1-17 『泣いたり、笑ったり』①


 病院には入らなかった。中庭で足を止めて、規則正しく並んでいる病室を見上げる。白いカーテンのせいで何も見えない。


 少しぐらいはいいだろう、と夕貴はベンチに腰かけた。中庭では桜の花が咲いていた。天気が良くて白い陽光が眩しかった。散っていく桜の木々が、いずれ訪れる春の終わりを予感させていた。


「なにしてんのよ。あんた、こんなところで」


 ぼんやりと空を見上げる夕貴を揶揄したのは藤崎響子だった。夕貴のとなりに彼女は座る。


「なんで行ってあげないのよ。あの子のところに」

「元気だったか、彩は?」

「なんで自分の目で確かめないのよ。なんでそんなことあたしに訊くのよ」

「元気ならいいんだ」

「あんたも気になってるんでしょ? 会いたいんでしょ? だからさっきからずっと彩の病室を見上げてるんでしょ? あの子、もしかしたら待ってるかもしれないじゃん」

「待ってないかもしれないだろ」

「それ、は……!」


 響子は顔を赤くして怒鳴りかける。しかし、すぐに意気消沈して肩を落とした。


「ひどい。ありえない。こんなのおかしい。バカじゃないのほんと。どうして彩がこんな目に遭わなくちゃいけないのよ」

「そうだな」

「あの子ね、あたしに敬語使うんだよ。首を傾げるんだ。ごめんなさいって謝ってさ。まるで他人みたいに、初めて会ったみたいに」

「…………」

「友達になったじゃん。一緒に遊んだじゃん。あたしの名前は響子じゃん。そんな簡単なこと、なんで忘れちゃうのよ」


 櫻井彩は、確かに一命をとりとめた。しかし、その代償として、まるで悪い夢から解放されたかのように悪魔に関連していた間の記憶の一切を失っていた。


 彩が遠山咲良の幻影を街で見かけたのは、大学の入学式の数日前だった。つまり、そこから今日に至るまでの思い出がすっかりと抜け落ちていることになる。


 夕貴と過ごした日々も、その胸に抱いた淡い想いも、そのうちの一つだった。


 もう二度と、夕貴と彩がともに笑い合うことはない。なぜなら二人は出逢わなかった。言葉を交わさなかった。名前も知らなかった。デートもしなかったし邪悪な化物に追いかけられることもなかった。


 だから目の前でふたたび親友が死んだことも、彩が夕貴を殺そうとしてしまった事実も、何もかも初めから存在しなかった。


 そんなものはなくてよかった。


 彩を傷つけて泣かせてしまう可能性があるものを、夕貴は全て遠ざけて生きていくことに決めた。


 その中にほかでもない自分自身が含まれているとしても、夕貴は迷わなかった。


 夕貴を見ることで、彼と一緒にいることで何かのきっかけで記憶が戻ってしまうかもしれない。取り戻せるのが笑顔だけならいいが、咲良にまつわる哀しい出来事をわざわざ思い出さなくてもいいだろう。


 ただ夕貴は直感的に理解していた。もう彩の記憶が戻ることはないと。


 あの夜、彩を救ったのはどうやら夕貴の力であるらしい。悪魔を消し去った悪魔の力。どんな効力があったのかは知らない。ナベリウスに聞けば教えてくれるかもしれないが、夕貴には尋ねる勇気がなかった。


 自分がどれほど酷いことを彩にしてしまったのか、それを知るのが怖くてたまらなかった。


 繰り返すが、彩は悪魔にまつわる記憶を全て失っていた。それはすなわち、一年前の悲劇でさえ、都合のいいように改竄されてしまっているということを意味していた。おそらく彩の認識では、本物の通り魔に母親と親友を殺されてしまったと置き換わっているだろう。


 それが夕貴のたった一つの後悔だった。


 確かに彩はこの一年間、抱えてきた真実の重みに耐えかねて、心に大きな傷を負っていたかもしれない。この結末は、長い目で見れば彩の人生にとってプラスとなるだろう。


 でもそれは家族や親友のためを想って、ここまで必死に頑張ってきた彩の努力さえも全部なかったことにしてしまうのと変わらない。


 本人が望んだならともかく、夕貴の力が勝手に作用したことにより彩の思い出が書き換えられたのなら、それは忸怩たる結果だ。もしそうなら夕貴は、意図しないうちに櫻井彩という少女の根幹を弄んでしまったことになる。


 ただし、悪いことばかりではなかった。オドと呼ばれる化物が消え去るのと同時に、傷ついた彩の身体は時間が巻き戻るかのように完全に癒されていた。入院しているのは検査を兼ねた用心のためで、もう数日も経たないうちに退院できるだろう。戦闘の余波で荒れ果てた河川敷も元通りになっていた。


 そう、何もかも、なかったことに。


 もしかしたら悪魔を消し去るのではなく、夕貴が持つのはもっと別の力なのかもしれなかった。


 彩と最初で最後のデートをした日のことを思い出す。大雨のなか、動く死体に追いかけられた。それが車に撥ねられて衝突し、大きく曲がったガードレール。凍結していたビル。


 そんなマスコミが飛びつきそうな明らかな怪異は、しかしまったく報道されることはなかった。


 夕貴の知らない間に、どこかの闇組織みたいなものが証拠隠滅でもしていたのかとも妄想したが、あれも彼の力が働いた結果だったのだろう。


 得体の知れないものが蠢いているように感じた夜は、たんなる夕貴の勘違いだったということだ。


 自分のせいだったくせに、自分で怯えていたのだ。


 なんとも笑い話である。


 哀れなのは響子だ。彼女は何も知らない。公式的には、夕貴と彩が二人でいるときに通り魔殺人の被害に遭った死体を目撃してしまい、そのショックで短期的な記憶障害を起こしたということになっている。そんな彩を慮って、響子を含めた親しい友人たちは、定期的に見舞いに訪れているらしい。


 どちらにしろ、もう夕貴には関係のないことだ。


 夕貴は携帯を取り出してメールボックスを開いた。ここ最近を辿ってみると、いくつか同じ名前が表示されている。件名はどれも丁寧で控えめなものばかり。そのくせ内容はどれも楽しそうで女の子らしいものばかり。一見すると大人しいのに、話してみると居心地がいい。文字からでも彼女の人柄が伝わってくる。


 一つずつ、夕貴はメールを消していった。そんなに数はなかったから、ほんとうに一つずつ自分の手で消していきたかった。どんなささやかな内容の文章からでも思い出は蘇る。それはこの世でもっとも色褪せた走馬灯だった。


 最後に櫻井彩という連絡先をなかったことにすると、夕貴の携帯は春が始まったばかりの頃と同じになった。


「……あんた、それ」


 それなのに響子は見つけてしまう。夕貴の携帯につけられたキーホルダー。かつて少年がプレゼントして、少女が受け取って、そして少年が取り戻した唯一の思い出。


 あの夜、彩の携帯電話は戦いの影響でスクラップになっていた。その残骸の中で、壊れてくれてもよかったのに、壊れないで残っていたものがあったから。


「ああ、これか」


 夕貴は小さく笑った。


「知ってるか? これはな、『ヤーマン』っていってな。『諦めないぞぉ!』が口癖なんだよ。いま俺の中ではけっこう流行ってるんだ。かっこいいだろ」

「知ってるわよ。あたしがどれだけ自慢されたと思ってんのよ。どれだけのろけ話聞かされたと思ってんのよ」

「そうか。そんなひどいことする奴がいたんだな」

「大丈夫。家宝にする、なんて意味不明なこと言い出したから殴っといた」

「……それはよかった」


 夕貴は天を仰いだ。空が青かった。それなのに、いつもより色褪せて見えた。いま見上げている青色は、明日見ればまた違った青色になるのだろうか。それとも曖昧な人の心が違う色に見せているだけなのだろうか。


 そんな詩人みたいなことを考えている自分に夕貴は苦笑した。


 キーホルダーを握りしめる。安っぽい感触。このまま指先に力を込めるだけで壊れてしまいそうだ。こんなにも儚い飾り物なのに、どうしてこいつだけは残ってしまったのか。なぜ夕貴は拾ってしまったのか。


「……未練、だなぁ」


 考えるまでもない。夕貴はただ諦めきれなかっただけ。どんなかたちでもいいから彩と繋がっていたという思い出を残しておきたかったのだろう。


 いつも最後の最後まで諦めきれない。


 相変わらず女々しい野郎だ、俺は。


「まぁあんまり落ち込むなよ。おまえがそんな顔してたら今度は彩が心配するぞ」

「それは……」


 響子は僅かに唇を震わせただけで黙り込んだ。言葉を探して、それが見つからなくて、でも何かを伝えたくて、そんな表情だった。


 風が吹いて、桜が大きく舞い上がった。冬の余韻を残した空気は少し冷たい。身体だけでなく心まで冷えてしまう前に、夕貴は立ち上がった。


「じゃあな。俺はそろそろ帰るから」

「夕貴……」

「なんかあったら連絡してくれ。相談には乗る」

「待って!」


 歩き出そうとした夕貴の背に、響子は顔を埋めた。熱い涙が服を濡らした。


「やっぱさぁ、こんなのってないじゃん! あんた、ほんとにこれでいいの!?」

「俺がいたら、彩が嫌なことを思い出すかもしれないだろ。せっかく元気に退院できそうなのに」

「それを望んでるって、彩がそう言ったの!? あんたに会いたくないって、そう言ったわけ!? 違うよ、彩はきっとあんたに会いたがってる! いまでも待ってる! あんた一人で格好つけて悲劇のヒーロー気取ってるだけじゃない!」

「彩にはもうあの事件のことは忘れたままでいて欲しい。だから会わなくていいんだ」

「そうかもしれないけど、でも……!」


 なおも食い下がろうとする響子に、夕貴はひどいことを言う。


「響子は、あのときの彩を見てないからそんなことが言えるんだ。人の死体を間近で見て、彩がどんな顔をして、どんな状態で、こうして記憶まで無くすはめになったのか、おまえにはわかるのか?」


 大切な幼馴染に、ありもしない作り話を淡々と披露できる自分。なにが正しくて、なにが間違っているのか、それすらも判然としない。


「わかんない。わかりたくてもわからない。もしわかってあげられるんだったら、あたしだって……!」


 この活発な少女にしては珍しい、悲哀に掠れる声で少年の選択を糺す。


「でも彩はあんなにも、あんたのこと……!」

「一つだけ、頼みがある」


 響子の言葉を遮るようにして夕貴は言った。その不可解な頼みごとを、響子は釈然としないながらも引き受けてくれた。そんなことが起こるわけがないと、口にした夕貴自身が理解していた。それでも一人の男として、ささやかな願いだけは信じていたかったから。


 夕貴はポケットからハンカチを取り出すと、振り向かないまま渡した。そして歩き出す。響子も男に泣き顔なんて見られたくないだろう。夕貴としては、もう女の子の泣いている顔なんて見たくなかった。


「おまえも早く泣き止めよ。あいつは、もう泣き止んだんだから」


 手を振って、まだ背中に突き刺さる視線を無視しながら、最後にもう一度だけ、夕貴は中庭に広がる桜色を見渡した。


 彩が生まれたとき、もしかしたら彼女の母親も、こんな景色を目にしながら抱いた娘のことを想ったのだろうか。


 なんて、もう夕貴には、関係のないことだけれど。

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