第11話 リーゼロッテ1

 ラルフが来店した翌日、私に与えられた仕事はイリーナさんのための新たな刺繍を刺すことだったはず。

 住み込みの従業員の当番制で作る朝食を終え、自室を簡単に掃除をしたあと、作業場にやってきた。そこで早速ヒルデさんに渡されたのは針と糸ではなく、紙とペンだった。


「え、と。刺繍ではなかったでしょうか」

「そうよ、でも勉強になるから、デザインもいくつか考えてみて。資料はいくらでも使ってもらっていいわ、できればそうね……明日中にね」

「はあ……」


 いきなりデザインを考えろと言われるとは思ってもみませんでした。刺繍を入れる場所はスカートのウエスト部分か、裾。もしくは袖の折り返し部分。……目立つとこじゃないですか!


「そう緊張しなくても大丈夫よ。勉強のひとつだと思って、彼女に合いそうなものを考えてあげて。実際に採用するかどうかはお客さん次第なんだから、ね?」

「分かりました、考えてみます」

「ずっと考えるのも辛いでしょうから、合間にエマと刺繍の練習もね。いいかしらエマ?」

「ヒルデさん、今日は午前にベリエスさんの裁断を手伝うことになってるんですが、そっちもいいですか?」

「ああそうだったわねエマ、じゃあそっちをお願いね」

「はーい」


 ヒルデさんの指示のもと、私たちは各自作業にはいる。

 私はまず、ベリエスさんの手伝いをするエマとともに、大きな作業台の前に。するとベリエスさんが持ってきたのは、紺色の美しい布が巻かれたロールだった。


「これって、昨日お話していた女性用の……」

「ああそうだよ、騎士団の制服用のとっておき。コンファーロ紡績製の、一級品」


 ベリエスさんがそう言って目を細める。そして白い布手袋をはめる彼にならって、私とエマもまた布を汚さないよう手袋をつけた。

 エマと私が布を広げ、そこにベリエスさんが美しい金の玉がついた目打ちを、四隅に打つ。何が始まるのだろうと眺めていると、ベリエスさんが布の真ん中に薄い紙を広げた。きっと型紙なのだろうと思えば、そこに手をかざしたベリエスさんの呟きをきっかけに、紙が動きだしたのだ。

 するすると布の上を身ごろの形をした紙が動き、ベリエスさんがその形にそってナイフで印をつけた。するとそのナイフまでもがベリエスさんの手を離れ、勝手に動き出したのだ。

 ベリエスさんは完全に作業を紙とナイフにまかせ、私たちと同じように布を押さえているだけ。その間にもくるくると布の上でナイフが踊るのを、私は呆然と眺めていた。


「ちゃんと押さえておいて、ズレると台無しだから」

「は、はい」


 苦笑まじりのベリエスさんにそう言われ、私は手袋をはめた手に力をこめた。


「初めて見る?」

「も、もちろんです!」

「騎士団のものじゃなければ、普通にハサミで切るんだけどね。楽でもあるんだけれど、どうしても押さえてないといけないのが欠点でねえ」


 片身ごろが終わったら、次の紙をベリエスさんが投入。生地を無駄にすることなく、型紙が自ら向きを変えて在るべき場所に収まり、そこから縫い代を含んでナイフが印をつけていった。身ごろが終わったら袖、それから襟やポケットなどの小物まで。

 都合三着分ほどその作業を繰り返す。時間にしてかなりかかったかもしれない。

 それらの作業を終えて、ベリエスさんに「もういいよ、ご苦労さん」と声をかけてもらうまで、私は大きな口を開けっぱなしだったに違いない。エマには散々笑われてしまった。


「魔法なんですね、これも」

「そうだよ、魔法化身アバタールにとって魔法は、手を使うよりも容易いことだからね」

「どうして騎士団のものは魔法を使うんですか?」

「余計な匂いを残さないためだよ、彼らはとても敏感だからね」


 匂い、まただ。

 でも護符は手作りだからどうしても匂いは残るのでは。そう考えていたら、ベリエスさんが教えてくれる。


「護符は仕方ない。でも裁断にまで匂いをつけたら色々と面倒だから。それに僕たちの魔法には匂いがないから適している。たぶん、存在そのものが純粋な魔力でできているからかな。まあ僕が手でやっても同じだけどね、ほら、こっちの方が失敗する確率が低いし。この生地、とっても高いんだよ」

「リズはその匂いっていうのが分からないのよ、魔法使いじゃないもの」

「……ああ、そうか。普通はそこまで考えなくてもいいんだけど、魔法使いたちは誰が触ったものかかぎ分けられるんだ、不思議だね」

「すごく、ビックリしました。私、魔法のことあんまり知らなくて……」

「まあ確かにそうよね、リズって時々いろんなことがすっぽり抜けてて面白いわ」

「エマ、そう言うものではないよ。リズもそんなに気にすることはないよ、それに、きみの匂いは心地よい」

「え……」

「護符のことだよ」


 にっこりと目尻のシワを刻みながら笑うベリエルさん。


「やだ、その言い方はちょっといやらしいわよ!」

「おや、そうだったかい、エマ。じゃあ気を付けないと」

「そうよ、匂いだなんて」

「そっちかい? じゃあなんて言ったらいいのかなぁ」



 明るくて何でもはっきり言うエマに、おっとりしたベリエスさんは押されっぱなし。そんなベリエスさんが、初めて会ったときのような、恐ろしく暴れて手のつけられないワニ顔の魔法化身アバタールだなんて、いまや夢だったのではと思えるほど。

 そういえば今朝の朝食当番はベリエスさん。彼の作った卵と甘くしたミルクたっぷりのトーストは、とろけるほど繊細で美味しかった。そっと添えられたベリーの酸味との組み合わせも最高としか言いようがない。そしておもわずおかわりした私に、とろけるような笑顔でお礼を言ってしまう人なのだ。

 私にとって彼は、エマと同じく大切な同僚になっていた。


「じゃあ、手伝いありがとうエマ、リズも」

「はい、また勉強させてください」

「ああ、迷いがあると仕事は上手くいかないものだ、いつでも相談にのるよ」


 そうして私とエマは自分の作業に戻った。

 戻ったはいいものの、相変わらず素早い針さばきのエマの横で、私はペンを握りしめて真っ白の紙を前に唸るだけ。何も思い付かない。


「ヒイラギのリースを気に入ってくれたんでしょう、それもモチーフに入れたらいいんじゃないの?」


 苦笑いを浮かべながら、エマが助言をしてくれた。

 それならと、もう一度ヒイラギを描いてみた。だけどこれがイリーナさんにとってどこが気に入ったのか分からない。初めてマルガレーテで刺したものだから、とてもドキドキワクワクしていた印象ばかりで、それ以外に思い入れがあるかといえば、特にないのだから。

 そんなとき、ヒルデさんがどこからかやってきた。


「ああ、リズ。悪いんだけどお客様よ」

「お客様……?」


 ヒルデさんに作業場を連れ出されて店に降りてきてみれば、そこにいたのはラルフ。

 毎日くるとは言っていたけれど、本当に来るとは思っていなかった。

 店の奥に案内された無愛想なラルフのもとに、ぽつんと私だけ残されているのは、ヒルデさんが仕事のためこれから出掛けなければならないから。当然、他の従業員も作業中。そもそも最近では一番の儲け仕事らしい、魔法騎士団の注文にかかりきりなのだ。

 ラルフも仕事中じゃないのかしら。


「い、いらっしゃい、ラルフ」

「ああ」

「今日はどうしますか」

「釦がほつれた」


 昨日とはまた違って、胸元の釦が外れかけていた。脱いで渡された上着の背中には、また新しい擦れた跡。

 ……危ない仕事が、そんなにあるのだろうか。まだ怪我だって全快していないだろうに……

 つい上着を見つめて考えこんでいると、ラルフは私が何を考えているのか分かったのだろう。


「ささいな揉め事だ」

「でも……心配だよ、ラルフのそういうとこしか見てないから」

「しばらくは仕方がない、騎士団も人手不足だからな」

「そうなの?」

「ああ、だがリズは心配しなくてもいい、仕事には慣れたか?」

「みんないい人たちばかりだから、まだまだ分からないことばかりだけど楽しいよ。でも……」


 新しい刺繍のデザインには頭を悩ませていることを伝えようとして、ラルフのシャツの上に光るメダリオンに気づいた。そうだ、あれが少なくとも魔力酔いに効果があったのなら、応用できるかもしれない。


「ねえラルフ、その昔のハンカチ、また見せてもらえないかな」


 ラルフは無言でメダリオンを首から外し、渡してくれた。

 広げてみると、白いハンカチの縁には、懐かしい母の手仕事のレースが残っていた。風車を象ったレースを四隅に配置し、その中央に私の崩れかけたスミレが四輪。同じように丸く並び、花輪のようだった。

 初めての完成作。忘れるはずないってあの当時は強く思っていたのに、改めて見るまでなぜかすっかり忘れていた模様。


「これ、魔力酔いに効くのよね?」

「ああ、俺にはな」

「……ならこのデザインで、イリーナさんに護符を作ってあげたら良いんじゃ……」

「同じ効果が得られるとは思えない」


 とても良いアイデアだと思ったのに、ラルフにあっさりと否定される。


「どうして? だってこれがラルフを助けたって言ったじゃない」

「イリーナは俺とは違う、そういうことだ」

「わ、わっかんないよ、それじゃ!」

「どうでもいいけどリズ……仕事は?」

「あ……」


 ラルフの繕いをすっかり忘れていた。私は渋々ながら、糸を用意して彼の上着を膝に置く。いえ、腐ってもお客さんですから、きっちりやらせてもらうけど。

 私がブツブツ言いながら糸を通しているのを、ラルフは正面で足を組んで見ている。

 本当に尊大な王子さまなんだから。

 そんな王子さまの口から出たのは、その容姿のように美しいものではなく、ひどく醜い現実だった。


「魔法の素質が高い子供に、魔法使い以外の道を選ぶ権利など与えられてはいない。だからこそ色々と特権が与えられているが、実力の無い者は逆に考える。妬み、嫉みによるくだらない足の引っ張りあい。実力もないのに権利だけを貪ろうとする虫たちがうようよしている」

「……ラルフもそんな目にあったの?」

「蹴散らした」


 思い出したくもないのか、あっさりとそう言うだけ。でも蹴散らしたって、いったい何をやったんだろうか。

 ……会わなかった数年のあいだに、繊細で優しかった少年が変わった理由が、このあたりにあるのかも。

 でもじゃあ、イリーナさんも同じ?


「迷いがあれば足元を掬われる。俺は迷いなどなかったから、なんともなかったが、イリーナはどうだか」

「迷い?」

「魔法騎士団にふさわしい魔法使いであろうとする気概」

「ええと、イリーナさんも騎士団に入ることが決まってるの?」

「決められている。言ったろう、選ぶ権利は与えられてはいない。魔法は精神力に左右されるから、しっかり腹を括らないと、自分の魔力にのまれて潰れる」


 私はその言葉に、おもわずラルフを見上げる。

 その表情は、変わらない。でも彼は、とても恐ろしいことを口にしたのでは?

 魔力酔いで吐血するくらいなのに、潰れるってことは……

 魔法のことだけでなく、私には知らないことばかり。


「ラルフも、自分の人生を選べなくて、辛かった?」

「いや、俺は初めから決めていたから」

「決めてた? 魔法騎士団に入るって?」

「ああ、そうだ」

「はじめからって、小さい頃からってこと?」

「そう、リズに会った頃に決めた」


 小さな私は、全く気づいていなかった。

 最後の別れで涙を見せた天使のような少年の、どこにこんなに強い意思が隠れていたのか。

 それとも私の中で、リーゼロッテとしての記憶が霞んでいるせいで、忘れているだけなのだろうか。

 私の知らないラルフの新たな一面を知り、どこか胸が痛むのはなぜなのか。


 それから綺麗に釦をつけ直された上着を受け取り、ラルフは仕事へ戻っていった。また明日も来るからと言い残して。


 その夜、私は夢を見た。

 森と泉と動物たち。たくさんの薬草に囲まれた、平和なリントヴルムの村の、ちいさなリーゼロッテになって、一生懸命母にレースのお願いをする、そんな夢。

 遠くて、今の私にはとても手の届かない記憶。

 幸せで涙が出そうな、少年との出会いの欠片を、母にねだって拾い集めようとしたかったのかもしれない。

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