1-14 『彩鮮やかな幸福を』②
夕貴の顔が辛そうに歪んでいくのを、彩は目の前で眺めていた。せめて夕貴だけにはそんな顔をさせたくないって、そう思っていたはずなのに。
自分のしてきたことはぜんぶ無駄だったのか。
けっきょく、どう転んでも、どうあがいても、わたしにはだれかを傷つけることしかできないのか。
そう思うと、生まれてきた意味さえわからなくなった。
「もう疲れちゃった」
ずっと抱えてきた重みに耐えかねて、彩の上半身が前のめりに倒れる。夕貴の頭の両端にそれぞれ手をついて、かろうじて崩れそうになる身体を支えた。からん、と音を立てて包丁が地面に落ちる。
吐息がかかる距離で、さらに見つめあう。
「わかんないよ。どれだけ考えても。何がいけなかったのか。何が間違ってたのか。わたしにはもう、ぜんぜんわからない」
一人分の冷たい涙が、二人の頬を等しく濡らした。
「わたし、そんなに悪いことしたの? ただ笑っているお母さんが好きだっただけだよ? これからもずっと笑っていてほしかっただけだよ? それってそんなに許されないことだったの?」
限界だった。夕貴の前で涙を流したときから、彩の溢れる想いは止まらなかった。
ほんとうの自分を、夕貴に知ってほしくてたまらなかった。
「だから、お母さんが再婚するときは喜んだよ。ほんとはちょっぴり寂しい気持ちもあったけどお祝いしたよ。お母さんが幸せになってくれるならわたしも嬉しかったもん。ずっと昔、わたしがちゃんと我慢できない悪い子だったからお父さんはいなくなっちゃった。だから新しくできた家族を、わたしは今度こそ守りたいって思った」
かけがえのない親友ができて、彩は少しずつ心を開くようになっていった。
それも全て、お母さんのためだった。
彩の母親は、幼い頃から娘が自分を押し殺していることに気付いていた。娘にそんな無理をさせてしまっていることに親として罪悪感を抱いていた。もっと甘えてほしいと思いながらも、母子家庭となって娘に寂しい思いをさせた経験から、必死に我慢を続けようとする彩の心とまっすぐ向き合うことができなかった。
そんな母親の想いに、彩もまた気付いていた。だが嫌われてしまうことが怖くてやっぱり素直になれなかった。
それでも彩は、親にとって子供の幸せは、なによりも大切なことの一つだと理解していた。だから母のことを想うなら、彩がまず幸せにならなくてはいけないのが道理。いままで作り続けてきた『櫻井彩』という仮面を捨てて、本来の自分にならなければ真実の意味でみんな幸せにはなれない。
そう思ってしまったのが、きっと最大の過ちだった。
「ある日ね、お兄ちゃんから言われたの。わたしのことが好きなんだって。おかしいよね。兄妹なのに。でもわかるよ。悪いのはわたしだって。わたしが妹をちゃんとできていれば、お兄ちゃんはきっと間違えなかったはずなんだから。咲良ちゃんを選んでいたはずなんだから」
慎ましく平穏だった櫻井家は、そうして一つの歪みを抱えることになる。一度でも互いの胸のうちに秘めた想いを知れば、もういままで通りの兄妹には戻れない。
義理の妹に告白するのは、どれほど勇気がいるのだろう。だが兄にそれを決意させたのは、ほかでもない彩だ。
古くからの幼馴染だった兄と咲良は、彩が羨むほど仲がよかった。二人が結ばれることを密かに祈っていた。
だから咲良の告白を兄が受け入れなかったとき、彩は思わず彼に問い質した。なぜか口ごもってはっきりとした理由を言ってくれない兄を糾弾してしまった。咲良の泣き顔を見ていた彩は、不明瞭な受け答えしかしない兄に苛立ちを募らせていった。
そして間違える。
――ほかに好きな人なんていないくせに!
必死になって恋心に蓋をしていた兄に、きっかけを与えてしまったのだ。
もし彩が余計なことをしなければ、きっと兄から秘めたる想いを告げられることもなかっただろう。負けず嫌いな咲良のことだから、どんなに遠回りしても最後には兄のもとに辿り着き、その一途な恋を実らせたはずだ。
わたしは、ただ存在するだけでみんなを傷つけているのではないか。
何度もそんなことを思った。
「一年前、この街では通り魔の連続殺人事件があった。その犯人を、わたしだけが知っていた。でも言えない。言えるはずなんてなかった。だって!」
もう彩には、夕貴の顔さえ満足に見えなかった。涙で塞がった視界は、雨の日に咲良と対峙したときの光景を想起させる。
「親友だったもん! だれよりも咲良ちゃんのこと知ってたんだもん! きれいなのに可愛くて、努力家で負けず嫌いでちょっとドジなとこあって、一生懸命で、ほんとは優しいくせに不器用だからわかりづらくて! そんな咲良ちゃんのことがわたしは大好きだった! だから信じられるわけなかった!」
よくわからないものに心の空洞を支配されて、咲良は慢性的な殺人衝動に操られていた。
「その四人目の被害者は、櫻井深冬――わたしのお母さんだった」
夕貴の顔がこわばる。彼も知っていたのだろうか。櫻井深冬という名は、ネットなり雑誌で調べればわかることだから無理もない。
「わたしの大好きなお母さんは、わたしの大切だった親友の手で殺されたんだよ」
お母さんが笑っている顔が大好きだったのに、それだけで彩は幸せだったのに。
そんな簡単な望みさえ、もう叶わなくなった。
「それから毎日、ずっと同じことだけ考えてた。どうやって死のうかって。なんでわたしだけ生きてるんだろうって。楽に死ねる方法を何度も調べた。やっぱり苦しんで死んだほうがいいのかなって思い直してそれも調べた。でもけっきょく、わたしにはできなかった。怖かったんじゃない。そんなことしたら天国にいるお母さんが悲しんでしまう気がした」
死という究極の救いも彩には許されていなかった。今日に至るまで続いた一年という時間は、一人きりになってしまった彩にとっては永劫にも等しい地獄だった。
でもいまは違う。やっと彩は死ぬための免罪符を見つけた。それはこれ以上、目の前にいる少年を傷つけたくないという一途な想い。
なんとも報われない。滑稽すぎて喜劇にもならない。誰かの嘲るような笑い声が聞こえてきそうだ。
彩を助けたいと願ったはずの少年が、彩が死ぬための理由となるのだから。
彩の独白に、夕貴は静かに耳を傾けるしかなかった。もう喋れるし、その気になれば身体も多少は動かせる。だが剥き出しになった彩の想いに圧されて、心の身動きが取れなかった。
彩の顔が歪んでいる。愛おしい友情に。狂おしい憎悪に。
事件の真相は、じつに単純なものだった。遠山咲良が犯人で、彩の母親である櫻井深冬はその被害者。これまで彩がずっと探していたのは殺された親友ではなく、母親を奪った殺人犯。
事件は、もう解決しているのだ。咲良が死んだそのときから。
そこまで考えてから、名状しがたい違和感に夕貴は囚われた。全て明るみになったはずなのに、小さな怪訝の針がまだ胸の奥に突き刺さったままで、冷たい空気を飲み込んでも頭は明晰としない。
そうだ。もっとよく整理して考えてみろ。簡単な話だろう。盤面にはまだひとつだけ解決していない大きな謎がある。
遠山咲良が殺人犯で、櫻井深冬はその被害者で。
だったら。
遠山咲良は、いったいだれに殺されたんだ?
「お母さんを殺したあと、咲良ちゃんはわたしの前に現れた。それでね、こう言ったんだよ」
――わたしをもっと早く止めていれば、あんたの母親が死ぬこともなかったのに。
「その夜は大雨が降ってた。咲良ちゃんは持ってた包丁をわたしに投げて渡した。殺してほしいってお願いされた」
現在の彩と同じものに心身を侵されていた咲良は、せめて親友の手によって終わることを願った。あるいは贖罪だったのかもしれない。
「……だから、おまえが」
「できなかったんだよっ!」
夕貴の呟きは、しかし彩の叫声によってかき消される。
「できない! できるわけないじゃない! 殺してやろうと思ったよ! お母さんを奪った咲良ちゃんが憎くて憎くて仕方なかったよ! 復讐してやるって何度も思ったよ! でも、でもさ!」
いやいやと駄々を捏ねるように頭を振って、彩は続ける。
「親友なんだよ! わたしのたったひとりの親友だったんだよ! 嬉しかったもん! わがまま言っていいんだよって認めてくれた! こんなわたしのことわかってくれた! お母さんとどっちが大切かなんて、そんなの選べるわけない!」
だから、と。
これまでずっと背負ってきた罪科を、彩は告白する。
「包丁を持って立ちすくむわたしに、咲良ちゃんはいつもと同じように笑いかけてくれて――わたしの手を握って、そのまま自分で胸を突き刺したんだよ」
櫻井彩は心優しくて、愛が深い少女だった。憎むことも、赦すこともできないほどに。
「子供のころから諦めて、我慢して――そのときもやっぱり中途半端に迷っていたわたしに、お母さんの復讐を遂げさせてくれるために、咲良ちゃんはわたしの手で自殺した」
ゆえに五人目の”犠牲者”は、犯人でもある遠山咲良だった。
「でも確かに、咲良ちゃんは――わたしの親友は、わたしの手で死んだ」
これまでの彩の発言には、何一つとして矛盾はなかった。
――そして犯人は、まだ捕まってない。この街にいる。
咲良は死んだ。でも彼女を殺す一因となった犯人は、ずっと櫻井彩として存在していた。
――いまから一年前、わたしは大切な人をなくした。
だれも咲良のことだとは言っていなかった。それどころか、咲良のことを現在進行形で親友だと言っているところさえ記憶にない。
一年前に起きた悲劇を、彩はずっと一人で抱え込んできた。親友が殺人を犯し、自分も最愛の母を奪われ、贖罪を求める咲良には手を差し伸べてやることもできず、ただ目の前で自殺するのを見ているしかなかった。
だれにも相談できず、怒りをぶつける親友も哀しみを分かち合う母もすでにこの世にはいない。それでも咲良の名誉を傷つけないために、幼馴染の真実を知って兄が絶望しないように、彩はぜんぶ一人で耐えて、我慢してきた。
彩が頑なにほんとうの自分を曝け出そうとしなかったのは、距離が近くなればなるほど、その相手にも一年前の真実を背負わせてしまうかもしれないから。
もう限界だったのに、心はぼろぼろで崩れる寸前だったのに。
だれかに甘えたくて、わがままを言いたくて、たまらなかったのに。
それでも彩は、夕貴を巻き込みたくない一心で、何も知らずに距離を詰めてくる彼のことを何とか遠ざけようとした。だが一度でもぬくもりを知ってしまうと、また孤独に戻るのも怖かった。たった一夜でいいから安心して眠りたいと、自らの身体をためらいもなく差し出して、夕貴を繋ぎとめようとした。
ほんとうは寂しがり屋の甘えん坊のくせに、ちっぽけな携帯ストラップで子供みたいに喜ぶ単純なやつのくせに。
全てを知った夕貴がまず抱いた感情は、言葉にできないほどの憐れみと、理解した気になるのもおこがましいぐらいの同情。
そして、単純な怒りだった。
こんなになるまで自分を擦り減らしている彩に気付かなかった己に対する怒り。
巻き込めばよかったんだ、と都合のいい舌がぺらぺらと回って勝手に格好をつけそうになる。
しかし、それは彩の精一杯の優しさと気遣いを無下にするのと同じだ。彩の気持ちを理解したつもりでいるのなら、迂闊にそんなことを言うのは間違っている。
「一年前と同じだね。いまなら咲良ちゃんが、わたしに殺してほしいって言った意味がよくわかる」
「どういうことだよ」
「わかるでしょう。夕貴くんなら」
「……わからねえよ」
わかりたくもない。
「たぶん、わたしはもう引き返せない。さっきからね、ずっと幻聴が聴こえるの。殺せ、殺せ、殺せって、いろんな女の子の声がする。夕貴くんの血を見たときも、実を言うと、わたしは感じたこともない幸福感に満たされてた。頭にかかってるもやもやとした霧がいっぺんに晴れたような、そんな気分だった。もっと夕貴くんの血が見たいって、そう思っちゃった」
かたかたと彩の手が震えている。それは恐怖ではない。抗っているのだ。
「こんな人間、もう生きてちゃいけないんだよ。早くしないと夕貴くんのこと殺しちゃうかもしれない。そんなことお願いだからわたしにさせないで」
涙ながらに彩は懇願する。すぐそばに包丁が落ちている。一年前と同じように、それで今度は彩の胸を貫けば全ては解決するのだろうか。
何も選べなかった彩の代わりに、いま夕貴が選べばいいのだろうか。
人殺しとなった咲良に気付いていながら、彩はどうすることもできなかった。その結果、愛しい母親を喪ってしまった。
ここで彩を止められなかったら、また一年前の悲劇が繰り返される。名も知らない誰かが理由もなく殺されていく。そして今度は、夕貴の大切な人たちが犠牲になるかもしれない。
全てを失ってから後悔しても遅い。そのことは彩を見ていればよくわかる。
単純な話だ。どこに悩む必要がある。
出逢って間もない一人の少女を取るか、家族や友人も含めた大勢の人間を取るか、そんなの考えるまでもないだろう。
あとは覚悟を決めるだけでいい。
「……ふざけんな」
夕貴は否定する。まだわからない。方法の模索もしていないのだ。彩に憑依している悪魔のごとき存在を排除する手立ては、きっとどこかにあるはずだ。それを探しもしないで諦めてたまるか。
「時間がね、もうないの」
挫けない夕貴の意志を、だが彩はかぶりを振って否定する。
「人を殺したくてたまらない。その衝動が訪れる間隔がさっきから短くなってる。いまはまだなんとか我慢できてるけど、たぶん、そろそろ限界。ほんとにわたしは夕貴くんのこと殺しちゃう」
ああ、そうか。だったら簡単な話だ。俺がおまえにやられないぐらい強かったらそれでいいんだろうが。
「ねえ、おねがい」
彩の瞳から光が消えていく。それと比例して、肉体から迸るオーラは邪悪に淀んでいく。彩の手がしなやかに伸びて、夕貴の首に絡みつく。まるで抱擁でもするように優しく締め上げられる。不思議と苦痛はほとんど感じなかった。ただ少しずつ呼吸ができなくなっていくだけだ。
細く、小さく、冷たい指先は、やっぱり震えていた。それが渾身の力であることの証左ならまだよかった。
けれど、違う。
彩の目からは、もうとっくに枯れていてもおかしくない哀切の涙が、とどまることを知らずに滂沱と流れ続けている。彩は何も言わない。言葉を持たない。冷徹な眼差し。いっそ美しいと感じるほどの無表情。
ただ、どうしようもなく震える手が、彩の心を教えてくれる。
「くっ、そ――」
彩の腕を掴んで、引きはがそうと試みる。しかし、少女のものとは思えない膂力がそこにある。夕貴の全力でもどうにもならない。
意識が少しずつ遠のいていく。どうしてこんなことになったのか、俺はいま何をしているのか、そんなことさえ考えられなくなっていく。自分という自分が曖昧になっていく。
なんて皮肉だ。
守りたいと願ったはずの少女に、こうして命を奪われるなんて。
「お、まえ……」
しかし夕貴には、一つだけ許せないことがある。
「……んな顔、すんな、よ」
ぼんやりと考えてしまうのだ。
いまの彩を、もしお母さんが見たらどう思うのか。泣きながら人殺しをさせられている娘を見たらどんなに悲しむのか。
この世界はいつだって残酷だ。全員に等しく優しいわけじゃない。それぐらい知ってる。ときには親を疎む子がいたり、子に憎まれる親だっているだろう。
ただ俺は、それでも信じたいんだよ。
自分が愛して産んだ子供が、こんなことをしていて喜ぶ親なんているわけないんだって。
「おまえ、は――」
なあ知ってるか。女の子はな、笑っているほうが可愛いんだよ。血なんてぜんぜん似合わないんだよ。どんな親だって自分の子供には、だれかと一緒に笑っていてほしいって、そう思って、愛して、そして産まれてくるように願うんだよ。
おまえは、その中でも特別なんだ。そんなにきれいな想いと祈りの名を抱いて、この世に生を受けたんだろうが。
咲き誇る花があって、それを優しく見守る瞳があった。腕の中で安らかに鼓動を響かせるぬくもりには、そう育ってほしいと微笑んだ。
桜の花のように、彩鮮やかな幸福を。
小さなてのひらに、ただそれだけを願って。
だからおまえの手は、こうしてだれかを傷つけるためにあるんじゃない。いずれ愛する人と幸せに繋いで、その幸せを自分の子供にも伝えてあげるためのものだ。それをこんな間抜けな男の首を絞めるのに使うなよ。もったいないだろ。
ただそれだけを彩に伝えたい。神様でもなんでもいい。悪魔に魂を売らなければならないのなら喜んで差し出そう。天国でも地獄でも連れて行きやがれ。
だから、どうか。
そう願う声すら、もう発することはできない。何もかも手遅れだった。
萩原夕貴という少年の人生は、たった一人の少女の涙を止められなかった後悔に彩られながら、ここで終わりを迎えるのだから。
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