第9話:勇者アスタの実力
アスタが森へと入り、鬼ごっこを始めてから半刻が過ぎた。エルスは居宅のバルコニーに要した椅子に深く腰掛けて、カップ片手に優雅にくつろぎながら、密かに森へと放った
「まさかここまでやるとはね。正直予想外だったわ。生み出した子達も弱くはないはずだけど、その原因はやっぱりあれね」
鴉の視線の先では、エルスの魔法【
「あの身体強化、ただの技と言うには規格外ね。ステータスが一段上昇しているのと同じ効果を発揮するなんて……限りなく魔法に近い強化だわ」
一般的な身体強化で得られるのは精々力が強くなるとか、耐久力が上がるとか、素早く動けるようになるとか、あくまでステータスの範囲内で能力が向上するだけで、アスタのように一段階上の位階の力を得られるわけではない。そんなものは技術ではなく神秘の領域、すなわち魔法に他ならない。
エルスは腕を組みながらカップの中のコーヒーを飲みながら思案する。このままではアスタの鍛錬にならない。窮地に追い込み、生と死の狭間で命を感じながら戦い、血を流しながら剣を振り、そして勝利を掴むことで人は成長する。
だがこのままではただのぬるま湯だ。アスタを鍛えるのではなく、アスタの獅子奮迅の活躍を一時間眺める鑑賞会になってしまう。それはそれで楽しいひと時ではあるのだが。
「アスタ君の身体強化を甘く見ていたわね。少し……本気を出しましょうか」
間もなく四匹目を追加投入する時間だがエルスはこれまでとは異なり、それなりの量の魔力を注いで闇の獣を生成した。純黒の霞が形作ったのは獣の中の獣。彼らの頂点に君臨する百獣の王。
「まだ生きている同胞と協力して、あの森にいる勇者を殺してきなさい」
「ガァアァッルウウウウ!!!」
大気を震わす咆哮。その威圧はまさしく王。生態系の頂点に立つ漆黒の獅子が幼い勇者の細首を描き切るべく解き放たれた。一条の黒い光となってそれは森の中へと消えていく。
「初日からこんなことになるとは思わなかったけれど。強くなりたいと願うなら討ち倒しなさい、アスタ」
その呟きが風に溶けるのとほぼ同時に、森から轟音とともに土煙がド派手に舞い上がる。その余波でエルスの流砂のような髪が靡く。
「フフッ。面白くなりそうな後半戦ね」
コーヒーをゆっくりと口に運びながら微笑みをこぼす。魔王エーデルワイスはこと実戦においてはスパルタ教師だった。
*****
アスタがその存在を探知したのと身体に強烈な衝撃を受けたのはほぼ同時だった。蹴とばされた路傍の石のように地面に身体を何度も打ち付け回転する。何が起きたか考えるよりも先に剣を突き立て、両足を踏ん張り、なんとか勢いを殺す。
悲鳴を上げる身体を休ませるため、片膝をつきながら突然の乱入者の姿を確認する。そこには自分の数倍はある巨躯の獣が堂々たる立ち姿で君臨していた。
「黒いライオン……しかもこの威圧は……ハハハ。エルスさんの嘘つき」
乾いた笑いと教師役である魔王に対する悪態がアスタの口から零れる。彼の目の前にいる巨大な獣は今まで倒してきた矮小の狼と全くの別物。同じ魔法から生み出された存在とは思えない程の威圧を放っている。
「この感じは……本気になったカトレアさんと同じくらいかな? ハハハ……僕を殺す気なのかな?」
言葉は弱気。だがその表情に刻まれた感情は真逆。圧倒的な強者を前にして尚、アスタの口角は獰猛に吊り上がっている。身体全体に流す魔力をさらに増やす。さながらそれは燃え盛る炎の中に大量の火種をくべるかのよう。
「行くぞ、化け物。さっきの……お返しだァッ―――!」
アスタの蒼光がさらに輝きを増し、閃光となって左肩を前面にしてライオンの鼻っ柱に突撃する。小柄ではあるが十分な加速のついた突進ならその巨体を浮かして怯ませることは可能。わずかによろけるその隙を見逃さない。
「ハァァアァッッ―――!」
跳躍。斬撃の威力を上げるために身体を回転させながらその頭をかち割るべく聖剣を振り下ろす。だが黒獅子はこれまでの狼と違った。よろめく図体、揺れる視界、だがそれに構わず本物の獣のように本能で危機を察知して後方に飛び退き、凶刃をかわしてみせた。
初めて両者の間に距離が出来た。くるりと剣を取り回し、両手で担ぐようにアスタは構えながらすり足で
「ガルルゥゥ……ガゥル……」
闇獅子の視線はアスタと言うよりアスタの得物である聖剣に向けられている。それに斬られれば致命傷になることを悟っているのだろう。魔法から生み出された存在なのに賢いものだとアスタは感心を通り越して呆れを覚える。
常にアスタを視界に捉えるように眼球を動かしていた闇獅子だが、やがて身体を動かさなければいけなくなったのでゆっくりとその巨躯を動かすためにほんの一瞬視線を切った。その刹那をアスタは好機と判断する。
辿った足跡を高速でなぞり、突貫を仕掛ける。闇獅子は咄嗟のことに反応が遅れてアスタの侵入を許してしまった。矮躯をさらにかがめて滑り込み。白銀の刃を大木のような太い首元目掛けて喉を焦がすほどの猛りとともに振り上げる。
「オオオオォォオォ―――‼」
抵抗はなく。豪奢な
限界まで強化されたアスタの肉体から放たれた一撃。生じた剣圧によって首無し獅子の身体は綺麗に両断された。地面に刻まれた深い傷跡がその威力を物語っている。
「ハァ……ハァ……これで追加はあと二匹のはず……狼は―――もういない? さっきの衝撃で吹き飛ばしたのかな? それとも逃げた?」
肩で息をしながら呼吸を整え、魔力探知を行い周囲の状況を確認する。闇獅子が乱入してくるまで相手をしていた狼型の気配が感じられない。巻き込んで倒しているなら幸運だが射程圏外にいる可能性もある。アスタは悪い方に意識を割きながら、訪れたつかの間の休息を享受する。
「これが終わったらエルスさんに絶対文句を言ってやる。何が僕より少し強いだ。全然強いじゃないか……」
結果だけ見ればアスタが一撃で首を落とし、二撃目で両断した圧勝。だが奇襲を受けて吹き飛ばされたダメージに膝をついているところに追撃の凶爪があればおそらく倒れているのはアスタの方だ。
「あぁ……王城の時の訓練が楽しく思えるなぁ……」
ここに来る前までの記憶を思い出しながらアスタは苦笑いする。王城での訓練で一番大変だったのは百人組手。連続で百人を相手にするのでなく、同時に百人を相手にするこの訓練はまさしく鬼畜。ちなみに考案したのは騎士団長のカトレア。
アスタ以外の勇者候補の子供たちは魔法を駆使して挑んだが結果は惨敗。アスタのライバルだった炎髪の少年も爆炎をまき散らして追い詰めたが最後は騎士団長の刃の前に膝座をついた。結局この地獄から生還したのはアスタただ一人。【
あの鍛錬は命の危機は感じなかった。鍛えるためのもので殺気はなかった。中には向けてくる者もいたが獅子と比べたらそよ風のようなものだ。光のないこの闇の中で拙い技術による探知と己の身体だけで魔王の魔法で生み出された異形と戦う。馬鹿げた話だとアスタは思う。
「あとどれくらいかはわからないけど……そもそも鬼ごっこだから逃げてもいいんだよね。全部倒すって言ったけど、あれと同じのが後二匹も来たらさすがにヤバいかも」
なんて言いながら、アスタの蒼光は依然として衰えることはない。だらりと剣を下げて脱力しているがいつでも対応できるように集中し身構えている。
残り時間は十五分。ここで魔王エーデルワイスはルールを破る。
「残り二匹は同時に行くわよ、アスタ君。乗り越えて見せなさい」
大蛇と大山羊が森に放たれる。命がけの鬼ごっこは終盤戦へと差し掛かる。
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