第76話 我、起す君何者ぞ

 朝、時刻は八時、昨晩までは空を雲が覆っていたが、それも風に流されていったようで快晴だ。東側の窓からは陽の光が柔らかく差し込んでいる。


 「…………」


 六道家の小さい方の客間の前に黒髪の少女が一人立っていた。この家の主である鏡華だ。


 起きてからあまり時が経っていないのか、寝間着の襦袢姿のままで頭にはトレードマークの曼殊沙華はまだ着けていない。


 「…………」


 鏡華は静かに襖を開ける。


 「すー……す……ー……すー……」


 するとそこには規則正しい寝息を立てる布団にくるまった双魔の姿があった。


 鏡華はそろりと部屋の中に入ると静かに障子を閉じる。


 そして、音も立てずに双魔のそばに近づくと頭の横に正座した。表情が一気に柔らかくなる。


 「フフフ、よお、寝とるねぇ……可愛い」


 つんつん、と寝ている双魔の頬を指で突いてみる。


 「……ん……んー…………」


 くすぐったそうに眉を曲げるが双魔はまだ起きない。


 「起きへんねぇ……双魔、左文はんが朝ごはん、作ってくれたよ?起きて」

 もう一度、双魔の頬を突いてみる。


 「ん……ティルフィング…………いたずらは……よせ……」


 どうやら双魔はティルフィングが悪戯をしていると思っているようだ。意識は浮き上がり始めているが目覚めるとまではいかない状態をフワフワしているらしい。


 「あらぁ……ティルフィングはんやと思ってるん?……うち、すこーし妬いてしまうよ?」


 むーっと鏡華は頬を膨らませた。ティルフィングに嫉妬するとは、見た目も中身も大人っぽくとも誰も見ていない時は子供らしさがまだまだ抜けきらない鏡華である。


 それでも、少し背伸びをして大人の色香も使いこなそうとする気持ちが鏡華の中に湧いてきた。


 「旦那はん……起きひんと…………ほんまに、悪戯……してまうよ?」


 鏡華は髪を耳に掛ける。片手を優しく双魔の頬に当てる。数秒間、双魔の顔をじっと見つめた後、目を閉じてゆっくりと顔を寄せてゆく。


 (…………ん……ん……ん?)


 朝の微睡から段々と意識が浮き上がってきた双魔はすぐそばに何者かの気配があることに気付いた。

 (……ティルフィングか?)


 すっかり、ティルフィングに起こされることに慣れた双魔であったがティルフィングは大体飛びついてくる。こんなに静かにそばにいることはまずない。


 (…………誰だ?)


 そう思っても瞼がなかなか開いてくれない。そうしているうちに、頬を優しく、絹のように肌触りの良い何かで触れられる。

 

鼻腔を何処かで嗅いだ覚えのある甘い香りを感じたかと思うとそれがゆっくりと近づいてくる。


 そこで、双魔の瞼はパッチリと開かれた。


 「……………………」


 目の前には目を閉じた鏡華の顔があった。既にかなり近いのに尚も近づいてくる。


 「……おはよう」


 耐え切れなくなった双魔は声を上げてしまった。


 「え?」

 「…………おはよう」


 閉じていた目を開いてポカンと呆ける鏡華にもう一度朝の挨拶をする双魔。


 「あ、あ、あ、あ……」


 普段は余裕たっぷりで澄ましている鏡華が口をパクパクとさせながら奇妙な声を出している。その顔は徐々に紅に染まり、やがて首元まで真っ赤になってしまった。


 「…………お、おはよう」


 何とか絞り出した言葉は微妙に震えていた。耐えられなくなってフイっと視線を外した双魔の頬も赤く染まっている。


 「……っ!」


 我に返った鏡華は素早く双魔から顔を遠ざけた。その速さと言ったら剣兎も拍手をするに違いないものだった。


 「ち、ち、ちちちちち違うんよ!?今のは違うの!」

 「…………ん……そうか、分かった」


 盛大にテンパっている鏡華を見て双魔は逆に冷静さを取り戻した。と言っても顔は熱いままだ。


 「……起こしに来てくれたんだよな?ありがとさん」

 「そ、そそそう!うち、双魔を起こしに来たんよ!左文はんがご飯出来たから起こしてきていうから」

 「ん、そうか…………じゃあ、起きるよ」

 「…………うん」


 何とも言えない甘酸っぱいような、否、ただただ甘い空気の中、双魔はもぞもぞと鈍い動きで布団から出て起き上がった。


 「…………行くか」

 「………………うん」


 二人は気まずい雰囲気が消え切らないまま左文とティルフィング、浄玻璃鏡の待つ居間へと向かうのだった。

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