夏の夜街
志央生
夏の夜街
錆びついた手すりから見下ろす夜街の灯りは今日も眩しくて私は目を細める。逃げ出したいのに私は一歩を踏み出すことに臆病になってしまう。どこかで縋り期待する自分を振り切ることもできず、いつも私は背を向けるのだ。
◇
「私が何をしたっていうのよ」
口から出たのは突然の通り雨に対する不満だった。梅雨を前にした季節が運んできた湿気がじめじめと体に染みつき、体中を弄られるような不快感に襲われていた。さらに拍車をかけるように雨が降りだしたのだから、不満も言いたくなる。
少しだけ濡れた体は冷えるし、衣替えしたばかりの制服は肌に張り付いて鬱陶しい。雨宿りに立ち寄った公園から空を見上げると雲の隙間から光が漏れ出していた。帰ることができるようになったというのに、私の行く道を阻むよう泥砂が広がっている。そして、こんな日に限って履いている靴は今朝おろしたばかりのだ。
「行くしかないのね」
自分に言い聞かせるように口にして、私は一歩を踏み出す。土の上に少しばかり埋まった感触が靴底から伝わり、背筋に寒気が走り今すぐに引き返したい気分に駆られた。しかし一度踏み出した足を元に戻したところでこの不快感が消えるわけでもなく、ましてや靴の汚れが落ちるわけでもない。こうなれば、とやけくそな気持ちで駆け出す。泥の跳ねる音が靴を通して聞こえる。ただ私は聞こえない振りをして駆け抜けていった。
濡れた制服と泥がこびり付いた靴を私は玄関に入ると早々に脱ぎ棄てた。ひたりとひたりと湿った足裏が音を立てながら床に吸い付いてくる。その度に私は逃れられない何かに囚われているような気分にさせられてしまう。一層重たくなる気持ちを晴らすように洗濯機の中に濡れた制服を投げ込み、胸を締め付けている下着のホックを外す。窮屈さから解き放たれ思わず息が漏れ出る。俯いた顔を上げて洗面台の鏡に映る自分の姿を見つめる。
雨に濡れた髪は艶が無くなり、毛先の切り口が不揃いになっている。今朝までは背中まで伸びていたはずだったのに。
「ちゃんと切らないと」
いったい何が楽しいのか、私の髪が誰かに迷惑をかけたのだろうか。そんなことはないはずなのに、彼女たちは私の髪を躊躇うことなく切り裂いたのだ。一時の楽しさのために消化され、被害を受ける。不条理な順番が私にも回ってきたのだ。
「助けてよ」
口から洩れた私の助けを求める言葉は誰の耳にも届かない。
集団の輪に入れていない自覚はあった。それでも絶対に一人でいることはなかった。誰かと関りを持ち自分の身の安全を守っていたのに、それは容易く壊された。
【from】優菜
はるはる、今日は大丈夫だった? あの子たちにまた何かされた? 何かあったら私に話してね。絶対はるはるの力になるからね。
携帯電話が震えあと表示されたメッセージを見てすぐに画面を暗転させる。白々しく並べられた文面が頭の中で蘇り、こぶしを強く握りしめた。
優菜、それが私を裏切った友人の名前だ。おかげで私はひどく無情な日々を送らねばいけなくなった。ただ恨んでいるわけではない。私が同じ状況になれば迷わず彼女を差し出しただろう。だから自然と私の番が来たのだと思うことができた。
なのに彼女は今までと同じように私に接してくる。私を切り捨て、身を守った彼女が。
握ったままのこぶしに自分の爪が食い込み、痛みで少しだけ冷静になる。彼女の言葉は私を刺激する。だから接触もしないし返事もしない。そうすれば彼女もきっと離れていくと思い、我慢を続けている。
小さく息を吐くと、新たにメッセージが届く。画面に映る差出人を確認して思わず顔をしかめずにはいられなかった。それは、私の髪を不細工に切り裂いた女からだった。
【from】〇〇〇
今夜8時、西口公園集合。来なかったらわかってるよね。
用件のみが書かれたメール。そこに込められた言葉が私の中に植え付けられた恐怖心を呼び起こさせる。従う以外に選択肢はなく、彼女たちに従順な人間に成り下がる。嫌で仕方がないのに、逃げ出すこともできない。
それに言い訳をして許してくれるような相手であれば、性根の悪いことをしてくることもない。だとしたら、どうするべきなのかを考えれば答えは出ている。
素直に従えばいいだけなのだ。そこで何が起きても受け入れ、自分を押し殺せばいい。彼女たちの暇つぶしに付き合えば、許される。
自分に言い聞かせるように何度も頭の中で復唱する。まだ落ち着かない自分の本心を殺しながら返信を打とうと画面をつける。上下に並んだ二つのメッセージを眺めてからメールを送った。
「助けてくれるよね」
返事のないまま私は自室のベッドに横になり目を瞑った。
雨は夜中から部屋の窓に打ち付けるように降り注いでいた。朝までには止むかと思っていたけれど、予想は外れ今も降り続いていた。制服に着替えてから携帯を確認すると夜のうちに2件メールが届いていた。ただどちらも見ることはなかった。見てしまったら終わりだと知っているような気がしたからだ。
「いってきます」
昨日まで新品だった靴は泥がこびりついて取れない。傘を片手に玄関を開けると生暖かい空気と湿気が私を包み込んだ。
水溜まりを避けようとすると、右へ左へふらふらと覚束ない足取りで歩くことになる。傍から見れば滑稽なものだろう。昨日の私ならやっていただろう。しかし、今は気にしたりはしない。
「じゃあさ、どうしたらいいのかな」
雨音に紛れて聞こえてきた声に鼓動が早くなるのを感じた。痛いくらい胸が締め付けられ、嫌に空気が肺に入り込む。視線が辺りを漂って、落ち着かない。足が水溜まりの中に吸い込まれていくような気がして、逃れようと気持ちが急ぐ。
「昨日のあれはヤバかったよね」
「本当よね。タカシがさ、あんなにマジになるなんてね」
足に重りでもつけられたように、前に進まない。歩幅が小さくなり、立ち止まってしまう。背後から近づく声は私に気が付かないことを祈る。
「でも、あいつ耐え切れないんじゃない? 可哀想だけど」
「たった一夜で何もかも失うなんて、同情しちゃうかもね」
嬉々として話す女の声が横を通り過ぎた。降り続けている雨の音より、彼女たちの会話がクリアに私の耳に入ってくる。耳を塞いで目を強く瞑り、すべてを切り離そうとする。だけど、言葉はするりと私の中に入り込み、今すぐ声を上げてしまいたくなる。
「でもさ、あの子が友達を売るなんてね」
「そうそう、それを知ったときの顔もなかなかだったよね」
じわり、汗が噴き出した。心臓の鼓動が音を立てて自分へと問いかけている。知らないと白を切ることはできない。頭のどこかで理解している。だって、彼女たちにあの子を差し出したのは、
「ほんと、春奈からメールが来たときは驚いたけど優菜はいい見世物になったよね」
その一言が私の中にあった罪の意識が顔を覗かせる。壊れたようにこだまする心音が雨音と織り交ざり不協和音のように頭の中をかき乱していく。
携帯電話のメールを開き内容を確認したとき、後悔が津波のように押し寄せた。
『どうして』
たった四文字には思いが込められていた。彼女が言いたい言葉が何なのか流れ込んでくるように、私の胸はいっぱいになっていく。裏切られた意趣返しのつもりだった。何が起きることを知っていながら、私は自分を守るために彼女を差し出した。それでよかったと思っていたはずなのに。
画面に表示された文字が延々と私に問いかけてきているようだった。閉じてしまえば済むはずなのに、体はそれを許さない。罪の意識が私を蝕んでいる。
「はーるなちゃん」
間延びした声が聞こえ私の体は固まる。目線を上げると、×××が立っていた。一瞬にして罪の意識が身を潜め恐怖心が顔を覗かせる。
「ねぇねぇ、アタシが送ったメール見てくれた?」
私は慌てて夜中のうちに送られてきていた彼女からメールを開く。無題の添付ファイルが一つだけで言葉も何もない。それが彼女のメールだった。慌てて彼女を見ると、にやにやとした表情が私を見下ろしていた。
「これ、つけてね」
机の上に乱雑にイヤホンが置かれ、何も言わずに私は指示に従った。添付されていたファイルは動画だった。何が映っているのか知らないはずなのに私の指は震える。これを見たら終わってしまう、どこかで直感していた。
「早く見なよ、キレイに撮れてるからさ」
それでも彼女は再生ボタンを押し、動画は流れ始めた。
真っ暗だった景色に外灯が映りこむ、幽かに見えたのは西口公園という看板だった。姿のない男と女の会話と笑い声が数分聞こえた後、優菜がカメラに映った。そこには困惑した表情が浮かんでいた。
「あなたたち、どうしてここに」
枠外にいるだろう一同の笑い声がうるさいくらい響いた。ここから先は観たくも聞きたくもないとイヤホンを外して動画を止めようとする。ただ彼女はそれを許したりはしなかった。
流れ続ける映像が一転し、枠外で笑うだけだった男たちが姿を見せたのだ。逃げようとする優菜を追いかけて引き倒し、一人の男が馬乗りになる。声を上げて助けを呼ぶ彼女に一振りの平手打ちが頬に放たれた。芯を捉えた音がイヤホンからでも聞き取れた。優菜の叫ぶ声もピタリと止む。数秒遅れて男と女の笑い声が入る。
「痛い、痛い、いたいよぉ」
涙を浮かべて頬の痛みを訴えるが、誰も耳を貸すようなそぶりを見せない。それどころか、男たちは恍惚とした表情を浮かべる。
「誰かぁ、助けて。たすけっ」
二度目の音は無く、それでも容赦なく振るわれたビンタは優菜の心を折るには足りたのかもしれない。痛い、と口にすることなく彼女は喚き泣いたのだ。
「うるせぇンだよ、おい口塞いどけ」
泣きながらも抵抗するが、虚しくも男の力には勝つことはできず口に詰め物をされてしまう。男たちは興が乗り収まることを知らない。為すがまま優菜を嬲る。上から下まで、周りに他の女もいるというのに忘れた様に幾人もの男が代わるがわる、貪った。
言葉の嵐が一瞬のうちに頭の中に流れ込んでいく。カメラに映る彼女の顔は私に向けてのメッセージのようにも見えた。
事が終わり、散々に弄ばれた彼女は綺麗だった顔も髪も、何もかもが汚れて変わってしまっていた。茫然自失の表情を浮かべた優菜の口が微かに震えていることに気が付く。
「どうして」
小さく動いた唇は、そう言っているようにしか思えなかった。目の前に立っていた×××は動画を見終えたことを確認すると満足げに口を開いた。
「どうだった? いい映像でしょ」
嬉しそうな声だけが耳に残る。
◇
優菜からのメールが届いたのは三日後だった。
【from】優菜
〇×ビルの屋上で待ってるね。話がしたいの
家に帰る道で立ち止まり、足が動かなくなった。携帯電話の画面に表示された文字に私は目がそらすことができなかった。
頭の中を駆け巡ったのは、例の動画だった。男に囲まれ、好き放題に弄ばれる彼女。自分の身を守るために彼女を利用した、弱い人間。このメールはもしかしたら彼女の仕返しなのかもしれない、と疑惑を抱いてしまう。動画のように、彼女のもとに駆け付ければ私は何人もの男に汚される。
一つ浮かんだ疑惑の種は、どんどんと膨らんでいく。三日前にあれほど悔やんだ罪の意識をかき消していってしまう。
「信じたいのに」
口から出た言葉は嘘ではないけれど、私の心は許容してはくれない。人の言葉を信じた結果を見て知っているから。彼女を裏切って差し出した私自身の愚行を。
じっと見つめたままの電話の画面に水滴が落ち、文字をぼかした。空を見上げると灰色の雲が重く沈み込むようにして広がっていた。一気に雨が降り出し、瞬く間に私を濡らしていく。雨がしのげる場所を探して、以前の公園に一時的に避難した。携帯電話の画面からも水が滴り、壊れてしまうのではないかと思えるほどだった。
「また、雨が」
空を見上げるもどこまでも雨雲が続いているだけで、晴れそうにない。傘を持っていないからここから移動することもできない。木製のベンチに腰かけて水滴のついた携帯の画面を拭く。優菜からのメールを表示したままで、嫌でも目に入ってしまう。彼女は待っているのだろうか、この雨の中で私が来るのを。心の中で浮かんだ考えは頭の中を支配していく。同時に彼女への不信感も胸中を這いずり回る。
どこで間違ったのか。彼女を見捨てたときだろうか、×××に屈したときだろうか。どれもこれも違う。優菜を信じなかった、あのときから間違っていたんだ。
「なにかあったら相談くらいしてね。私、力になるから」
優菜が私にかけてくれた言葉。×××から執拗に絡まれ始めたころ、彼女が心配そうな顔で寄り添ってくれた。それだけで良かった、耐えられるような気がした。けれど、優菜は彼女たちと話している姿を目撃した。聞くつもりなどなかった、ただ気になり耳を澄ませていた。ところどころ聞こえた内容は私の名前だった。
逃げ出していた、優菜が彼女たちと繋がっていたと知って私は耐えられなかった。心配も優しさも嘘だったと思いたくはなかったから。
でも、もしあのとき優菜のことを信じていたならば変わっていたかもしれない。だとしたら今更かもしれないが、私にできるのは彼女を信じることだ。
吹き抜けた風がビル群の中にありながら冷えていた。廃ビルの屋上は周りの建物が邪魔をして日が当たりにくいせいか、錆と苔がいたるところに広がっている。
優菜は道路側に面した柵の前に立っていた。私は彼女を見て胸の奥にあった罪悪感が自分の中に満ちていくのを感じた。
「優菜、私は」
出かけた言葉を私はピタリと止めてしまった。ひどく傷んだ制服が雨に濡れて彼女の体を透けさせ、痛々しい姿に言葉を飲み込まずにはいられなかった。
「やっと、来てくれたね」
弱弱しく微笑み、私を見つめてくる。以前のような笑顔はもう私には向けてくれないのかもしれない。代わりに、じっと捉えた瞳が私を逃さないように向けられている。
「ねぇ、はるはる」
疲れきったような顔が垣間見えたのは私の気のせいではない。喉まで出かけた言葉はいくつも消えていく。伝えなければいけないことがいくつもあるはずなのに、彼女の顔はそれすら拒んでいるように見えた。
「あのときメールを送ってきたのは、どうして」
心臓が締め付けられるような感覚に息が詰まる。私は彼女に言わなくてはいけない。
「信じていたのに、どうして」
呼吸が荒く乱れたような気がした。辛くて痛い、目の前にいる彼女を見ているのが。胸を突くような感覚が気道を塞がれていくような感覚が。
「ちがっ、違うの」
やっとのことで絞り出した言葉、その続きを必死でつないでいこうとした。ただ、消え入りそうな私の声は彼女の言葉に上書きされるようにかき消された。
「でもね、いいの。もう大丈夫なの」
ふっ、と顔から笑みがなくなり遠い目が私を見つめたままで、彼女の唇はかすかに動き言葉を紡いだ。
彼女が消えた屋上から街が映る。空には夜が訪れ、闇に埋もれないようにと電灯が点いていく。その明かりが私には眩しくて思わず目を細めた。つい先ほどまでいた彼女は街に溶け込んでいった。
遠巻きからサイレンが鳴り響き、こちらへとだんだん近づいてくる。やがてビルの下で止まり雑踏の声が騒がしく響いてきた。
「私には無理だよ」
非常階段を駆け上がってくる足音が聞こえて、そのまま誰かが私のことも終わらせてくれる瞬間を待ち続けるのだ。
了
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