二章「逢魔編」

第1話「邪気喰い1」

殺風景な小さなオフィスに二人の男が居た。

有るのは、テーブルと4脚の椅子。

装飾品の類は一切ない。

向かいあって座る男の一人、精悍な顔立ちの30代の男は、

陰陽師であり、真言密教を修めた僧でもある。

道摩であった。


その道摩の向かい側に座る男は、年齢は60代位だろうか、

腕時計や靴など身に付けている物から、それなりの人物、

例えば一流企業の重役や社長などではないかと、道摩は観ていた。

道摩のオフィスに男の知己の住職からの紹介で、相談に来たのだという。


男の顔には、不安と、焦り、そして何より「不信感」が見て取れた。

「あの、この様な事がその……本当に有るのでしょうか?」

男がおずおずと口にした。

「詳しく聞かせて下さい。判断するのはそれからです」

道摩は淡々とした口調で男にそう告げた。



「ああっ……うっ」

薄暗い部屋の中で、女の呻く声が響く。

同時に、ぐちゃ、とか、にちゃ、といった咀嚼音も響ている。

バキッ。カリ、カリ。

何か堅い物を噛む様な音がする。

そして咀嚼音。

合間に女の声が響く。

明らかにそれは、愉悦に浸る声で有った。

バキッ。カリカリ。

音が響く。

そして咀嚼音。

女の声。

男は、妻である女の足を喰らっていた。

既に右足の中指、薬指、小指が無くなっていた。

男が足の指に噛み付き、食いちぎる度に、女は官能の声を上げた。

何故こんな行為でそんな声を出すんだ。

男は苛立ち、そして無性に哀しく、悔しかった。

何故なら男との夜の営みに於いて、女はそんな声を出した事が一度も無いからであった。

おんおんと男は泣いた。

妻をセックスで満足させることが出来ない自分が情けなく思えた。

本当はこんな事はしたくない。

それでも何故か行為を止めることが出来ない。

バキッ。カリ、カリ。

更に、足の人差し指が食いちぎられ、女が一段と大きな声を上げた。

「そんなにコレがイイか?ああ?なら、もっと喰らってやる!」

男は吼え、血まみれになりながら残された親指に食らいついた。



携帯にセットしたアラームの音で目が覚める。

男―篠原大輔は、ぼんやりした頭で今見た夢を思い出そうとしていた。

何か酷い夢を見ていた気がするが、それがどんな夢なのか全く分からなかった。

眼が痛い。

涙で枕が濡れている。

―泣いていたのか?

考えがまとまらないでいると、

「起きたぁ?」

妻の由香がドアを開け、間からひょっこり顔を出した。

「ん?ああ。今起きたよ。」

「そう。コーヒーとパン焼いたから食べてね。」

「分かった。今行くよ。」

篠原はベッドから降り居間に向かった。

結婚してから三年。

大輔が28歳、由香が26歳の時だった。

テーブルに付くと、トーストとハムエッグ、コーヒーが並べて有り、

コーヒーからは湯気が立ちのぼっていた。

「美味しい?」

正面に座る由香が聞いてきた。

「いや、まだ食べてないし…」

「ふふっ。そうだけど、美味しいって言わないとダメだよ~」

「ん?ああ何だよそれ、面倒くさいなぁ」

大輔は一口コーヒーを飲み、答えた。

由香はちょっと頬を膨らませて抗議し、先に食べ終えていた自分の食器を片付ける為に席を立った。

その瞬間。

「ッ痛」

由香が苦痛に顔を歪ませた。

「どうした?」

「何か今朝から右足の指が痛くて…」

「指?どの指?」

「右足の指全部」

「指だけ?痛風じゃない?」

「何でよ!そんな年じゃないし、そんな食生活もしてないじゃない。あたしが痛風なら、お酒飲むあなたの方がとっくになってるわよ」

「それもそうだな」

由香は思い切り頬を膨らませながら、右足を少し庇いキッチンへと食器を運んだ。―まあ、大方どこかにぶつけて今頃痛くなったんだろう。

大輔はそう思いながら新聞を広げ、出勤の為に家を出る頃にはすっかり、

夢の事も由香の足の事も忘れていた。


大輔は夢を見ていた。

血まみれになり、涙にまみれながら、由香の肉を喰らっている。

由香は大輔に歓喜の声を上げる。

大輔はその度に、興奮し、嘆き、加虐心を加速度的に発達させ、貪る。

コレがイイのか?喰われる事がそんなにイイのか?と大輔が問う。

由香は、イイッそれがいいの。

と懇願する。

大輔はその答えを聞き、自分の性戯に満足しない妻への、

言いようのない憎悪を膨らませていく。

気付けば既に、由香の右脚の膝から下が無くなっていた。


朝、目を覚ますと由香の様子がおかしい。

右脚の膝から下が痛いという。

起きてから何か大事な事を忘れている様な気がしていたが、

大輔は仕事を休み病院に連れて行くことにした。

2時間程待たされた病院での検査の結果はであった。


大輔の夢は続いていた。

朝起きると内容はすっかり忘れている。

だが、夢を見ていた事だけは分かる。

目覚める度に由香の容態が悪くなっていく。

今や痛みは下半身全体に及んでいた。

に噛まれている様な痛みだという。

診てもらう病院も転々としたが、原因は一向に分からないままだった。

精神的、肉体的な疲労が募り、

大輔は日中でもうつらうつらする様になっていた。


―これからどうしたらよいのか。

大輔が居間の椅子に座り、テーブルに両肘をつき頭を抱えていた。

由香は家に居る。

原因が分からず、病院で出来る事も無い為に自宅で静養している。

先ほど夕飯を食べさせて、今は眠りについている。

疲れていた大輔は、いつの間にか首を垂れはじめ、舟をこぎ始めた。

船をこいでいた首がガクっとなって、眼を覚ました。

大輔の眼の前に一人の僧が座って居た。

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