第9話 イリーナ
広場で会ったエリザベートさんが、学者をしていると言っていたのは覚えている。そして、こんなにたおやかな女性が、いったいどんな研究を? なんてほんの一瞬考えたことも。
大きなお屋敷はラルフの家ほどではなかったが、高い塀で囲まれた広い敷地をもつ豪邸だった。
使用人からエントランスでしばらく待つよう言い渡され、そこのソファから高い天井を見上げる。細かいガラスで飾られたシャンデリアがぶら下がり、大きな曲線を描く階段が壁からのびている。どこのコンサートホールだろうかと、空いた口が塞がらない。
しばらくすると階段を降りてくるエリザベートさんが見え、私はヒルデさんとともに立ち上がった。
エリザベートさんのすぐ横には、母親の長いスカートに半分隠れながら、こちらをうかがう可愛いシャルがいた。
「こんにちは、エリザベート様、いつもごひいきにありがとうございます」
「お待ちしてましたよ、ヒルデガルトさん、それにリズさん」
ヒルデさんが挨拶をすると、エリザベートさんが私にむかって笑いかけた。
「その節は、お世話になりました」
「なにを言っているの、お世話になったのは私たちのほうよ、ねえシャル?」
「うん、あのときはありがとうリズお姉ちゃん」
「はい、どういたしまして」
嬉しそうにぴょんぴょん跳ねるシャルは、相変わらず元気で可愛らしい。今日は猫ちゃんのぬいぐるみではなく、毛糸を編んで作られた女の子の人形を片手に持っていた。
私たちはエリザベートさんに案内され、お屋敷の奥へ。小さなシャルも一緒についてくる。
中庭を眺めながら、日当たりの良い客間に通され、そこでお仕事の話をすることになった。
ヒルデさんは相手がお得意様なせいか、慣れた様子で使用人が入れてくれたお茶を一口だけ含むと、道具鞄を広げさせた。そして中からは何枚かのデザイン画と、エマが作っていた護符の効果を持つ刺繍の見本を出す。
「こちらのものを提案しようかと思っています。お嬢様のお加減はどうですか?」
「ここのところ、やっぱり調子は良くないみたいなの。でもそれはいいのよ、とりあえず護符などで対応できているし、休みながらでも学業には問題ないわ……でも、その支障ないことが支障あるというのかしら」
エリザベートさんは困ったように言葉を詰まらせる。
「妬みを受けてはじめて一流の魔法使い、などと昔から聞きますけれど、若い子には酷でしょうね……リズ、採寸用の巻き尺がそこに入ってるから、箱ごと持ってきて。それから護符のサンプルも全部ね」
「は、はい」
「イリーナ様はお部屋ですね?」
「ええそうよ」
エリザベートさんに案内されるまでもなく、勝手に客間を出歩くヒルデさんの後を追う。
聞けば何度も来ているので、目的の部屋はよく分かっているのだそう。それにヒルデさんとエリザベートさんは旧知の仲でもあるらしい。
「イリーナ様、ヒルデです。入りますよ」
ある部屋の扉の前に来ると、ヒルデさんはそう呼び掛けるなり、返事も聞かずに扉を開けた。
するとなんと、大きな熊のぬいぐるみがヒルデさんめがけて飛んできたのだ。
「返事くらい待ってよ!」
こうなる展開を見越していたのだろうか、見事ぬいぐるみをキャッチしたヒルデさんの向こうには、燃えるような赤毛をしたショートヘアの、スレンダー美少女が立っていた。勝ち気な瞳は、明らかに不機嫌そうだ。
それでもヒルデさんは怯まない。
「今日は採寸させてくださいな、そろそろ以前のものがきつくなってきましたでしょう?」
「まだいい」
「あらまあ、そんな。合わない服を着ると、余計に嫌な部分が目立ちましてよ?」
イリーナさんは頬を赤くして、ヒルデさんから視線を反らす。
部屋着のような薄手の服を着ているイリーナさん。しかしよく見れば、すらりとした体型だからぱっと見では目立たないけれど、肩は少しきつそうで、袖も上がっている。たしか事前に十五才と聞いていたから、成長期なのだろう。
小さいまま成長が止まってしまった自分にくらべれば、なんとも羨ましい限りだ。
「紹介しておくわ、彼女はリズ。新しく入った従業員よ」
「リーゼロッテです、よろしくおねがいします」
燃えるような赤い髪、はっとするくらい澄んで清らかな水のような瞳は、美しすぎて魅入られそう。
だが一瞬後には、ぷいと外されてしまう。どうやら、警戒されているみたい。
「じゃあまずは採寸ね」
渋々といった様子だったが、イリーナさんは言うとおりにしてくれた。私は店長が巻き尺で測ったサイズを細かく書き留める役だ。
なんとも羨ましいプロポーションに、私がうなりながらノートを閉じると、イリーナさんと目があった。
今度は私が目を離す……ふと横を見ると、小さめのソファの上に、ちょこんと座る猫ちゃんの黒い瞳と目が合う。
あれって、シャルのぬいぐるみと同じ?
「リズ、そこのテーブルにサンプル全部広げてくれる?」
「あ、はい。ただいま」
ヒルデさんの指示が飛び、私は慌てて箱を開ける。二十枚くらいの護符……全て美しく草木や動物、図形の並んだデザイン刺繍にしか見えないけれど、それらを重ならないように並べていると……
重なっていたうちの一枚に、私は驚く。それは先程、私が練習用に刺した、エマの足元にも及ばないものではないか。
「どうしよう……」
ヒルデさんに意見を聞こうとしたら、いいから並べてと、小さい声で告げられる。
目の前では、並べられた護符を厳しい目で見つめるイリーナさん。気になるものを一つ手に取っては、戻す、を繰り返しているみたい。
黙々と繰り返す姿に、彼女の気を逸らさせてはいけないと感じ、同じように私の刺繍も置いて、全てを並べ終えた。
きっと私のものはめがねにかなうはずがないので、スルーされると思っていた。だけど……
「……これ」
なんとイリーナさんが私の作った刺繍を手に取り、しばらく目を伏せたまま黙りこんでしまった。
こんなものを売る気なのかと、彼女から怒られやしないかと、私は心臓をバクバクさせながら待つ。
「どこかで嗅いだ匂いがする」
ええ臭い? ……すみません、私、初めてで緊張して、たしかに手汗をかいてました。……あれ?
イリーナさんは目を開け、突然キョロキョロと周囲を見回したかと思えば、おもむろにソファにあった猫のぬいぐるみを持ち上げた。
「これだ。これと同じ匂い」
あ……。
ここでようやく、イリーナさんの言った意味が分かったような気がした。あの猫はやっぱり、広場で繕ったものと同じものなのだ。だから、同じ匂いって……
「じゃあ、護符はこれにする」
「ありがとうございます、ではそちらと同じものを、同じ制作者で作らせていただきますね」
ヒルデさんのすかさず入った営業トークに目を丸くした私。だけどここで黙っていたらいけないような気がして、口を挟んでしまった。
「同じ制作者って、ちょっとまずいです。それ、私の刺した試作品ですよ!」
「そうね、知ってるわ」
ヒルデさんがあっけらかんと答え、イリーナさんはびっくりしたような顔で私を見た。
それから猫の片目と刺繍を見比べ、一つ頷くと。
「いいよ、これで。これがいい」
「毎度ありがとうございます、では服のデザインを決めましょうか」
ええええ。
唖然とする私にはかまわず、ヒルデさんはデザイン画を手にする。
「さあ、後はもう選ぶだけだから、横になっていてくださいな」
「大丈夫」
「顔色がまだ良くありませんよ、シャルロット様が心配なさいますよ」
「……わかった」
渋々だが猫を手に持ったままベッドに入るイリーナさん。そういえば、学業を休んでいると言っていたっけ。確かに顔色があまり良くない。
ヒルデさんが紙を持ってそばに座り、いくつか絵を見せながら意見を聞く。私は刺繍を片付けながらその会話に耳をかたむけていた。
「あと一年で我慢も終わりじゃない、もう少しね」
「もう一日だって行きたくない」
「……友達は?」
「いるわけないって知ってるでしょ」
きつい表情と口調。
でもどこか苦しそうなのは、体調がわるいせいなのか。それともヒルデさんの質問のせい……?
「あら、確か同じ属性の、仲の良いご学友がいらっしゃったはずではありませんでしたか?」
「いない……彼女はもう、私のことは嫌っている」
目線をそらし、力なくそういう姿に、やはりそれは聞いてはならないことだったのかと胸が苦しくなってしまった。
しかしヒルデさんは動じた様子もなく、話題を変える。
「女の子らしいスカートに、たまにはしてみたらどうでしょう?」
「この髪で似合うわけない」
「そんなことないわ」
「そんなことある! いいの、いつも通りの服でいい」
ヒルデさんは大きな声で怒鳴られても、また笑顔をひとつも崩すことはなかった。あるデザイン画を取り出して、イリーナさんに見せた。
それは男性的なスーツスタイルを基本にしつつ、袖の折り返しやジャケットの裾、それからズボンの両サイドに飾りが施されていて、女性用とわかる工夫がしてあった。
イリーナさんはそれをしばらくじっと見て、不機嫌そうなまま了承した。
もしかしたら、もっと柔らかい雰囲気が好きなのかな。そんな風にも感じられた。だけどヒルデさんはそれ以上細かく聞くことはせず。
「よかったわ、それじゃこれで仮縫いができ次第、また合わせに来ますね。それまではこちらを預かっていただけますか?」
「……わかった」
イリーナさんはヒルデさんから私の刺繍を受け取った。
ええと、それ、なんで渡しちゃうんですか。
私の狼狽など知ってか知らずか、ヒルデさんはさっさと退室を告げる。そのまま彼女が扉を開け放つと……
そばで待っていたのか、小さなシャルが飛び込んできた。そのまま私とヒルデさんの間をすり抜けるように走り、姉のもとへ。
「姉さま!」
「シャル」
妹を迎えたイリーナさんのそのときの顔は、柔らかくてとても優しげに見えて驚く。
でもそうか、と納得もする。あの素直で明るいシャルを前にしたあの姿こそが、本当の彼女なのだ。
私はヒルデさんに呼ばれ、そんな二人の姉妹の様子にほっこり癒されながら、扉を閉めた。
それから私たちはエリザベートさんに注文の詳細を報告し、ミルヴェーデン家での仕事は終了したのだった。
店へ変える馬車の中で、ヒルデさんに教わった。
イリーナさんは、とても素晴らしい魔法使いの素質があるのだそう。そのために、幼い頃のラルフと同じように、今も魔力酔いによる体調不良に見舞われることが多い。
だけど彼女の憂いはそこではないのだと、ヒルデさんは言う。
「魔法使いは実力主義なのよ、だけどどんなに努力して勉強しても、最終的に行き着く限界点がそもそも違う。持って生まれた才能には誰も敵わない。だから幸運で才能に恵まれた子供は、才能を欲するものに疎まれて叩かれて、孤独に陥る人が多いの。子供は残酷だから……」
「それはつまり……虐められるってことですか」
「まあ平たく言ってしまうと、そうかもね。幼い頃ならまだそれでも、争いになることはないんだけど、どうしても彼女の年齢になるとそうも言ってられなくなる」
「年齢、ですか?」
「そろそろ進路が決まってくるのよ。優秀な者は今のうちから騎士団見習いとして、在籍中でも訓練に参加するようになるから」
「それで、お友達と……」
仲良しだった友人とも、ギクシャクしてしまったのだろうか。
どこの世界でも、妬みや嫉みは少なからずあるものだと思う。
だけど、あの美しいイリーナさんがそんな目にあうだなんて。私の知らない魔法の世界は、それほどまでに厳しく険しい世界なのだろうか。
じゃあ、ラルフも?
あの繊細で優しいラルフも、同じように苛められていたのだろうか。
最初の出会いから十年、私が田舎でのほほんと楽しく成長していた間のラルフが、どんな少年時代を過ごしてきたのだろうかと、このとき初めて考えた。彼は貴族の家柄だし、たくさんの助けに囲まれていたと信じたい。だけど……
ぶっきらぼうで不機嫌なイリーナさんの声や表情に、なぜかラルフが重なってしまう。
それからしばらくして店に帰りつき、しびれる両手で抱えた鞄を、よっこいしょと店の床に置く。
ジンジンと痛む手をさすりながら顔をあげた先に、ラルフがいた。
そして私を見下ろす顔は、なぜか不機嫌。
「待ちくたびれた」
「それは……すみません?」
いやいや、前言撤回。あの可愛らしい笑顔を秘めていたイリーナさんと、この人を重ねたら彼女に失礼かもしれない。
もっと顔から力を抜いて笑ったらいいのに。けれどもそんな顔も美しいなんて不公平だなあ、なんて思いながら彼を見上げていた。
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