花姫様との契約。

 そして僕は八歳を迎え、代替わりのときがやってきた。


 『契約の儀』の朝はみそぎをし、専用の装束しょうぞくを身につけた。しゃらしゃらが過剰になった平安の貴族みたいだな、なんて思いながら、僕は数ヶ月前から教えられた手順通りに祝詞のりとを唱え、花姫様の前に立つ。


 本当は、祝詞どころじゃなかった。


 同じく専用の衣装を身につけた花姫様が、信じられないほどきれいだったからだ。


 いつもは桜色のくちびるには今、真っ赤な紅がひかれ、目許めもとの化粧も、彼女の真っ白な肌にとてもよく映えていた。


「今、この花姫のとなるべく。その身に触れることを許されよ――八代司」

「はい、この八代司、来たるときまで花姫様のおそばはべり、捧げつづけることをお誓い申しあげます」


 よし、ちゃんと言えた。

 あとは、花姫様に契約箇所へくちづけてもらうだけ。

 事前に話しあって、母さんと同じく右手の指先にしてもらうことになっていた。

(あと少しで、この、きれいな花姫様と――)

 僕は間もなく儀式が満了する安堵と、彼女に触れてもらえるうれしさで、少し気が緩んでいたんだと思う。あとちょっとで花姫様に触れられるか、触れられないかという位置で。

「あ……ッ!?」

 裳裾もすそに足をとられてしまったのだ。


 前へつんのめる僕へ、花姫様は思わず、という様子で身を乗りだす。

「司っ!!」

 僕の腕をぐいっと引きあげ、僕を庇うように抱きしめて、背中から倒れこむ。

 一瞬、なにが起きたのかわからなかった。

「ん、む……」

 くちびるには、やわらかな感触。

 お互いのまつ毛はもう、くっつきそうな距離だ。


 キスをして、しまっていた。


 ふたりが固まっている間にも多くの光る文字が舞いあらわれ、僕らの中にすうっと溶けて消える。


 子どもの僕にもわかった。


 ――これで、『契約成立』なのだと。


✿✿✿✿✿


 数分後、僕を取り囲むのは平謝りする花姫様と、珍しくうろたえた様子の母さんだった。

「司っ、本っ当にすまなんだ……!!」

「どうして謝るの? 僕が転んだのに……」

「どうしよー……、契約時の部位は絶対。『資格』を持つのも司だけだし……」

「司、気分は悪くないか?」

 心配そうに、花姫様が僕の瞳を覗きこむ。

 いいか悪いかで言ったら、最高だったけれど(だって、花姫様とキス!)。

「だいじょうぶ」

 控えめに答えておいた。


「あ、あの。司のくちびるを奪いつづけるわけにはいかんし、やはり、わらわのこの『仕組み』は間違っておったのじゃ。他の『契約法』がつかえる神に、今からでも『引き継ぎ』を……っ」

「え」

 僕はあせった。

 当時、『引き継ぎ』という言葉の意味はよくわからなかったけれど、花姫様がこの地を去ろうとしているのだけは感じとれた。


 内心の混乱を気取けどられないよう、にっこり、無邪気な笑みを浮かべながら話しかける。


「ねえ、花姫様。僕の『失敗』だよ? 花姫様はなにも悪くない」

「じゃがっ……」

「それとも」

 ここで、不安そうに目を伏せてみる。

「僕なんかとキス、いや……?」

「そ、そんなわけないじゃろ!?」

 案の定、花姫様はあわあわしだす。もう一息。

「ほんと!? 僕も全然じゃない!」

 このとき浮かべた表情は、心からの『うれしい』と『安心』だった。


「ね、僕のくちびるでよかったら、いっぱい食べて? 花姫様――」


 最終的に母さんも説得に加わり(母さんも花姫様をとても大切に思っているし、僕なら本当に大丈夫そうだと踏んだらしい)、花姫様は折れてくれた。

 このとき、僕を満たした感情に名前をつけるなら、恐らく一番適切なのは――『仄暗ほのぐら狂喜きょうき』。



 それからの毎日はどきどきの連続だった。


 僕の美しいひとが、顔を寄せて、控えめに僕へ触れる。


 ああ、嘘みたい。

 幸せだ……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る