第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(前編・その13)
「……それにしても、司法警察医や鑑識員が来る前に、赤の他人の一般人が、現場にこうもゾロゾロ入るって、やっぱりどー考えても『ナシ』なんじゃ……」
「今更ブツクサいわないの」
みしり、音を立てて、うす暗い廊下をカレンさんに続いて、そっと進む。
「壁厚は最大で三十二センチ、底面積は幅六九八センチ奥行き一四五〇センチ、窓は天窓以外は換気か嵌め殺しね」
ステレオで大子さん福子さんの声が響く。
「毎度ながら計測器いらずだ。OK、間取りはその調子で。巴は何か判ったことは?」
「特には、まだ。蔵といっても、カレンさんが余裕で歩ける高さの点、廊下がある点、居住スペースに使っていた点から、固定資産税免除を目的とした物ではない、って辺りくらいでしょうか」
「うっわ、税制とかの話になると私ゼンゼンわかんない!」
「……あはは。あと、水周りを見ておいた方が良いかな、って位でしょうか」
蔵の中は全て木造の板張りで、年季の入った色をしている。表面には漆でも塗られていたのだろう。妙に湿気もあり、暗く、そして、何ともいい表せない変な臭いもする。
「壁厚、柱の位置から、内部に人が潜めるような隠し部屋はないでしょうね。床板にも地下室の扉はないわ」
「また隠しで地下通路から出入り、とかだったら、さすがにふざけんな! って思うよ」
……私は「あった」かも知れない、という考えも否定できないけど。過去に。
ここの庭を観るまでは半信半疑だったけど、今となっては何故、どうやって楓さんが「秘密の通路」に行き着いたかも、可能性の一つとしては、類推できる。
もしそうなら、楓さんの暮らしていたのはここじゃなく「真ん中の蔵」だと思うけど。
ざっと見渡すかぎり、全体的に手すりのような物もなし、お婆さんの足腰は確かに壮健だったように思う。
カレンさんは奥に指をさす。
「右側に浴槽、左側に寝室。浴槽っていうと腐乱死体を隠す常套手段だよね。ま、今回は関係ないだろうけど」
「や、やめて下さいよぉ」
「右を曲がった所に梯子階段があるわ。二階が本格的な倉庫なわけね。見てきます」
姉妹がギシギシと音を立てて上に上がる。
「勝手に動かさない、隠さない、ヘンな痕跡を残さない。これは徹底してね。私もいろいろ分解したいの我慢するから。さて、発見現場は寝室って聞いたけど」
「だったら浴槽がどうこうって脅さないで下さいよぉ……。そもそもヘンな痕跡って、私たちがここに入った時点でもう、荒らしてるも同然な気もしますけど……」
「まーそこはそれで」
うぅ……。どうなんだろう、これ。
「……死体、ミイラ化って本当なんでしょうか。今のところ、そういった臭いはしませんけど」
そう広くもなく、まして、通気の良い環境とも思えないのに。
「どうなんだろう。確認しない限りは何とも。現状、ちさちゃんには悪いけど、やっぱこれは十分『怪異』だよ。ミイラ化するだけの日数が経ってるなら、私たちはもう、とっくに『臭いの壁』で進めなくなってる。それくらい、腐敗した死体の悪臭ってのは凄いんだ」
「……妙な臭いこそしますけど……現状、歩けないほどじゃないですよね」
「腐敗の死臭って奴は、まともに嗅いだら一撃で吐くよ。血の腐った臭いってのは、ネズミ一匹ぽっちでも人糞の何倍も強烈なんだ。まして人体一つぶん、耐え難い量だよ」
うぅぅぅ……。
「巴はやっぱ、外でちさちゃんたちと一緒に居た方が良かった?」
浴槽を覗き込みながらカレンさんが訊く。
「……かなり後悔してます」
「私はアメリカに居た頃に死体を見たことは何度かあるけど、まあ無理強いはしないよ。死後経過の確認だけしてくる。よし、浴槽はカラッポっと」
カレンさんって、アメリカでは一体どういった生活だったんだろう……。
「つまり、こうして私たちがここに易々と入り込めている時点で、これはもう『異常死』で、人の手による『何か』が施されたのは確実ってことなんでしょうか」
宇宙人にさらわれた(という設定の)血も内蔵も抜かれた牛のようになっているか、そうでなければ死体じゃなく、作り物の何かと見間違えた……とか? でも、そんなのでお医者さんが吐くなんて考えられないし……。
「だから、そこも確認する迄は何ともいえないの。これでもし本当にミイラ化しているなら、だったら死後どれだけ経過してるのか、何故、誰も気がつかなかったのか。ここで把握すべきポイントはそこかな」
ギシっと音を立ててカレンさんは一歩進む。
「何もなくたって、使った痕跡がどれだけあるかは目視でわかるね。ボディーソープの類じゃなく石鹸だったし、垢すりもだけど、完全に干からびてた。もうちょっと本格的な器材や試薬があったら、人血反応も調べたいんだけどね」
「全体的に、磨いたように綺麗ですね……。あとは、排水の処理が気になります」
「……あぁ、『食事の処理』か。便槽まで開けて見るのはちょっとなぁ。まあ、水洗でもくみ取り式なのは間違いないしね」
トントンっとリズミカルな音を立てて、背後から双子の姉妹が降りて来た。
「二階には外部から出入りできないわね、かまぼこ型の通気窓は頭一つも通らないわ。日常品もないし、そもそも床が埃でいっぱい。数ヶ月は誰も足を踏み入れてないと思う」
「大子、福子、お婆さんの状態、見とく?」
「ん~どうしようかしら」
「一応見ておくわ」
うわー。
「ご遺体なら見慣れているわ、大丈夫」
可憐な微笑みで双子姉妹は進む。……そういえば実家がお寺さんだった。
ちょっとこの先輩たちの行為は信じられない。医師が吐いて倒れるような死体を、どうして見たがるのだろうか。
「ま、待って下さいよぉ~」
私も慌てて追いかける。一人ぼっちでいるほうがよっぽど怖い。
「巴、大丈夫? 無理しないでいいよ」
「いえ、別に無理は……」
「何? 巴も見慣れてるとかいうの」
軽く茶化すようにカレンさんが笑い、その後一瞬、無言のままの空気が続いた。
「……そっか。まあヤバいって思ったらすぐ外に出てね」
それ以上何も詮索しないで、カレンさんは小さなメンタムの缶を取り出し、私に手渡す。
私は、黙ってそれを鼻の下に塗る。
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