第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(前編・その14)
「……ユーカリオイルの臭い、これを塗る前からしてましたね」
「老人の臭いだね。正しくは老人が自らの臭いを消すのによく使うんだ」
ギシ……ギシ……歩みを進める。
土の厚い壁、太い木の柱、厚い木の板で作られた土蔵の奥は、和室の間取りになっている。正面の浴室の湯気をさえぎる防湿素材のしきい板と、換気装置のモーター音が、土蔵の中にしては妙な違和感をわき起こさせる。
年代物のふすまが、既に大きく開かれていた。しきいにはホコリも積もってる。
一歩しきいを跨ぐと、ひやりと冷気に包まれる感覚。温度はそう変わらないはずなのに、一気に湿気を感じなくなったせいだ。
LED電球の白い光の中、普通に「見知らぬ民家」の中をのぞくような感覚だけど──そこに何があるのか知らされている限り、心臓はバクバクと高まる。
「お医者の吐瀉物痕もなし、と。まあそこは一応プロか。外に出るまで我慢したのかな」
お婆さんの部屋は、壁際三方を箪笥で囲まれていて、老人の部屋にありがちな、民芸細工のような小物や硝子ケースは何も置いてないけど、それはありふれた、どこにでもあるようなごく普通の和室。
文机の上に立てかけた額縁には、モノクロ写真で微笑む綺羅さん……いや、楓さんだろうか。確かに瓜二つだ。一緒に映っている白人の少年は、力輝さんの幼い頃だろう。
写真の左脇には複雑な模様の金糸のリボンがかけてあり、手前の小皿には個包装の洋菓子が供えてある。お菓子に埃が被っているのは、少し嫌な感じ。……ほんの少しの違和感。
母屋じゃないのだから、仏壇のような物がないのも理解できるけど、これは
「……うん、これってお仏壇の
「宗派はわからないけど……そうよね。内敷……いえ、幢幡かなぁ?」
双子が口々にそうつぶやく。
「あ、大子さんたちもそう思いますか」
「宗派は……もしかしないでも大日如来……いえ、胎蔵曼荼羅かしら。地蔵尊?」
「いや、君らが何いってんのか私わかんない」
カレンさんの意見は置いといて、うん……まあ、
畳の間にそっと足を運ぶ。
整然とした、生活感のない部屋。
何枚か重ねた、厚みのある敷布団。
金糸のまじったぶ厚いかけ布団。
その間から覗く顔は、ずいぶんと顔色の悪そうな、小さなお婆さんのように見えた。
最初の一瞬だけは。
……腐敗はしていない。
しかし、何か「違う」物質になっていた。
瞬間、背中に何か
吐き気とかじゃない。胃の腑からスゥっと、血の気が引くような感覚。
膝の関節から力が抜けて、そのまま崩れそうになる。寸での所で堪えきれたのは、先輩達が「何てこともない」調子で、いつものように会話する声が耳に入ったから。
「状態が特殊だな。さすがに真新しい死体を乾燥機で加工、ってのはないね。とはいえ、これじゃ死後何ヶ月かわからないや」
「体表は十分、ミイラ化してるわね。お部屋は完全乾燥はしていないけど……こんなにお布団でサンドイッチにされちゃ、吸湿されちゃうわ」
「永久死体化の、定番の一つよね、この条件って。これで腐敗の進行が免れてるのもあるのかしら」
「それ迄に、お家のかたは気付かなかったのかしら? ……ううん、やっぱり、それだけじゃさすがに
先輩たち、このお婆さんの遺体を前に、普通に会話してるし……。
「あ、そうか。経年変化した死体なら、大子たちの方が慣れてるか」
「さすがに、腐ったままの御遺体をお堂に安置するようなことはないわ。普通は葬儀屋さんで事前に……あ、……そうね。思うけど、これってもしかして、」
「そうよね。状態的に、よっぽどその方が
ありえない。何て人たちなんだろう……?
「何? なにかわかった?」
「……うぅん、どうかしら。
「へ? 私?」
「部屋に隠し扉もなし、畳まではめくって調べられないけど。巴ちゃんはどう思う?」
「……死因は、これは解剖待ちでしょうね。
蔵内全般、湿度が高いのにこの部屋だけ空調で乾燥している点。ここだけでも、偶然ではなく少なからず何らの、誰かの意志が介在している可能性は窺える。
正直、それはあまり考えたくもない話だけど。
「オッケー。巴、冷静だ」
……ホントに。
一体、どうしちゃってるんだろ、私も。
「もし他殺だとして、首の状態からみると絞殺でもないし、毒殺とか、心臓麻痺を狙う殺し方は考えられますが、素人判断は無理です。お布団が血を吸ってる様子もないから刺殺や出血死でもない……とは思いますけど、そこはこの遺体の状況では判断基準にできません。別口で殺して、ここに移動させた可能性も一応は頭にいれるべきですけど……」
表情は、おだやかだ。
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