夏の始まり

「あれあれ? お兄ちゃん、美歌ちゃん。真奈海ちゃんを見ませんでしたか?」


 管理人さんともう一人のあたしがそんな会話をしていると、喫茶店『チロル』に糸佳ちゃんがやってきた。まだピンク色のパジャマを着たままの糸佳ちゃんの姿は、女子高生のそれというより、どこかの女子中学生かとも思わせる、そんな幼さがちらついている。今や大人顔負けの名作曲家とはとても思えないほどだ。


「僕はまだ見ていないぞ。真奈海のやつ、まだ自分の部屋で寝ているんじゃないか?」


 昨晩は遅くまで、七夕ライブの打ち上げが行われていた。『BLUE WINGS』の千尋さんと胡桃さん、そして先日歌手デビューしたばかりの茜ちゃんが駅前のビジネスホテルに向かったのは、日付が変わってからのこと。そんな打ち上げの次の日だから、まだ真奈海さんは寝ていてもおかしくはない。


「でもでも、それだといろいろおかしいです!」

「なにが?」


 糸佳ちゃんの慌てた素振りの否定に、管理人さんは思わず素のツッコミを返す。


「真奈海ちゃんの部屋をノックしても、全然返事がないんですよ!!」

「そりゃ昨日疲れて、ぐっすり寝ているだけだとか?」

「そんなの、真奈海ちゃんに限ってありえないです!!」

「なんでだよ!?」

「真奈海ちゃん、寝付きが早くてそのくせ寝起きは素早い、超チートキャラなんですから!」

「いやいや、こういう場面で『チートキャラ』って言葉を使うのか!?」


 管理人さんがそれこそ素早いツッコミを返す。糸佳ちゃんは小さな子供のようにむくれ顔を返してみせているけど、それはきっと糸佳ちゃん本人が完全夜型の女子高生だからだろう。確かに夜遅くまでチロルハイムの地下スタジオで作曲活動をしているの、あたしもよく見かけるしなぁ。


「それにお兄ちゃんのくせに真奈海ちゃんのそういう性癖を知らないなんて非常識です!」

「ん? 僕のくせに性癖が非常識で……なんだって??」

「お兄ちゃんだったら真奈海ちゃんのこと何でも知ってるはずですよね?」

「おい、糸佳……?」

「いやいや、知ってるべきなんです! お兄ちゃんは真奈海ちゃんのことを……」

「……ちょっと待て糸佳。それ、話が絶対逸れてる!!」

「え、そうですか??」


 糸佳ちゃんはどこかきょとんとしている。冷静なのか冷静じゃないのか……


「そもそもどうして真奈海のことを探してたんだ?」

「……あ、そうでした。話の内容、すっかり忘れてました!!」


 ……いや、やっぱし明らかに冷静じゃなかったよね糸佳ちゃん。

 管理人さんの一声で、やっとのことで冷静さを取り戻した糸佳ちゃんは、ようやく話を振り出しに戻した。それにしても糸佳ちゃん、一体何故どっちの方向へ暴走していたのだか。


「昨晩、寝る直前のことなんですけど、真奈海ちゃん、様子おかしくなかったですか?」

「え…………?」


 その話の振り出しというのは、本当の意味で始まりに過ぎなかったわけで――

 これが今夏チロルハイム最大の騒動の前触れとは、誰一人わかってなかったんだ。

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