月光夜曲〜ムーンライトセレナーデ

楠瀬スミレ

第一章 杏奈

第1話 「漢陽の華」のジン

 杏奈は暑さで目が覚めた。なぜか土の上に倒れていて、蝉の声が聞こえる。太陽が照りつけ、肌を焼いていた。暑い。冬なのに夏のように熱い。激しい頭痛。朦朧とする意識の中ですぐに動けず、横になったまま目を開けると、ぼやけた視界に見慣れないものがだんだんと形を成してきた。茶色い土の壁に藁ぶき屋根の粗末な家。障子のように紙が貼られた扉は格子がひし形で細かく、日本のものとは様子が違っていた。そして、アスファルトではなく、土の上にいる。手に当たる土のざらざらした感触。さっきまで、かじかむ手をこすって白い息を吹きかけながら信号待ちしていたはずなのに、今は真夏のような耐えがたい暑さだ。ここはいったいどこなんだろう。何が起こったのか。


 横たわったまま起きられない杏奈をのぞきこむ者がいた。男だ。髪を頭の上で一つにまとめ、鉢巻のようなものを巻いていた。韓流時代劇に出てくる、庶民の装いだった。


「おい、大丈夫か? ちょっと待ってろよ。おーい、兄貴!」


 その小柄な男は家の中へ入って行き、やがて背の高い男と一緒に出てきた。頭痛に耐えながら杏奈は様子をうかがっていた。


「兄貴、どうしましょう?」

「中へ連れて行こう! インス、手伝え」


 背の高い男は杏奈を抱き上げた。杏奈は知らない男に身体を触られたくなかったが、身体に力が入らない。


「兄貴、家はまずいですよ。兄貴は男の一人暮らしですよ。この子、こんなに厚着しているのに、俺たちが脱がせるわけにいかないし、ここはヨンジャおばさんに任せましょうよ。」

「お前のおばさんか。そうだな。よし、すぐ運ぼう!」


 この声……聞いたことがあった。杏奈はその声の響きが懐かしかった。その声の主は、小柄な男に手伝ってもらって杏奈を自分の背中に乗せ、すぐ近くにあるヨンジャが営む食堂に運んだ。


 ヨンジャの店は藁ぶき屋根につやのない素朴な木の柱、土を塗った茶色い壁の建物で、荒い木の柵をめぐらせた敷地には、木製の簡単なテーブルと椅子が並べられており、客は屋外で食事をするようになっている。これも韓流時代劇ではおなじみの光景だ。ちょうどヨンジャは外のテーブルの食器を片付けているところだった。騒々しく入ってくる物音に驚き、太った体をよいしょと起こした。


「いったいどうしたんだい。騒々しいね」

「おばさん、この子、助けてやってくれ! ジン兄貴の家の前に倒れていたんだよ!」

「おや、大変だ! こっちへお入り!」


 ヨンジャが建物の入り口である、障子のように紙を貼った薄い扉を開けると、ジンは杏奈を背負ったまま中に入った。そして杏奈を床に寝かせたが、杏奈はさっきよりぐったりしていた。


「ヨンジャ、頼む。早く服を脱がせて、水を飲ませてやってくれ。」

「あらやだ、この子、変な格好してるわね。なんでこの暑いのに綿入れなんか着てるの。それに、何? このチマ(朝鮮の民族衣装のスカート)は。子供用かしら? えらく短いわね。」


 杏奈は白いダウンジャケットの下に赤いタートルネックのセーターを着て、ふんわりした膝丈のスカートに赤いタイツをはいていた。


「この子、この暑さなのに、こんな格好でいたせいで倒れたんだと思う。早く涼しくしてやってくれ。命に関わるから。」

「わかったわよ。すぐにやるわ。あんたたち、外に出てな!」


 ヨンジャはすぐに杏奈の服を脱がせ、薄い衣を着せ、少しずつ水を飲ませてくれた。


「ジン、インス、入ってもいいよ! あ、目が開いたよ。あんた、大丈夫?」


 二人が外から入ってきた。誰かが扇ぎ始めたのが分かった。涼しくて心地よい。ヨンジャではない。ヨンジャは反対側に座っているから、大きいほうの男のようだ。


 杏奈はなんとか目を開けることができた。あの声の主はいったい誰……? 視界がはっきりしてくると、そこには……なんと! あの人が座っていた!


「お前、俺の家の前で倒れていたんだ。大丈夫か?」


 そう言って覗き込んだのは、ジン! 日曜日の夜10時、テレビドラマ、「漢陽の華」に出てくる杏奈の推し、愛するジンがいた。







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