ティアリース〔冠を頂く者〕

雨乃白鷺

天臨む愚者〔Awaken_the_Longinus〕

プロローグ 崩壊

 子供は亀裂が走る道路の端で膝を抱えて腰を下ろし、光彩無き瞳でもって世界を眺めていた。


 ――人間がいる。

 服から覗く腕や足は皺枯れ、眼球がせり上がっている老いた男。力無く地面に倒れ込んで、起きる様子など微塵も見せない。ひっきりなしに咳をしている様子から、もはや先は長くないだろう。


 ――人間がいる。

 煤や土で汚れた服を身に纏い、赤らんだ顔に虚ろな目を宿して「酒を寄越せ!」と吠える若い男。道に転がる人間に絡んでは暴力を振るう姿は飢えた狼のようだった。

 若い男が掴み上げていた人物を放り捨てる。歩みがこちらに向かって来ていることを理解した子供は静かに立ち上がると、気配を消してその場を去った。


 歩く子供は、様々な人間を目にした。

 擦れた呻き声を上げる、若い女と男の大人二人組。げっそりと痩せて頬骨が浮き彫りになっている顔は、生きていく上での栄養が足りていないことを理解させるには充分だった。

 地面には大して機能もしないであろう薄手の毛布。その中には離乳食をようやく卒業したであろう幼児の姿。泣き声も上げず、指一つ動かしやしない。その体は白く青ざめていた。


 外れの小道には二人の男性。どうやら食料の取り引きをしているらしく、その値段で言い合いになっていた。

 怒号が飛び交い、次の瞬間甲高い打撲音が細道を通り抜ける。鉄パイプを持った男は倒れ伏した売人の懐を漁り、小分けされ袋に入れられた乾パンを見つけると一心不乱に喰らいついた。目を凝らして見れば、その男の爪先は土と樹皮のようなものがこびり付いている。植物の根を掘り返して食べている人間に見られる特徴だ。

 彼が視線に気付いたようで、食事を中断するとそそくさと道の先に消えていく。それを咎める人間は存在しなかった。


 大通りに出れば鼓膜を破壊せんとばかりの怒号が空気を揺らす。臨時設置された関門所にはデモ隊が押し寄せ、一丸となって声の大砲を放っている。掲げているプラカードには『生きさせろ!』『食料と水を!』『安全を!』と書かれていた。破壊痕が目立つ道は生き延びた人々が座り込んで埋め尽くしていた。


 空いている建物など腐るほどある。しかし道路に座り込んだ人間のほとんどは入ろうとしない。その理由は簡単で、アパートやビルは一つの例外もなく損耗しているからだ。確かに雨風は凌げるが、いつ棺桶に変貌するかも分からない建造物に身を寄せるのは覚悟が必要なことだった。


 道路の下手には広大な更地。元は自然公園として美しい花を咲かせ人々を癒していた空間が、今では影も形も無い。中心に焚かれた火の輝きが煌々と周囲を照らす。その切れ間から見えるのは人間の輪郭。今もまた遺体が一つ、炎の中へと投げ捨てられた。肉が焼ける匂いに吐き気を催す人間がちらほらいるが、口から出てくるのは胃液だけだった。


 こんな光景が繰り広げられているのが世界一平和だと言われた国である日本、それも都市近郊だというのだから笑えない。

 明日を拝めるかも分からない恐怖と、生き残ったところで何も無いという絶望。それが今を生きる人々に共通した感情だった。


 子供は地面に落ちた少し大きめのガラス片を覗き込み、自らの姿を観察した。

 肩口まで伸ばされた黒髪に、男とも女とも取れる中性的な顔立ち。唇は青ざめ、頬骨がエラのように張っている。

 白目の部分は充血して真っ赤に染まり、肌は荒れて逆立つ箇所もある。生きるための栄養が足りていないことは明白だった。


 それらを確認すると道端の一角に腰を下ろす。同時に訪れる精神の沈没。自然のままに意識を手放した。





 子供が夢に見るのは、『クリスタリア』によって世界が崩壊した日。

 春の終わり。都会とも田舎とも言えない場所に建てられた普通の一軒家。そこに一つの家族が住んでいた。

 両親が仕事で出払い、十歳の姉と八歳の弟でテレビを見ていた休日の昼下がり。世界人口が百億人を突破したとして大々的に取り上げられ、画面の向こうでは様々な分野の専門家たちが食糧問題や環境破壊について議論を交わしていた。その内容は小難しく、とても面白いとは感じることは出来なかった。

 二人は窓から覗く青空を見る。最早日課と言えるほど繰り返した行動だった。

 両親は宇宙に関わる仕事をしており、家にあった星座図鑑などを見るうちに空のことが好きになっていた。姉弟一緒に空を眺めて一日が過ぎることもザラにあった。科学技術が一層発展し流れが加速する現代社会において、まったりと過ごす時間が自分たち姉弟の楽しみだった。


 だが、その日は姉弟にとっても看過できない異変があった。

 雲一つない晴れ空の中、黒光が尾を引いて流星が翔けている。その大きさはかつて望遠鏡で見た流れ星の比ではない大質量の隕石。まるで空に穴を開けるような色が何よりも不気味で、自身の目を疑ってしまう。


 次の瞬間、閃光が弾けた。

 四方八方に飛び散った十一の凶星。それは質量を保ったまま地球へと下降を始める。

 その時慌ただしい音と共に両親が家に駆けこんで来て自分たちに言った。「今すぐ逃げるぞ」と。

 纏められた荷物を乱暴に詰め込み車に乗り込む。搭載されたモニターに映っていたのは世界各国の領域が黒い煙を上げて崩壊していく様子。


 舞い散る火の粉と噴煙の中に居たのは、宝石の化け物だった。

 四つの足を道路に食い込ませ、発達したたてがみを鎌のように振るう獣。向かう先にいた人間の集団がまるで豆腐でも切るかのように真っ二つにされ、片っ端から切り殺されていた。


 寒気が脊髄を突き抜ける。体は震え、小刻みに歯が擦れてガチガチと音を鳴らす。

 止めようと思って止められるものでは無かった。何かの特撮番組なのだろうと思いたい。だが、遠方に上がる黒煙が車窓から見えてしまう。それは奇しくも隕石の破片が落ちた場所の一つだった。

 テレビに映っていた光景が世界各地で巻き起こっているなど、信じたくも無かった。


 辿り着いた場所は血縁の遠い親戚の家。その頃には街中に警報の音が響き渡り、テレビの生中継が引っ切り無しに世界の異変を捉えていた。


 両親は自分たち二人を力いっぱい抱き締める。いつもより強い抱擁に息苦しさを感じて顔を動かすせば、両親は涙を零していた。

 両親が涙を流している姿を見たのは、その時が初めてだった。

 十秒か、三十秒か、はたまた一分か。時間が経つと力を緩め面と向かい合う。


「恨んでくれて構わない。それでも……生きることだけは諦めないでくれ」


 父親から発せられたその言葉に込められていたのは悲嘆か、憤怒か、慈愛か。自分たちは立ち去っていく両親の背中を見ていることしか出来なかった。


 ――六日後。国が発表した犠牲者リストの中に、両親の名前が載った。





 子供はゆっくりと瞼を持ち上げる。周囲の光景は意識が落ちる前と変わらず荒廃としていた。目を逸らすように懐から一枚の写真を取り出す。

 それは家族全員で行ったピクニックの帰りに撮った記念のもの。全員が笑顔を咲かせる光景は、幸せという他なかった。


 その日の出来事は昨日の出来事のように覚えている。仕事で毎日が忙しかった両親が一日丸々休みを取ってくれて、少し遠くのピクニック場へと出かけたのだ。

 訪れたキャンプ場は短い草花が彩る見晴らしの良い場所で、自分たち以外にも家族連れで訪れている人たちを多く見かけた。走り回って遊んだ後、昼食には母親が朝早起きして作ってくれた大好物のサンドイッチが待っていた。

 独自のレシピで作られたたまごサンドの味は無限に食べられるほど美味しかった。帰りは疲れ切って車の中で熟睡し、そのせいもあって夜は寝付けなかった。

 姉弟二人で両親の望遠鏡を自室に持ち運んで星を眺め、その後は肩を預け合って夜を越したのは貴重な経験だった。


 胸を苦しめる張り裂けそうな痛みに視界が滲む。目尻から溢れた雫が次々と落ちていく。

 一度決壊した思考は留まる所を知らずに溢れ出て、渇いた皮膚を湿らせると同時に心を干上がらせていった。


 家族四人で過ごす日常がどれだけ尊く大切なモノなのか、失ってから初めて気付いた。当たり前の日々に帰りたくて堪らない。

 こんなふざけた世界は悪夢なんだ。次に目が覚めたら全部綺麗に消え去って、元通りになっているんだ――そう願わなかった日は無い。

 しかし現実は残酷だった。眼前には瓦解した現代社会が広がるだけ。目を閉じようが、獣じみた怒号と泣き声が耳を犯してくる。

 迎えも無ければ助けも、救いも無い。生きるために他者から奪う事を躊躇ためらいもしないやから跋扈ばっこする様は、まさに修羅地獄。


 その時腹部に走る捩じ切らんばかりの激痛。立っていることすら儘ならなくなり地面に倒れ込んだ。

 今日あった一週間に一度の配給。その帰りを刃物を持った大人に襲われ食糧を奪われたのだ。

 生き物は空腹には勝てない。生きるためにはエネルギーを必要とする。地面の亀裂から顔を覗かせる雑草を片っ端から引き抜いて喰らって飢えを凌いだ。

 それに加えて、渇く喉を潤すため僅かに残された樹の根を手で掘り返し、表皮を剥いて汁を啜った。

 子供を苦しめているのは、生きるためにとった行動の代償だった。


 食い縛った歯が鳴らすギチギチという不快な音が脳を揺する。握られた手のひらに爪が食い込むが、小さな子供の力で繰り出す自傷などで誤魔化せるわけもない。

 明滅する意識の中、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。

 誰もが生きることで懸命、他人を助ける余裕なんてありもしない。狭窄きょうさくし明滅する視界に映った人々は、倒れる子供の事など見向きもしていなかった。

 生死の境を彷徨うこと五分強。体感では無限とさえ感じた苦痛から解放された先に待っていたのは、極度の嫌悪感だった。

 服は脂汗でべっとりと濡れ、喉はカラカラ。唾液も出ず、口内を湿らせることすら身体は許してくれなかった。直後に訪れる視界不良は水分が足りていないがために起こる症状だった。


 水分を補給しなければ。子供は覚束ない足取りで地面の小さな水溜まりに近付き――そして気づく。

 それは光を反射していた大きなガラス片。暗雲立ち込める世界を、その表面に映し出していた。


「……は、はっ」


 発せられたのは果たして嘲笑か嗚咽か。薄汚れた壁に背を預け、ずり落ちながら腰を落とす。

 全てを投げ出したくなる激情に駆られた回数など既に数えきれない。だが、決まって胸に巣食った「生きることだけは諦めるな」という父親の言葉が想起される。


 ああ、なんて無責任で残酷なのだろう。

 まるで死ぬことを許されない生き殺しののろいだ。感情が行きつく先はいつも体外に排出される水分で、それが更に体を蝕んでいく。

 されど対照的に心は燃え盛る。絶対に生き残ってやるという反逆心が心臓を突き動かすのだ。


 政府の発表では日本領土の六十パーセント以上が侵略され、自国戦力は陸海空の全てが壊滅判定の損耗を受けたとのこと。毎日夥しい数の人間が死に絶え、血と業火が世界を赤く紅く塗り潰す。

 日本を侵攻するクリスタリアも自分たちがいた区域を襲撃。混乱の渦に巻き込まれ、気付けば離ればなれになってしまった。

 家族全員が生存不明、行方不明。再会は絶望的な状況だった。


 ――だが、それがどうした。

 この目で死体を見たわけじゃない、限り無くゼロに近い確率だとしても諦める気にはなれなかった。絶対に家族と再び暮らすのだと自分に言い聞かせる。

 願いをくべて燃やす生命の炎はしぶとく残り続け、醜い獣性に満ちた世界と対面する度に勢いを増していった。

 だが、体の限界は直ぐそこに迫っていた。


 大した栄養も摂取できない身体は壊れかけのブリキ人形のようで。内臓器官は度重なる無茶のせいで機能不全を起こしている。

 意識が混濁する頻度も増えて、長ければ半日も意識が吹き飛ぶこともあった。子供の精神論で貫き通せる範囲はとうに超えてしまっていた。


 突如自衛隊が持ち込んだスピーカーからサイレンが鳴り響く。一帯に狂乱の嵐が巻き起こり、人々は一斉に走り出した。

 向かう先はばらばら。押し合いへし合いになり、まだ小さな子供や衰弱した老人などは真っ先に淘汰される。つい先ほどまで生きていた命たちが踏みつけにされ、地面に打ち捨てられる。


 何の前振れも無く空中に現れた巨影が地に堕ちる。異物入りの豪風は子供の体を壁へと押し付け、切り裂き、その力を余すことなく伝えた。

 酸素を求めて腕越しに息を吸い込む。薄っすらと目を開け、巻き上げられた土煙の中から影の正体が現れる。


 ――それは、遥か巨大な体躯を持った人型の災害。

 檸檬れもんため橄欖かんらん漆黒しっこく、それらの色が絶えず体内で流動している。さながら透き通った繭を纏うさなぎ。混沌という言葉がこれほど似合う存在は二つとないだろう。

 遠くに居ながら首を痛めるほど見上げた先。その顔には一つの混じりけもない透明な結晶体が一対、星の如き光を煌めかせている。

 間違いない。ヤツだ。ヤツこそ世界を追い詰める原因となった一体。日本に数多の獣を撒き散らす災厄。

 視線を下ろせば、巨人の足元は陥没している。ほんのさっきまで存在していた街の一角が、一瞬で廃墟と化していた。

 遅れてやってきたのは異形の怪物。クリスタルガラスの彫刻が如き見た目と裏腹に、煌めく体躯全てが凶器だった。


 殴り、抉り、蹴り、斬り、潰し、突き進む。奴らのわだちには命の残骸が転がるだけ。

 巨人が歩いた跡に残るのは、罅割れた大地と紙のように薄い物体だけ。


 警報と人々の叫びに混じって耳に届くのはキャタピラの駆動音。二十を超える重量戦車と自走砲が戦型を組んで河川敷に整列し一斉砲撃を開始すると同時、黒雲を切り裂き現れた自国の支援戦闘機群が到着した。

 降り注ぐは徹甲弾とミサイルの雨。しかし巨人にはまともな傷一つ付きはしない。

 巨人が手を開く。その手中に、水晶で形作ったような西洋剣が現れた。

 そのまま横薙ぎ一閃。先端速度は音速を超え、陸上部隊が一瞬にして崩壊した。

 続く二振り目。剣から射出された礫が散弾として空を敷き詰め、戦闘機を三機ほど撃墜する。

 人類が今まで積み上げてきた叡智が、技術が、いとも容易く打ち砕かれていく。

 紅蓮の炎が染める世界を悠然と歩む巨人を見て子供ながらに察した。人類は、遂に滅びを迎えるのだと。


 戦車ですらああなのだ。一度大きな挙動を見せれば、自分たち人間は塵紙のように吹き飛ばされてしまう。

 まさしく風前の前の灯。最早逃げる気にもならなかった。

 自分はもう十分に頑張った、楽になってもいいだろう。甘い言葉が無意識に囁かれ身体機能が著しく低下していく。


 意識が消えるその寸前、子供は視界の中にあるものを捉えた。

 巨人が腕を伸ばす先にいた同じくらいの子供が、怪我をした右足を引き擦りながらも一心不乱に逃げようとしていたのだ。


「――――――ッッッ‼」


 尽きかけていた炉心の火が爆発的に膨れ上がる。もう限界であるにも関わらず、そんなことは知るかと身体は動き出していた。

 立ち上がったところで左腕に感覚が無いことに気付き視線を移す。巨人襲来の際に飛んで来た木片が深々と突き刺さっており、真っ赤な血がドクドクと流れ出していた。


 もう自分は生きられない。漠然ながら、自らの運命を悟った。

 ならば、せめて最後くらいは、他人の役に立とう。

 こんな馬鹿げた世界だが、あの子くらいには救いがあっても良いはずだ。だって逃げようとしているということは、生きようとしていることの証明に他ならないのだから。


 足元に転がる石を右手に取って小さく助走をつける。骨が軋む音が聞こえるが、そんなことはどうでもいい。

 持てる力を全て使って構えた腕を振り抜く。斜め上に射出された石ころは不安定に揺れながらも、巨人の爪先に落ちて当たった。

 それはあまりにも小さく、か弱い一射。巨人からしてみればそよ風にも足りない、蝶の羽ばたきが如き波紋。

 だが、巨人は動きを止めた。伸ばしていた腕を引くと、水晶の眼でもってゆったりと周囲を見渡す。

 そして遂にその瞳が子供を捉え、暗黒と透明が間隙に交差する。

 迷い無く伸ばされる腕。開かれた手は大きく、一度その中に収まれば簡単に握り潰されてしまうだろう。


 立つだけの力を失った体は、たまらず仰向けに倒れる。文字通り、先ほどの投擲で限界まで力を振り絞った。

 胸に満ちるのはあの侵略者の意識を此方に向けさせた充足感と、自分以外の誰かを助けることが出来たという達成感。

 視界が端から黒に染まり始める。巨大な手は直ぐそこだ。

 ――その時、体が抱き上げられ、すんでのところで巨人の手から逃れた。

 見上げた先にあったのは、祖父である献咲けんざき麟五郎りんごろうの顔。

 遠くでは銃火器を手に取った機動部隊が巨人の意識を引くための牽制射撃が始まる。遅れてこちらに走り寄ってきた自衛隊員が、周囲の人々を救出していた。


「良くぞ、良くぞ耐えてくれた。ありがとう、―――」


 鍛え上げられた腕に抱かれた安心感と暖かさが、張り詰めていた緊張の糸を緩める。

 瞼が自然と落ち始め、視界が黒に染まっていく。

 そして間もなく。酷くやつれた一人の子供は、その意識を深淵へと沈めた。



 一か月後、世界各国は事実上の敗北を自国民へと通達。生き残った人々は各地に建設された『エデン』へと退避する。

 地球の土地はその殆どが奪われ、夥しい死亡者とその数十倍もの行方不明者を出した。

 一〇〇億の人類は、その数を十分の一にまで減らした。

 西暦二〇五三年、人類はクリスタリアに敗北した。


 ――それから、十年の月日が流れた。

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