第7話公「公安と神父」

二日後の午後。

市川警部補の元に新たな人物が訪れた。

その男は、

「クリス井上です」

金髪碧眼で、20代後半に見えるその男は流暢な日本語でそう名乗った。

男の格好を見て市川警部補は言った、

「あんた……本物の神父さん?」

「はい。その通りです」

市川警部補は天を仰ぎたい気分になった。

怪しい自称探偵の次は、神父が来たのだ。

―公安の奴ら何を考えてやがる。

「で?何をお望みだい?神父様」


神父の望みは自称探偵の田中と同じく、現場へ一人で行く事と、事件現場の地図だけであった。

「神父さん。余計なお世話かもしれないが、一応忠告しておくよ。何日か前にも同じように一人で公園に行った奴がいるが、口裂け女に体を縦に真っ二つされちまった。おまけにまだ死体は回収されずに公園に転がってるんだ。それでも一人で行くのかい?」

神父は市川警部補の言葉に頷いて言った。

「ええ。もちろん。市川警部補ご心配には及びません。神は乗り越えられない試練は与えませんから」

「そうかい。それにしちゃバンバン人が死んでいるんだが……まあいい。で?いつ行くんだい?」

「はい。これから連れていって下さい」

―ふう。またかよ。

「分かった。ちょっと待ってな。支度してくるんでね」

神父はにっこりと微笑みながら頷いた。

 

公園に着くと、神父に市川警部補が無線を手渡した。

「神父さん。何かあったらすぐに呼んでください」

「分かりました。ありがとうございます」

公園に向かうまでの道すがら、神父は公園内の事件現場と資料を読み込んでいた。

神父は「口裂け女」の現場には向かわずに、赤マントの男の現れた現場に最初に向かうことにした。

神父の持つ能力との相性が悪いと感じたからである。

10分程歩いて、問題の現場に着いた。

池の水は抜かれたままで魚の姿は無い。

巨大な人面魚の心配はなさそうであった。

どうやって赤マントの男を探すかと、神父が思いを巡らせていると、

神父は、後ろに人の気配を感じて振り向いた。

そこには、腕組みをして立つ、軍帽を被り日本軍の将校姿の仮面を被った男が居た。

肩にはマントをしており、風にすこし煽られて裏地の赤い色が見える。

「わざわざ来てくれた様ですね。コスプレですか?それにしては良く出来てらっしゃる」

神父の嘲る様な挑発にも、赤マントの男は動じて居ない様だった。

神父は両手をポケットの中に入れて、何かをポケットの中で手に付けた。

そのまま一歩後ろに下がり右手を前に出し半身で構えた。

構えた両手には、カイザーナックルが付いていた。

よく見ると、カイザーナックルの拳の部分に十字架が刻まれている。

そして、カイザーナックルの素材は銀の様であった。

身長185センチ85キロ。

ヘビー級としては小さいが、ヘビー級のパンチ力は十二分にある。

神父は、闘うエクソシストなのだった。

刃物を持つ「口裂け女」を避けたのは、肉弾戦で刃物に立ち向かうのは不利だからである。

だが、被害者を撲殺したとなれば十分に渡り合える。

神父はそう考えた。

赤マントの男は、身長175センチ前後体重は重く見積もっても、65キロから70キロといったところだろう。

体重が70キロ前後のクラスのプロボクサーならば、当たればヘビー級でも倒せるパンチ力にはなる。

だが、神父には当てさせない自信があった。

リーチが15センチは違う。

それに、カイザーナックルは防げない。

ジャブですら、ブロックした腕ごと破壊する。

魔物ならば、十字架の部分が効力を発揮する。

闘う前から神父は勝利を確信していた。

神父は軽く前後にフットワークを刻んだ。

「シッ」

一気に間合いを詰め右手でジャブを放つ。

手ごたえは無く、パンチは空を切った。

赤マントの男は、何事も無いかの様にひょいと上半身を後ろに反り返らせて避けたのだ。

神父は躱されたと思った瞬間に、一歩下がっていた。

本能的に下がったのだが、正解だった。

ブンッと音がして、目の前をパンチが通り過ぎた。

赤マントの男は体をそり返しながらも、同時にアッパーカットを放ってきたのだ。

神父は一瞬のやりとりで、赤マントの男の身体能力に驚愕した。

上半身を反ったまま強いパンチを撃つ。

通常であれば、手打ちになり威力は無い。

だが、パンチが空を切る音が、当たればただでは済まされないと言っている。

ボクシング界の希代の天才ナジーム・ハメド。

軽量級でありながらボクシングのセオリーを無視したかの様な戦いぶりで、

KOの山を築き、3団体統一チャンピオンに上り詰めた男。

彼以外に、そんな事が出来る人間を見た事がなかった。

神父は楽勝で勝てるという考えを捨てた。

ナジーム・ハメド級の天才ならば、カイザーナックル付きでも自分の勝利は危ういかもしれない。

―逃げるか。

神父は一瞬そう考えた。

だが、一瞬でも後ろを見せて、この驚異の身体能力の男から逃げられるだろうか?

―否。

ナジーム・ハメド級とは決まっていない。

天才は簡単には出てこないが故に天才なのだ。

それに……

神父はもう一度呼吸を整えた。

全身の力を出来るだけ抜く。

フットワークが先ほどより早くなる。

「シィッ」

もう一度右手でジャブを撃った。

先ほどのジャブより数段早い。

そしてすぐに手を戻しつつ、半歩下がる。

カウンターをもらわないためであった。

神父のパンチは避けられた。

顔を振って躱されたのだ。

だが、先ほどと違いカウンターのパンチは飛んで来なかった。

ナジーム・ハメドは、現役中に一度だけ負けている。

それは徹底的に出入りの激しいボクシングをされたからである。

今の神父の戦法がそれであった。

神父はナジーム・ハメドを尊敬していた。

ボクシングを始めたのも彼に憧れての事だった。

だからこそ、彼が負けた試合も知っていた。

そして、ナジーム・ハメド相手にこの戦法をやり続けることの困難さも。

この戦法はスピードを最大限に活かす為に、多少パンチが軽くなる。

だが、ヘビー級のパンチ力とカイザーナックルが破壊力を補ってくれる。

問題は、スピードを上げたのにも関わらず当たらない事であった。

神父は構わずもう一度飛び込んだ。

今度は、右からのワンツーで、左のストレートも混ぜる。

赤マントの男は、いずれも顔を振っただけで、何なく躱した。

恐るべき動体視力と、反射神経である。

しかし、神父には想定内であった。

ワンツーで、引き戻した右手でリバーブローを撃った。

顔面に意識させての、ボディ攻撃。

上半身を動かして躱す事は出来ない。

絶対に当たる。

そう確信した刹那。

神父は腹に、途轍もない衝撃を受けた。

赤マントの男が、右に移動しながら踏み込み、左のボディストレートを撃ったのであった。

神父は、膝を付きそうになるのを必死にこらえた。

胃の中のものを全部ぶちまけそうになった。

神父は追撃を避ける為、なんとか両手でガードを固めた。

初めて神父は恐怖というものを覚えた。

赤マントの男は追撃せず神父を見ていた。

仮面の下からのぞくその眼には、嘲りの色があった。

そんなものか。

必死でガードした神父の姿が滑稽だと言わんばかりであった。

そして、ノーガードで神父に無造作に詰め寄った。

撃ってみろ。無言でそう言っている。

神父は怒りで、痛みと恐怖を忘れようとした。

この男には、思い知らさねばならない。

―絶対に這いつくばらせてやる。

怒りでアドレナリンが大量に放出され、痛みと苦しさが束の間和らいだ。

声にならない咆哮を上げ、神父はパンチではなく、タックルに行った。

最早、得意のボクシングにこだわるのは止めた。

凄まじいスピードのタックルが赤マントの男に決まった。

だが、赤マントの男は倒れなかった。

神父は渾身の力を込めた。

だが、持ち上げようとしてもびくともしない。

大地に根が張ったかのようである。

赤マントの男は、ただ立っているだけである。

脚に懸命に縋りつく神父を見下ろして、やれやれといった感じで首を左右に振った。

そして、神父の襟首を片手で掴み持ち上げた。

体が赤マントの男から離れた瞬間に、赤マントの男は右足で神父の顔を蹴り上げた。

鈍い音がして、神父の首が真後ろに折れた。

そのまま神父は両ひざを付き、前のめりに倒れた。

まるで、神に懺悔を請う様に。

神父は絶命していた。


神父が公園に入ってから4時間後。

車で待機していた市川警部補は、無線を取り出して神父に呼び掛けた。

だが、何度呼び掛けても応答は無かった。

またどこかで公安の二人が張り込んでいるのであろう。

市川警部補はそう思ったが、形式的に課長に連絡をした。

すぐに、公安の二人組が現れた。

「知っているかもしれんが、神父が公園に入って四時間程経つが、連絡がつかない。どうするかね?」

公安の二人組は頷いた。

「実は、すでに確認済みです」

山村が淡々と言った。

「何?確認済?それは一体……」

「市川警部補には、お伝えしていなかったのですが、実は今回、公園内に神父が入るのと同時にドローンを飛ばしていまして、追跡をかけていました。その結果、神父は犯人と格闘の末、殺された模様です」

「な、なんだと?何時だ?神父が殺されたのは?」

「公園に入ってから、恐らく15分から20分程です」

「そんなに早く?なら何故すぐに、知らせてくれないんだ?」

「確証がないからです。ドローンの映像だけでは、限界がありますので。市川警部補が渡された無線に何の反応も示さないので、これにより死亡している確率が高まりましたので、私達が出てきた次第です」

「そうかい。慎重なんだな。んで?神父の遺体もほったらかしかい?」

「はい。致し方ありません」

赤マントの男が神父にしたように、市川警部補はやれやれと首を振った。


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