第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(幕間・一)
「あ、わかっちゃいましたですぅ」
「ですぅ、じゃねーよ。またかよ! 今度は何がだよ!」
素っ頓狂な声をあげる長い髪にヘアバンドの少女に向かって、今でいうとシャギーにしたショートヘアに、サイドを短く襟足だけは伸ばした、この当時「ウルフカット」と呼ばれた
――いやいやいや、突っ込みざるを得ないって! 奴めがひとたびこんな妙ちくりんな言葉を発する時は、大抵ろくでもない悲劇、惨劇の幕開けなのだから。
……いや、今回ばかりは――少し様子も違うか。
今の『ここ』で、何ひとつ事件は起きてもいない。
そう、それは過去の、大昔の話――。
「えぇっとォ、むむ。すっごく説明が大変なのですけども……」
むむむ、とヘアバンドの少女は考え込む。あどけない童顔で、いつもほわほわと微笑んでいるこの子が、眉間にシワを寄せて考え込むなんて珍しい。――うん、この子が思考に時間を割くなんて考えられない。ようは、頭の中にある物事を、どう整理して「目の前の相手に理解できるよう」噛み砕き、変換し、どんな加減と塩梅で口にするか……そんな所で悩んでいるのだろう。
「なんだよ勿体ぶって、あたしがバカだから説明してもわかんねーって? いーから、いってみなって」
こちとら、もう随分な付き合いになるのだ。今更そこまでナメてもらっても困る……と、ウルフカットの少女も不敵に笑う。
「あ、はい。ですから、意味的転換なのです。明治期か、古くとも江戸末期でしょうか。本来、本邦に於いての宣教は特殊でしたの。これに関してはイエズス会の独自性や、当時のフランシスコ会、ドミニコ会との勢力争い、新教、つまりプロテスタントの台頭する英国やオランダ勢の思惑、そして豊臣から徳川への政策の流れも加味しなければならないわけで……」
「あ、いや。えと。待って。待って待って待って。わかんネ!」
はーい無理。降参。宗派とか知らんし。
「はい?」
「ゴメン、訊いたあたしがバカでした! はい、バカでーす! ……てゆーか、何それ。ここって確か、隠れ切支丹とは関係ないんじゃね?」
「ええ、本来は」
長い黒髪にヘアバンドの、おっとり口調の少女は、にこやかに微笑み返す。
ウルフカットでやや乱暴な口調の少女もまた、首をかしげながら頭を掻く。
「本来は……って? どゆコト?」
「だからこそ、
「ああそうか。異邦人……禁教の時代だもんなぁ。まして、
「もはや推定も不可能な大昔の出来事ですけれど、八幡家の皆さんが中アジアから欧州にかけての
「あのツラだもんな。……いや、来歴とかの話はいーよ別に。確認だってしようもないし。その、意味の転換って何なの一体」
そう、開口一番に出てきた言葉。それに続く、なんちゃら会だの宗派だのの話はサッパリわからないが、それが奴めにはコモンセンスとして「説明」になると思っていたのだろう。んなこたーないし、そして、説明の主題がそこにあるのだけはわかる。何かの「意味」が「転換」されたこと――。バカはバカなりに、その肝の部分だけは見落とさないよう食いつかなきゃならない。
我が意を得たり、とばかりに、ヘアバンドの少女はにぱっと笑う。そうそう、ちゃんと拾ってくれるし食いついてくれる、「私の話をわかってくれる」という表情だ。もちろん、そんな訳はないだけに、この表情を向けられる度にウルフカットの少女はやや気まずい思いをする。
「ですから、そもそも『閻獄峡』なんて異名がどうかしていますのよ。誰もそんな呼び名を使ってもいないのに、何故、そのような異名があるのかしら」
「そこは……確かに、よくわかんないンだよなァ……。カーチャンのメモにあったっきりだし。まァ実際、戦後にそんな呼び名を使ってた奴ァほぼ居ないってのは確かだろーけど……ただ、『縁切り村』ってのは残ってたっポイね、口語で。そこんトコどうなんだろ」
「思いますに、その閻獄という異名は十中八九
「そりゃそーだけど! いやそれはそれ! これはこれ! なんだよ、カーチャン嘘ついてたってのか?」
「嘘をついていたのは真冬さんではなく、別のかたなのでしょう。いえ、それを真冬さんに伝えたかたが『嘘』と認識していたかどうかも、あやしいですけれど。そもそもが、それは真冬さんが当時の状況を見聞きして、書き留めたメモでしょうし、現存はしてなくても、当時のゴシップ誌等、外部からこの村を指す際に書き記されていたのは確かでしょう。『
「ん~……そうなるか。しかし、嘘って……。じゃ、なんで、どっからそんな名が?」
「はい、それが
「だから、なんだよそれ……。バカバカしい。ンなもん、ねーってばさ! この現代にさァ!」
「はい。
「……ダメだ、わかんネ」
うん、降参。
「えぇ。わかりません、こればっかりは」
「さっき、わかっちゃったとか何とか、いってなかったっけ?」
「わかったのは一部だけですし。例えば……そう、Tです。T」
「は?」
「気付きませんでした? ここのご年配のお婆さまは、タ行の無声歯茎破裂音を『回避』して発声してましたの。不得手とかではありません。もしそうなら、全てが濁音に変化していておかしくはないのです」
「え? むせい……なんだって?」
「ですから、
「いや、ええっと……。タ行? タチツテトの発音……あぁ、そういや、おかしかったなァ、確かに」
「これは、『やがては消え去る謎』です。今の時代で、明治からご存命のお年寄りがギリギリ四人なのです。一人二人なら個人の喋り癖として看過するところでした。サンプル抽出に足りる数がいなければ、これはわからない話ですの。祐二さんの世代で、すでに通常の吉備一帯の方言と標準語の混ざった言葉でしたもの」
「ん~、ここって閉鎖された地域なんだし、変な訛りがあること自体は別に……」
「でしたら、『変な訛りがあって然るべき』前提で考えるなら、自ずと地名の由来も推測できますでしょう。エンゴクは当て字、ならばそれに近しい音が元であった、と。無理くり、『無い』ものを流布するのは困難でも、『在る』ものを
……ん。流布? ねじまげる? ――嘘。
何かが、いちいち頭に引っかかる。
「例えば明治期――エンゴクはテンゴクであったとか。それを、誰かが意図的にレンゴクに替えた、と考えてみました。恫喝し、信仰を強要するのは宗教者の常套手段で、輪廻の三悪趣、祖先縁者への怨念や因業、あなたがたは代々『罪を背負いし者』である、そうおっしゃっての地獄煉獄などなど、頻発ワードでもありました」
「テンゴクて……いや、さ。ソレってクリスチャン全体に唾ひっかけるような話じゃね?」
「ホラ、そんな風に、ろくにミサに顔を出さない沙織ちゃんだって、知ってるじゃないですかー」
「いや、それはそれ、これはこれで……」
「つまり、チョロいって話です。会派だの、カトリックとプロテスタントの違いすらわからないかたですら、そこは通用してしまうほどに。園桐の民、とりわけ八幡家が西洋人の末裔であるという『前提』に立った解釈、それは地域そのものへの怨嗟、いわば『
「……どうなの、それ。誰かって誰だよ。レの音はドコ行っちゃったのよ。だいたいそれだったらデンゴクかセンゴクになんね? 逆に考えたらエンギリもテンギリになっちゃうよ。そんな単語しらないよ。だいたいクリスチャンじゃないなら、なんで……。 ん、」
そういや天国だの神様だのの概念は、そもそもキリスト教に限らないか。
「ええ。確証こそありませんが、聖書の、とりわけ旧約に含まれる概念は、いわゆるアブラハムの三宗教、非キリスト圏でも多宗派に共通したものですから」
「ユーラシアの真ん中あたりから一帯、イスラム教とかユダヤ教も天使の名前だの何だので被ってんね、確かに」
「被ってるといいますか、まあ元が同じですので。地域ごとのローカルな差も当然ありますし、習合した物、変化した物なども多数あり、今なお様々、各種各様、喧々諤々と争ってらっしゃいますけども」
「てなると、伊作さんはそのどれかの……キリスト教以外の人って話かなぁ。当時の情勢や地理上の難点で考えると、回教徒は無いか」
「断定はできませんし、無信仰、無宗派の人の可能性もありますが、それでもその時代その地域の人ならば、何らかの信奉もあるはずで、知識は持っていておかしくないでしょうねぇ」
まあ、敵対視する宗派とかでもなきゃ、あやかりはする所もあるか。経文の一つも知らないし信心深いわけでもないのに、自分だって初詣には行くし墓参りもする。
「ま……どうやったって推測の域を出ない話だけどね」
「ともあれ、この名も無き村に希望を託したのでしょう、異邦人の伊作さんは。パライソとつけてはあまりに過ぎますし、そもそもキリシタンでもありませんですし。だからこそ、当時的には大きな意味を持たない名称をつけたのでしょう。――楽園、として」
「いや、じゅーぶん無理じゃね? いくら何でも、『天国村』なんてさ……」
「天国とは、江戸末期から明治初期に出来た言葉です。主に清の『太平天国の乱』を機に入って来た語で、従来本邦に存在しない語ですの。天津国とはまた、別物ですし」
「え? いや、だって今……、」
「つまりそれが
「確かに、ヤハさんっつってたっけ、あの婆さんも爺さんも。なんだか中東かどっかの言葉みたいだね、いわれてみると」
「どちらかというと古語イタリア語かしら。いずれにせよ、今となっては出自はわかりませんです、はい」
「いや、わかんないなら、その『気づき』も確証はないんじゃ? 大体じゃあその怨嗟って……異名を誰が変えたって?」
「ん~、どうでしょう、飛び出して行った
「テンゴクからTを抜いたエンゴク……ヘンゴクがフェンゴクかも知れねーけど、まあ……その名称が明治期にあったとして、それがまあ、あんなおっかない文字になる『過程』は……ん~、考え方としては、アリかもだけどさ」
でも、強引だよなぁ……。その「強引さ」が、どうにも引っかかって、「うなずき役」にしては素直にうなずけない所がウルフカットの少女にもある。
「そして煉獄とは、二世紀頃から聖伝等のいわば『外部テキスト』に見受けられる程度には存在を確認できますが、主には東西分裂以降のカトリックで生じた、聖書にはない概念ですし。中世の幾度かの公会議で公式化させて、ようは免罪符を売りつける口実ですね。近年の第2バチカン公会議以降は、もうほとんど取り沙汰しませんですけども」
「……えーと」
「然るに、煉獄もまた、概念として非クリスチャンの農民の皆様には理解に乏しく、巷間での伝言ゲームの変遷にて、それらしい当て字――閻獄へと変化した。どこかしらで閻魔様が混ざってしまったのかなぁ、みたいな? その変遷の過程で、テンゴクかレンゴクかの綱引きもあったんじゃないかなー、って。……仮説ですけども、『エンゴク』その由来。この三日ばかりのフィールドワークと村民の皆さまへの聴聞にて、到達しましたわたくしのケツロンはそれであります、はい」
ごめん、個々の末節はわからなくもないけど、話の大筋がホント、さっぱりわかんない。
ウルフカットの少女は困った顔のまま、腕を組んで首をかしげる。
この相方が何を喋っているかは、時々わからなくなる。恐らく、マトモにこやつめの奇っ怪な長広舌が通じるのは、母の真冬だけだろうか。
勿論、こいつの話し方の支離滅裂さにも難はあるが、博覧強記も過ぎたるアカデミズムも、聴き手にそれを受け止めきれる教養が無ければ、ただの意味不明な「おまじない」をまくしたてるだけにしか聞こえない。ようは自分の力不足のせいなんだ、という負い目はある。
紙一重の天才でありながら、人とのコミュニケーション能力に著しく問題のあるこの変わり者の女を、アウトプットの方向もやり方も何もかもメチャクチャでデタラメなこの扱いベリーハードな厄介者を、ひたすら無防備で天使が如き可愛子ちゃんなのにやること為すこと危なっかしくて見てらんない特攻癖のド天然を、自分は上手く導いて、取りなして、引き出して、引き立ててやんなきゃいけない。
いや、やんなきゃなんない義務も義理もないが、こいつの才を引っ張り出せるのはこの世であたしだけ。何よりこの天才バカはあたしの無二の親友だ。憎ったらしくなる事も、無性に腹が立つ事もあるけれど、それを差っ引いたって一緒にいれば楽しいし可愛いし、色々と放っとけない小娘で、同い年でも手のかかる妹みたいな相手で――いやあたしには兄ちゃんしかいないけど。そんなのはまァ、わかっちゃいるんだ、でもなぁ。
「……バカで信心薄いあたしでもわかるコトがいっこあるとすると、煉獄なんてカトリックにしかない概念が、なんでそこで出て来るのか、って話だな、結局。なんか確証でもあんの?」
「時期的特定から推察するに、文明開化から大正デモクラシーにかけて、モダンな方々の中には信仰とは別に教養として、聖書概念を理解する方々も多くいらっしゃいましたけれど。いずれにせよ都市部の教養人相手で、僻地の閉鎖的な農耕地の村民相手には過ぎる設定なのも確かですわね。でも、その設定でネジ込めるだけの『材料』は、ありました。少なくとも、三つ。何より――その『確証がない』ことこそが要点なんです」
「なんで? 何のっ?」
「――
To Be Continued
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