第15話 針子の意地

 作業部屋で一人でやるよりも、多少は狭い自分の部屋の方が落ち着くと思い、私はその後、場所を移して作業を続けた。

 深夜、静まり返った部屋に一人。

 耳が痛くなるほどに、なにも聞こえない。ただ糸が布をこすって通る微かな音が、私にはかえって心地よい。

 村の中ではいつだって、虫の音やら森の葉ずれ、それから谷を流れる小川のせせらぎ、山をめぐる風の音が、いつだって私を包んでいた。

 でも、これからはこの町で石と煉瓦に囲まれて暮らしていくのだ。


「……だれ?」


 ふと、部屋の隅に影が動いたような気がした。

 虫だろうか……前世で最も苦手としていた黒いアレを思い出して、ぶるりと首を振る。

 手を止め、じっとチェストの影の部分を眺めていたが、それからランプの影でできた闇は、じっとそこにいるだけで動くことはない。時おり揺れる炎のせいで、見間違えたのだろうか。

 気をとりなおし、再び私は針を持ち、作業を続けた。


 眩しい日差しを浴びて目を覚まし、いつの間にか寝ていたことに気づく。

 机に突っ伏していたためか、少々首が痛い。だけど寝具の上に広げた作品を振り返り、しょぼくれた目と寝違えた首のことなどどうでもよくなる。

 未明に目標の作業までをなんとかやりこなし、安心して仮眠を取ることができたのだ。

 これでなんとか、今日中にはイリーナさんに服を渡せる。そう思ったら、じっとなんてしていられない。顔を洗って服を着替え、部屋を出ようとしたところで、ヒルデさんが現れた。


「おはようリズ、少しは寝たの?」

「はい、おはようございます。なんとか目標のところまで完成しましたので、少しは……」

「でもまあ、満身創痍ね」


 ヒルデさんは苦笑いを浮かべながら、私のはねた髪を指ですいてくれた。そんなに酷いのかと備え付けの鏡を振り向けば、さもありなん。机につっぷして寝たのが、丸分かりというものだった。

 そんなヒルデさんに縫い付けたニードルレースの柄を見せると、美しい笑みを浮かべ、ねぎらいの言葉をくれた。

 それだけでも、私は嬉しくて頑張ったかいがあったと気が抜けてしまう。だけど、まだまだ。これはイリーナさんに使ってもらえて、はじめてその価値があるのだと思う。

 私はそう気を引き締めて、大急ぎで朝食をとり、次の作業に入ることにした。


 自分の仕事を大勢の人に見られるというのが、こんなにも緊張するものなのかと、私は冷や汗をかきながら作業場に立った。

 ここマルガレーテの従業員ということは、いわばこの国ではかなり優秀な針子たち。彼らの前に置かれた、私の徹夜の手仕事。それをじっと見つめられ、無言の時間にいよいよ耐えられなくなろうとしたとき……


「うん、いいね」


 ミロスラフさんの緊張感のない高い声が響いたとたん、皆が流れるように動き出していた。

 衣装に合わせるための裁断位置を測り、ベリエスさんが印をつけていく。そのあいだにエマが準備して、アンネとともに、レースになる部分の糸を引き抜く作業に入るようだった。クーンさんは他の護符との位置調節を始め、それら全てを統括するのが、ミロスラフさんだった。

 私は、そんな皆のテキパキとした動きについていけず、出遅れてしまった。


「こっちよリズ、手伝ってちょうだい」


 エマが笑いながら誘う席につき、私も手を働かせた。

 それから午前中いっぱいかかってレース部分を仕上げ、衣装のスカートの透かし部分に付け加えられた。あとは細部の始末。それだけで一日全てが費やされたのだった。

 これが、私の最初の仕事……そう思うと、感慨もひとしお。

 マネキンに着せられた、いわばパンツスタイルの衣装。ただ腰周りはスカート状の覆いがあるため、女性らしさがしっかりと残る。色はベージュの生地に、茶色と赤がアクセントで入っている。きっとこれを着たら、彼女の赤がとても美しく映え、中性的な美に誰もが見とれることだろう。そんな少女の姿を思い浮かべ、思わず満足の笑みがこぼれるのは、なにも私だけではないようだった。


「急いだわりには、上出来なんじゃないかい?」

「クーンさんの言う通りよ、これなら大丈夫、きっと」

「……クーンさん、エマ……そうなら、いいな」


 日も傾き、店の窓から赤い日差しが入る頃、梱包された衣装を抱え、ヒルデさんが馬車に乗る。

 私も直接手渡ししたかったけれど、イリーナさんは今、屋敷ではなく魔法騎士団の施設にいるらしく、それは叶わなかった。

 走り去る馬車を見送って、店仕舞いのために鍵をかけようとしたところに、背の高い影がさした。


「……ラルフ」

「完成したのか」


 後ろ姿を向けるラルフも、見えなくなった馬車の影を目で追っていたようだった。

 ハニーブロンドが揺れて、振り返る。そして私は鍵を閉めることを諦め、彼を招き入れた。

 

「明日、予定通りにレナーテの入れ墨を消す」

「……そう」


 ラルフのジャケットを預かり、襟元のほつれかけたコーチング刺繍を直しながら、イリーナさんの悲痛な決意を思い出し、胸が苦しくなる。針を運ぶ指も、いつしか鈍り、ついつい自分の指に刺してしまった。


「あ……」


 ラルフの服と、せっかくアンネが組んだ飾り紐が汚れないよう、慌てて離す。

 そして血のにじむ指を、ハンカチで押さえて止血。


「ごめんなさい、汚れてないから心配しないでね」

「そんなことはいい……傷は?」

「大丈夫、ちょっと刺しただけだから」


 動揺したとはいえ、針子としてはあまりにも恥ずかしい初歩的ミスに、私は顔を赤らめた。

 取り繕うように、針に新しい糸を通しながら、ずっと気になっていたことをラルフに聞いてみる。


「あの、明日はラルフも立ち会うの? その……イリーナさんの件に」

「ああ、そのつもりだ……気になるのか?」

「もちろんよ! だってイリーナさんは私の初めて……その、担当のお客さんだし!」


 初めての客と言おうとしたとたん、ラルフの表情が不機嫌方向にふれるのを見て、慌てて言い直した。


「そ、それに。魔法使いにとって、護符がどう作用するのかこの目で見てみたい。あ、魔法はよく分からないけれど、でも……少なくともイリーナさんにとって、私の刺繍がちゃんと役に立つのか、知っておきたいの」


 ここのところモヤモヤしていたことを、言いながら考えていた。

 そうなのだ、私は知りたい。

 自分が作った刺繍がラルフに良い意味で影響を与えたのなら、それを自分でも確かめたい。これからマルガレーテで働いていくのなら、なおのこと。

 だから……


「あの、お願い! 私をその場に連れてって……」

「ダメだ」


 意を決してお願いしようとしたら、すごい勢いで断られてしまった。しかもちょっと被り気味って、よほど気にくわないようで。


「どうして? 絶対にイリーナさんやラルフの邪魔はしないから」

「リズには、耐えられない」

「そんなこと……」

「リズ、お前はイリーナが、何をするか分かっているのか。友人の……それもおまえと同じ年頃の女性の、肌を焼くんだ。焼きごてで焼いても効果がないから魔法を使うというだけで、皮肉が焼けることに変わりはない。想像を絶する痛みは、魔法では消せない。相当の苦痛を耐えねばならないんだ。そこに立ち会うという意味を分かっているのか?」


 ラルフは冷たく言い放った。

 確かに、気軽にその場にいられるような状況ではないことは、私も分かっている。だけど、その辛い仕事を請け負うイリーナさんの、助けになると決めたからには、私も引いてはいけない。それに……


「……それでも、お願いします。イリーナさんより先に、弱音なんてはかないって約束するから」

「リズ……聞き分けろ」


 ラルフが困ったように唸る。


「それだけじゃないわ。イリーナさんが言ったの、リントヴルムが憎いって」

「……リズ、それは興奮していたイリーナの言葉のあやで」

「世界に充満してみんなを苦しめている魔力が、どこから来てるのか、私にだってもう分かるよ、ラルフ。昨日、ベリエスさんが教えてくれた」

「……あいつ、余計なことを」


 憎らしげに呟いたあと、ラルフはらしくなく、言葉を選んでいるようだった。どうしたら私に納得させられるか、その言葉を。


「私は、何が起こっているのか、この目で見て知らなくちゃいけない気がする。あの村の生き残りとして」

「リズ、それなら俺がいくらでも説明する、だから無茶を言うな。おまえがこれ以上傷つく必要はないんだ」

「それじゃダメ」

「リズ?」


 ラルフはきっと、あの頃の幼いリズを守ってくれようとしている。だけど、私は、もうあの無邪気なだけのリズじゃない。病院から外に出ることもないまま死んだ、前世の私のようにだけは、なりたくない。


「私は知りたい。役に立ちたいの。楽しいことも辛いことも、父さんたちとの辛い別れだって、全部ひっくるめて私のものよ。ラルフにだって譲れない、だって私、生きているんですもの、今このときも……」


 白いベッドの上に横たわるもう一人の私が、そう叫んでいるような気がした。

 きっとラルフには、どういう意味かなんてさっぱり分からなかったと思う。でも、彼は──理解、しようとしてくれたいた。


「ちっ……わかった」


 そっぽを向いたままだったけれど、ラルフが折れてくれた。舌打ちつきだったけれど。


「本当? 一緒に行っていいの?」

「ああ、ただし、絶対に俺の言うことを守れよ」

「うん、約束する! ありがとう……ラルフ」

「どうでもいいが、それ早くしろ」

「……あ」


 すっかり止まった手元に、布の切れはしがしゅるしゅると勝手に巻き付いていく。まるで包帯にでもなったかのように、布が傷口を包んで止まるのを、私は驚きをもって眺めていた。

 よく目をこらしてみると、意思をもって動く布切れから光の粉がほんの少し、落ちて消えた。それは金色に輝いていて、残りの軌跡を追うと、思っていた通り、ラルフの指先にたどりつく。


「これ……ラルフがやったの?」

「そうでもしないと、終わらなさそうだろ」

「ありがとう」


 私の作業が終わるまで、ラルフは不機嫌そうな顔をしたまま、それ以上口を開く気はなさそうだった。ぶっきらぼうだけど、幼い頃から変わらない優しさを、またひとつ見つけて私は嬉しくなる。

 それから私は丁寧に縫い合わせたジャケットを彼に着せ、彼は店を出る。一言だけ残して。


「明日の朝、迎えにくる」


 翌朝、私はヒルデさんとともに馬車に乗った。

 夕べ、店に帰ってきたヒルデさんに、ラルフを説得しきったことを報告したら、彼女はとても楽しそうな笑顔を見せたのだった。

 もともとヒルデさんは、ラルフに同行する予定だったらしい。それなら私にあれほど反対することないじゃない。と、少しだけラルフに憤りを感じずにはいられなかった。

 魔法騎士団からの迎えの馬車には、ラルフが乘っていて、私たちはグラナート随一の広大な敷地を持つ、騎士団本部へと連れて行かれた。

 そこに、イリーナさんとレナーテさんがいるのだという。

 それからイリーナさんの母親であるエリザベートさんもそこに。


「以前にも説明したが、エリザベートは騎士団の中にある施設で研究をしている。魔素のせいで暴走するアバタールが研究対象だが、それは人間の魔力酔い対策にも応用されている」

「……それでヒルデさんはレナーテさんが倒れたとき、最初にエリザベートさんを呼ぶように言ったんですね」

「そうなの、残念ながらあのとき彼女は留守だったけれど。今はレナーテとともにいるはずよ」


 ラルフだけでなく、エリザベートさんもいると聞き、少しだけ心強い気がした。


「リズ、この後はどんなことがあっても、大きな声を出したり、勝手に動くな。イリーナはまだ熟練されてはいない。些細なことで集中を途切らせるかもしれない」

「わ、わかった」


 次第に高まる緊張感。

 馬車は、重厚な煉瓦の高い壁に囲まれた敷地に入る。そびえ立つ大きな塔がいくつか見え、その一つの前で私たちは降りた。

 大勢の兵隊さんがいるのだろうと、勝手に想像していたそこは、ひどく静かで、閑散としている。古い石を積み重ねた外壁には、いくつもの紋章が彫られていて、少しどころか異様そのもの。その周囲には、何重にも魔法の痕跡のある、柵で囲まれていて……

 明るい朝でなければ、気分は肝試しか心霊スポット巡りって……どうなのそれ。

 するとラルフがキョロキョロと見回す私に、こっちだと入り口を指差す。


「人払いをしてあるんだ。万が一の暴走に備えて」


 ……え。

 そんな可能性もまだあったことを、すっかり忘れていたなんて。

 今さらすぎて、言えなかった。

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