瞬間に彼を見ようと多くの人々が集まり歓声を上げる。中には駆け寄ってくる子供たちもいて、田村麻呂はその子供たちを笑顔で抱き上げたり、肩車をしてやっていた。
阿弖流為は殺し合いをしていたことなど忘れるほど穏やかな気持ちになっていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
宮殿で田村麻呂と共に帝とやらに謁見することとなった。
帝は御簾の奥で田村麻呂の話を熱心に聞いているように感じられた。
田村麻呂も自分のことをかなり好意的に話してくれたこともあって、賓客として扱われることになり、田村麻呂の屋敷でしばらく暮らすことになった。
問題は、その場に居合わせた者たちだ。いつかの田村麻呂の部下たちのように自分を侮蔑する視線を刺してくる。ひそひそと何かを言っているのが見えた、どうせ悪口だろう。
『……………………』
キッっと睨んでやると蜘蛛の子を散らすように去っていく。
少なからず不快感を抱いたが、それも大したことはない。
阿弖流為は友の言葉や、帝が歓迎の態度を示した喜びの方が大きかったのだ。
謁見が終わると田村麻呂は上機嫌で屋敷に案内してくれた。
大きな屋敷で驚いたが、彼ほどの男が済む屋敷なのだから当たり前だと思った。
屋敷に入ると細君や子供たちが長きにわたって留守にしていた田村麻呂を笑顔で迎えていた。
自分に気づくと怖がっているようだったが、田村麻呂が「自分の友だ」と言うと警戒心を解いたようで、細君は良くもてなしてくれ、子供たちも良く懐いてくれた。
阿弖流為の心はより一層温かくなった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それからしばらく、楽しい日々を送っていたのだが、ある日、帝の宮殿に参内した田村麻呂が滂沱に暮れながら屋敷に帰ってきた。
そして、彼の子供と遊んでいた自分に突然、跪いて頭を地面に叩きつけた。
『すまない…………すまない…………吾の力が足りないばかりに…………すまない!』
田村麻呂は何度も何度も頭を地面に打ちつける。額が割れて血が流れ出している。
『…………友よ、やめろ』
傍にいた使用人の女に子供を預けて、涙と血で小さな水たまりを作っている田村麻呂を立ち上がらせた。
『すまない…………すまない…………』
田村麻呂ほどの大丈夫がそうそう涙するものではない。胸中に一抹の不安がよぎる。
そして、悪い予感ほど当たるのがこの世の常だ。
『…………其方は…………帝に背いた逆賊とされ処刑されることになってしまった』
一瞬、時が止まった。心穏やかだった時間は砂の山のように崩れ去った。
『何が起きた!!?』
普段の覇気を全くもって失った田村麻呂を問いただす。
田村麻呂は顔を上げず、涙と血を流しながら、ポツリ、ポツリと経緯を話しはじめた。
ことは田村麻呂が自分を連れて帰京する以前から画策されていたという。
宮殿において大きな力を持つ名門の貴族たちは「蛮族の長など殺すべし」と自分を処刑することを考えていたらしい。
一方、帝は田村麻呂を誰よりも信頼していたこともあり、田村麻呂が「友」と称する自分を形式上、直属の臣下として、北の地に帰そうと考えていたのだが、貴族勢力の筆頭たる藤原氏を中心に、紀氏や大伴氏の突き上げを喰らい、一転して阿弖流為の処刑を決めざるをえなかったという。
田村麻呂はそれを知って帝に直接取り下げてくれるように頼み込んだが、聞き入れては貰えなかった。
話が終わると田村麻呂は勢い良く顔を上げ、同時に両手で自分の二の腕辺りを強くつかんできた。
熊のような顔は血と涙、鼻水と涎でぐしゃぐしゃになっていたが、眼差しは真剣そのものだった。
『逃げよ!逃げてくれ!』
田村麻呂は自分に逃げることを勧めてきた。しかし、それは出来ない。もし自分が逃げれば、我が生涯の友と定めた、この気のいい大丈夫に迷惑が掛かるのは自明の理だ。
『よい、これも運命であろうぞ』
静かにそう答えると、田村麻呂は再び地に膝をつき、声を上げて泣き叫んだ。
翌日、自分は荒縄で縛られて、京の大通りを連行されていた。
処刑は京の外の山中で行われるようだ。
田村麻呂とはせめてもの情けとして帝に与えられた昨夜の猶予で酒を飲み交わした。
無理に笑顔を浮かべていた田村麻呂は普段とは比べ物にならないほど酒に弱く、泣きながら卒倒してしまった。
これでいいのだ、別れはこれくらい馬鹿らしい方が救いになる。
嬉しいことに田村麻呂の細君や子供たちまで泣いてくれたのは意外だった。否、田村麻呂の家族なのだ。不思議なことではなかった。
ふと、連行を見物していた人ごみから石が飛んできた。誰かが投げたものだろう。
『…………』
額に当たりツーっと顔に血が伝う。民たちからは帝に歯向かった者への憎悪の視線が無数に当てられている。
そして、所々に止まっている牛車の中から、あの視線を感じる。宮殿で貴族どもに向けられた侮蔑の視線だ。嘲笑されているのも何となく感じた。
自分の中に様々な念が渦巻きはじめるのを押さえつけながら、無心で歩き続ける。
やがて、京を離れた侘しい道を歩き、ついにどこかの見知らぬ山中で膝をつかされ、首を出すことを強いられた。
この時、押さえつけていた感情が爆発する。
貴族どもへの怨み、自分の処遇を撤回した帝への恨み、故郷を荒らし回った者たちへの怨み、故郷へ残してきた者たちと会えなかったこと悔い、そして、生涯の友となった偉大なる男への念。
されど、己は数瞬の内に命を失うのだ。死者の世界に誘われるのだ。未練など残せようか。
(田村麻呂…………我が友よ)
そこからの記憶はない。
阿弖流為、蝦夷の長、遠き東方の英雄の命は謀略の露へと果てた。
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