1-14 『彩鮮やかな幸福を』③


 だが、そのときは永遠に訪れなかった。


「え……?」


 ありえないものが視界をよぎったせいで、感情をなくしていた櫻井彩の瞳にわずかな人間性が戻る。


 しんしんと、音もなく、それは雲一つないはずの夜空から降りそそいだ。


「……雪?」


 信じられない気持ちで手を伸ばすと、人肌に触れるや否や夢のようにあっさりと溶けて消えていく。


 喉を締め付けていた手が離れたことで、萩原夕貴は咳き込みながら酸素を取り込もうとする。ほどなくして夕貴も、その季節外れの空の落とし物を目にして凝然となった。


 だから二人とも、それに気付かなかった。


「――ほら、せっかく忠告してあげたのに」


 澄み切った声は氷細工を連想させて、ひどく心地よく耳に響いた。


 霜の下りた芝生を踏みしめて、ゆっくりと何者かが近付いてくる。その足音は、次第に固く、冷たいものとなった。まるで一人だけ凍土の上を歩いているかのように。


 刻一刻と、気温が低下していく。


 荘厳なる冬を引き連れて現れたのは、銀の色彩を身にまとった女だった。腰まで伸びた長い髪は、白い雪よりも幻想めいて風に揺れる。凍てついた水晶のごとき瞳は、この世のどんな宝石よりも尊く、あまねく世界を閉じ込める。


 彼女のことをよく知っているはずの夕貴が、そして、自我を失いかけていた彩でさえ、思わず息を忘れて魅入るほどの他を霞ませる存在感。


 ただ、美しいということは、こんなにも人の心を奪うのだ。


「だから言ったでしょう?」


 距離を置いて立ち止まったナベリウスは、両手を広げて呆れていた。普段となんら変わらない、仕方のない弟を言い含める姉のような自然さで。


「あなたには、女を見る目がないってね」


 酸素が絶対的に欠乏していた夕貴は、途切れかける意識を保つのに精一杯で、意味のある言葉を紡ぐことはできなかった。この場にナベリウスが現れたことも夢か幻の類だと思っていたかもしれない。


 だから、これを紛れもない現実だと認めて、先に反応したのは彩のほうだった。


「……あなた、は」


 臓腑の底から絞り出すような、仄暗い憎しみに満ちた声。


「咲良ちゃんを、殺した」


 彩の弾劾を、だがナベリウスは平然とした表情のまま受け流す。


「あの子はもう死んでいたわ。一年前に喪われた命を、わたしはあるべき形に戻しただけ。あそこにいたのは彼女の想いをまとった残滓、つまり偽物に過ぎない」

「にせ、もの?」


 その言葉の意味が、彩はしばし飲み込めなかった。


 偽物――彩の前にふたたび現れた咲良は、確かに生前の咲良そのものだった。彩のジュースの好みを覚えていてくれたのに素直にお礼を言えなかった。子供にサッカーボールを蹴り返したときなんて、本人は気付いていなかったかもしれないが、バレバレなぐらい得意気な顔をしていた。


 一年という長い時間があったにもかかわらず、彩の心は、母親を殺した咲良を憎むと決めることも、不条理な悲劇に見舞われた親友を赦すこともできなかった。どっちつかずなまま約束の時を迎えてしまった。


 だから咲良は、あえて非情な悪役を演じた。信じられないぐらい下手すぎて、涙もこらえることができなくて、それが彩の心を後押ししたのは皮肉としか言いようがないけれど。


 赦されるよりは、せめて憎まれたかったのだろう。謝るのではなく、どうか償いたかったのだろう。


 そうして自分を納得させてからでなければ、咲良はどうしても伝えたい言葉を口にすることもできなかった。そういう不器用なところは今も昔もぜんぜん変わっていない。咲良は他人ではなく自分に厳しい、だれよりも強くて優しい少女だったから。


 彩ではなく自分の心を傷つけながら、慣れてもいない親友の悪口を必死に言って、一つの決着をつけようとした咲良の想い。


 それをこの女は――偽物と言ったのか?


「これでも申し訳ないとは思っているわ。わたしが余計な感傷に囚われていなければ、もっと違った結末もあったはずなんだから」


 ナベリウスがなにを言っているのか、彩にはまったく理解できない。唯一わかるのは、ナベリウスさえいなければ、咲良は死なずに済んだという事実だけ。


 もしナベリウスが現れるのがあと一秒でも遅ければ、暴走した咲良の手により彩が殺されていたとしても、そんなものは些事に過ぎない。


 だってあと少しで彩は自分の心を伝えられたはずなのだ。咲良もまた彩に最後の言葉を言えたはずなのだ。


 それが、そんなことだけが、別たれた二人には重要だった。


 その機会は、もう永遠に失われてしまった。


「あなたの、せいだよ」


 いつしか彩は、ナベリウスに対して憎しみを募らせることで現実から目を逸らそうとしていた。たったいままで彩が己の手で何をしていたのか、自分の下にはだれがいて、どうして苦しんでいるのか、それをひたすらに忘却するために。


「あなたのせいで、わたしと咲良ちゃんは離れ離れになった。ずっとこのときだけを夢見て、こんなありえない奇跡だけを信じて、今日まで頑張ってきたのに」

「そうね。わたしたちのせいかもしれない。だからあなたにはわたしを殺す権利がある」

「殺す? やめてよ。わたしはそんなことしない。するはずないでしょう。あなたとは違うんだから」


 彩が忌々しげに吐き捨てると、その怒気に合わせて大地に一筋の亀裂が走った。ぴしり、と連続して音が鳴り、彩の周囲が次々とひび割れていく。怨嗟の風が吹きさすび、柔らかく降っていた雪を蹴散らした。


 ナベリウスは眉一つ動かさず、むしろ感心したように頷いた。


「よくそれでまだ自我を保っていられるものね。そこまでいけば人の意志では抗えないはずなのに」


 本来ならとうに彩は限界を迎えているはずだった。彩に憑依した”何か”は、人間という種に慢性的な殺人衝動をもたらす。一定の間隔で訪れるそれは、ヒトの三大欲求が同時に飢えるような地獄の苦しみで、基本的には殺人という行為でしか満たされない。戦争も飢餓も知らない普通の少女に堪えられるはずもない。


 ようするに、彩にはここまで必死に頑張ることのできた理由があって、それが彼女を瀬戸際で食い止めていた。


「健気なものね」


 ナベリウスはうそぶく。


「そうまでして、夕貴には少しでも長くほんとうの自分を見ててほしかった?」

「あなたなんかにわかるわけないよ!」


 少女の悲鳴が、哀しいまでに響く。


「夕貴くんがいたから! この人がそばにいてくれたから、わたしはわたしでいられた! 夕貴くんだけは傷つけたくないって、夕貴くんだけには笑っていてほしいって、わたしはそう思って、これまでずっと……!」

「だったら、どうして夕貴を殺そうとしているの?」


 彩の身体が停止した。感情さえも凍り付いた。


「え? なに、が」


 意味がわからない。だから彩は、ナベリウスの視線の先を辿ってしまった。白銀の瞳は、彩ではなく、その下で仰臥している少年を見ている。


「……あ」


 夕貴の白い首には、赤い手形がついている。血ではなく、痕が残るほどの力で締め上げられたのだ。だれがそんなひどいことをしたのか、彩はわからなかった。わかりたくもなかった。


「ち、ちがう。ちがうよ。だ、だって、わたしは……」


 それはあまりにも報われない現実だった。はじめから殺人衝動に身を任せていればよかったのだ。こうしてだれかと会話もできないぐらい、もっと自分を捨てていればよかったのだ。


「残酷なものね。夕貴のことを想うあまり、人を殺す化物にはなりきれなかった。でもそうやって自分を殺しきれなかったせいで、夕貴を手にかけようとした後悔から逃れることもできない。もっと拙い気持ちだったのなら、あるいは」


 ナベリウスは目を閉じて、自分の発言を悔いた。どのみちもう手遅れだ。すでに櫻井彩は戻れないところまできている。


 ならば人の想いがこれ以上の悲劇を生む前に、人ならぬ身として全てを終わらせるだけだ。


「もう御託はいいだろう。いい加減に身の程を弁えろよ」


 夜空から降りそそぐ雪が激しさを増した。だが異変はそれだけにとどまらない。急激に下がった気温は氷点下を回り、吐息は濃霧のように白くなった。


 絶大なまでの冷気が空間を包み込んでいく。コンクリートが、芝生が、木々が、高架が、ありとあらゆるものが一瞬にして凍結し、見渡す景色の全てが銀色に染まる。


 それは生命の存続を否定する終末の光景にして、世界の片隅を塗り替える一夜だけの氷河期だった。


 森羅万象を凍てつかせるその権能を、古き時代の人々は恐れ、敬い、こう崇めた。


 《絶対零度(アブソリュートゼロ)》


 ナベリウスの全身から氷河を思わせる澄んだ波動が放たれる。長い銀髪が大きく巻き上がり、夜空に流れる。パキパキと凍てつく音がして、凍結の範囲がさらに広がっていく。


 何人たりとも侵すことの能わぬ、氷煉の世界。


「いつまでそこに跨っているつもりだ、人間」


 彩が夕貴に馬乗りになっているという事実は、かの大悪魔にとって断罪に等しい。対して、太陽のもとで育った普通の少女にしてみれば、それは心臓を鷲掴みにされている心地だった。


 たった一瞥に、常人ならば卒倒しかねない圧力がある。見られているだけなのに、いつ心が砕け散ってもおかしくないほどの暴威が、彩を絶え間なく蹂躙する。


 彩が夕貴から即座に飛びのいたのは、なかば本能によるものだった。そばに落ちていた包丁を拾って、できるだけ距離を取る。手足の末端が壊死しそうなほど寒いのに、彩の背中には冷たい汗が流れる感触がある。


「やだよ、こんなの。な、なんで……」


 彩は後悔する。どうしてこんなことになってしまったのか。


「わたしはただ咲良ちゃんと……夕貴くんと、一緒に」

「そう」


 ナベリウスは憐れむような目でしばらく彩を見ていたが、やがて冷めた声で言った。


「その前に、あなたは死ぬわ」


 銀の双眸がわずかに細められる。その直後、凄まじい轟音と、砕ける氷の破片。巨大な氷の剣山が地面を突き破り、彩の足元から天高くまで屹立した。その高さはもはや鉄橋に匹敵する。人体を貫くどころの威力ではなかった。ビルの崩壊さえ誘うだろう。それさえもナベリウスにとっては指を一本動かしただけに等しい所業だ。


 彩は寸前のところで躱した。その着地点に、槍を思わせる氷柱が雨となって降りそそいだ。逃げ遅れた服のすそが破かれて塵に還り、散った氷の欠片が頬に当たる。


 理不尽を訴えることも彩には許されていなかった。一歩でも遅れれば、跡形もなく貫かれて凍って死ぬ。命を燃やし尽くして、たった一瞬先を生きるために無我夢中で動き回るしかなかった。


 無骨な氷の槍が次々と大地を抉っていく。彩の肉体なら掠っただけで死ぬだろう。見晴らしのよかった空間はまたたく間のうちに、さながら森林のごとく氷の柱が林立している。


 ナベリウスは一瞬、夜空に目を向けた。視線をわずかに逸らしただけ。その所作を偶然にも目撃していたことが間一髪で彩の命を救う。


 頭上と呼ぶには高すぎる天空の果てに、宇宙すらも氷結させてしまいそうなほどの膨大な冷気が収束。


 空の遥か彼方に一つの新たな星が瞬いた。それは刹那のうちに大きくなる。光が降り注ぐのと、彩が地上から全力で跳ぶのは果たしてどちらが先だったか。


 入れ替わるように、墜落。


 天から落下したのは氷の巨大な破城槌だった。大型バスほどもある莫大な質量が、隕石のごとき速度で大地を穿ったのである。まず無音。先に衝撃が広がり、一拍遅れてから世界は音を思い出す。想像を絶する威力に天地が軋んだ。


 絶対零度が終わり、また始まる。


 氷の柱がいくつも粉々になって、微粒子に回帰していく。百のガラスが砕け散るような和音がして、億千の破片が舞い散り、月明かりが壮麗なオーロラを生み出した。巨大なクレーターが生成され、森羅万象が破壊に揺れた。


 上空三十メートル。衝撃波にも後押しされて、彩は人の力では到達し得ない高度まで跳躍していた。どこまでも澄み渡る夜空が彩を包み込む。いつもより月が近い。星の海に沈んでいく感覚。


 きれい、と場違いなことを彩は思った。


 その背後にナベリウスがいた。音速に等しい速度だった。細い脚が振り抜かれて、彩は大地に蹴り落とされた。地面に張っていた氷が爆砕する。粉塵が舞い上がり視界を隠したところに、ナベリウスは遅れて着地した。


 そこに一陣の突風が駆け抜けた。


 少女のかたちをした影が奔る。怒涛の速さに空気が弾かれて、煙幕が一気に晴れた。すでに彩の全身は傷だらけで、肌には血で濡れていないところがないほどだ。


 それでも彩は、包丁を腰だめに構えてまっすぐ走る。


 泣き叫びたくなるほどの痛みに支配されながらも、だれかを傷つけようとしてしまう。


 母のことも少年のことも忘れて、親友の運命を狂わせた元凶に、こうして自分も翻弄されるばかりの少女。


 その人生が、あまりにも儚いものだったから。


 ナベリウスは悼むように瞳を閉じた。


 彩の手に持っていた包丁は、ナベリウスの腹に突き刺さっていた。流れ出る血は赤く、それ以上に熱かった。


「満足した?」


 口元から一筋の赤い雫を流してナベリウスは言う。致命傷にはなり得ない。氷山につまようじを刺したようなものだ。だがその痛みは、確かに人間が感じるものと遜色はなかった。


 それは無意味な同情だった。かつて一人の少女が味わった痛みを、そしてこれから目の前にいる少女が味わうことになる痛みを、せめて自分も共有することに意味なんてないのに。


「あ、あ……」


 彩は柔らかい腹部を突き刺した感触に我に返った。茫洋としていた目には人間らしい感情が戻る。だからこそ彩は、自分の仕出かした行為がはっきりと理解できてしまった。


 ゆっくりと包丁が引き抜かれる。氷の上に血潮が飛び散った。


「あ、ああぁ――」


 彩は自分の手を見た。包丁を握ったまま、真っ赤に染まった手。


 一年前、大雨が降っていた夜も、そうだった。


 親友の胸を貫いたときの光景が、何もできずに咲良の手を借りることでしか復讐できなかった自分が、最後の最後まで彩のことを気遣うように痛みを我慢して微笑みながら死んだ咲良の顔が、一瞬にしてフラッシュバックする。


 声がした。もうひとりの自分の声が。


「やめ、て」


 ――あのときは何もしようとしなかったくせに。


「ち、ちがう」


 ――自分の命が危なくなったらみっともなく抵抗して。


「ちがう、の。ぜんぜん、ちがう!」


 ――我が身可愛さに、他人に刃物を向けて――


 直後、ナベリウスの身体から吹雪のごとき波動が放たれた。不可視のそれは、物理的な衝撃力をもって彩を吹き飛ばす。


 ナベリウスの全身を巡るオーラが活性化する。腹部の傷はたちどころに薄氷に覆われたかと思うと、次の瞬間にはあっさりと砕け散る。その下から現れたのは、元通りに再現された美しい柔肌だった。


 地面に倒れたまま事の成り行きを見守っているしかなかった夕貴は、そこでようやく声を出せるまで復調した。まだ苦しそうに喘息する夕貴のことを見た彩は、心配そうな表情になって、慌てて彼に手を伸ばす。


「夕貴く――っ!」


 だが自分にはそんな資格はないと思い直したのか、いまにも泣きそうに顔を歪めると、まるで夕貴から逃げるようにきびすを返した。少しずつ夜の闇に紛れて彩の姿が見えなくなっていく。


「ま、てよ」


 夕貴は満身創痍の身体を起こす。ついさっきまで夕貴の周囲には氷の壁が聳え立ち、あらゆる衝撃から彼を守っていた。それも戦闘が解除されるのと同時に砕け散る。


「待てよ、彩!」


 立ち上がると、夕貴は迷うことなく彩のあとを追おうとした。


「どこに行くつもり?」


 それをナベリウスが遮った。冷たい眼差しが物語っている。あとはわたしが始末を付けると。


「あの子たちはね、”悪魔のようなもの”に取り憑かれたのよ」

「……それが」


 櫻井彩を、そして遠山咲良の人生を狂わせた原因なのか。


「ええ。詳しい説明は後回しにするけど、簡単に言っちゃえば、ちょっとおかしな波動で突然変異した幽霊みたいなものでね。取り憑かれた人間は慢性的な殺人衝動に駆られることになる。発作が起こった場合、普通の人間ではまず抗うことはできない。さっきあの子が、あなたを傷つけたようにね」

「なんで……そんなのに、彩が」

「専門家でもないわたしには詳しいことはわからない。ただわたしの知る限り、これに取り憑かれた人間はみな精神を強く病んでいた傾向にあった。つまり、あの子はよほど心に深い傷を負っていたのでしょうね」


 もう一つの可能性を、あえてナベリウスは語らなかった。


 黒の法衣を身にまとう蒙昧なる詩人は、一年前にとある少女の願いを叶えた。ナベリウスはそれを遠山咲良のものとばかり思って、今回の事態はそれを前提に動いていた。


 しかし、ここまで後手に回らざるを得なかったことを踏まえると。


 もしかしたらあれが接触したのは、咲良のほうではなく――


「聞かないの? あの子を助ける方法」

「ああ。聞かねえよ」

「どうして?」

「俺が助けるからだ」

「あなたでは無理よ」

「それはおまえも同じだろう」

「はっきり言いましょう。あの子はもう手遅れよ。助けるためには殺すしかない」

「だったらお前は、どうしてすぐにそうしなかった?」


 夕貴は鋭い目で一瞥した。


「ずっと俺たちを見てたよな。手遅れだと知ってるならそれは無意味だったはずだ。まだ何かの可能性があったってことじゃないのか?」

「そうね。否定はしない」

「どうすればいい?」

「夕貴の秘められた力が解放されれば何とかなるかも」

「なんだ、じゃあ俺が諦めなければ彩を助けられるんだな」

「え、信じるの?」


 夕貴が受け入れてみせると、笑えない冗談を口にしたつもりだったナベリウスは目を丸くして驚いた。


「約束してたよな」


 夕貴は言う。


「ピンチになったら俺を助けてくれるって。そしておまえはそれを守ってくれた。感謝してるよ」


 ナベリウスは何も言わなかった。彼女は当然のことをしたまでで、礼を言われる筋合いなどない。 


「でもそれは俺だけだ。彩はまだなんだよ」

「だから言ったでしょう。いまのあなたには無理だと」


 もとより夕貴の力に一縷の望みをかけて、ナベリウスは限界が訪れるそのときまで少年と少女のことを見守っていた。それで何も解決しなかったことはもう証明されている。だからナベリウスは自らの手で幕を引くことを決めたのだ。


 だが、とナベリウスは自分の行動に矛盾があったことを認める。


 それなら櫻井彩を取り逃がしたことの説明がつかない。ナベリウスがその気なら、一秒とかからず決着はついていたからだ。櫻井彩を存在ごと凍結させることなど造作もない。


 当初、それは情けにも思えた。人間らしい亡骸だけでも残すという慈悲。


 しかし、ほんとうにそれだけなのだろうか?


 心のどこかで、ナベリウスはありもしない結末を望んでいるのではないか。


「約束があるんだ。おまえと同じように。俺にも一つだけ」


 夕貴は視線を切って、彩が消えた方向に目を向けた。静謐な夜を穢す不吉な力が感じられる。でも夕貴には、それが少女の悲鳴にしか聞こえなかった。


 彩が呼んでいる気がした。


「……なあ。おまえは迷子になったことがあるか?」


 ナベリウスは答えず、じっと夕貴の目を見つめている。


「実はな、俺はないんだ。いつだって母さんが迎えに来てくれたからな。信じられるか? 母さん、どこにいたって俺のこと絶対に見つけてくれるんだぜ。たぶん、ちょっとエスパー入ってるなあれは」


 夕貴、と。


 いつも優しく呼びかけてくれる声があったから。


「あいつには、もういないんだ。迎えにきてくれる人が。大好きだったお母さんが。だから俺が行くんだ」


 夕貴は足を踏み出した。絶対零度の上を歩く。こんな冷たい世界をたった一人でさまよっている少女のことを想って。


「やめておきなさい。ただ辛い結末が待っているだけよ」


 ナベリウスはどこか寂しそうな声で言った。


「そんなものは関係ない。俺はただ、諦めるのが大嫌いなんだ」


 頼りない足取りで走り出した少年の背を、ナベリウスは静かに見守っていた。


「あ、そういえば」


 ふいに夕貴は、ぴたりと足を止めて、肩越しに振り返った。流れ的にそのまま行くものだとばかり思っていたナベリウスはちょっとびっくりする。


「おまえって、マジで悪魔だったんだな。どうりで美人過ぎると思った」


 そんな抜けている気がしなくもない台詞を最後にして、今度こそ少年は振り返らずに去っていった。


 一人きりになった途端、ナベリウスは盛大に頭を抱えた。


「……はぁ。似なくてもいいところばっかり似るんだからなぁもう」


 周囲を見渡す。河川敷は不自然なほど静かだった。人の気配どころか、動物の息遣いも、虫の羽音も聞こえない。ここまで人払いが徹底されているとさすがに違和感しかなかった。


 この街を永久凍土の底に沈めない程度には力を抑えたが、その配慮も無意味だったかもしれない。


 十九年の時を経て、ナベリウスはふたたび表舞台に立った。その十九年間、ずっと待ち続けていた人間がこの国にはいることを彼女は知っている。


 こうして全てが始まる日のために。


 いつの世も同じだ。役者が変わるだけで、相反した物語はつつがなく進行している。


 知恵と万象の王ソロモンの夢見た世界と、蒙昧なる詩人グリモワールの下した予言。


 それは人が願うにはあまりにも大それた祈りだったけれど。


「せめて、もう一度だけ」


 ナベリウスは目を閉じて、これから訪れる未来に想いを馳せる。


 かつて涙を流しながら七十二柱もの悪魔を封じた、あの泣き虫な少女と同じように。





 次回 1-15『小さなてのひらに、ただそれだけを願って』

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