1-13 『桜の花のように』③
心が砕け散る音を聞いた。
返り血が妙に温かったことを覚えている。それ以外は知らない。知りたくない。たったいま目の前であっけなく死んでしまったのが自分の親友だと、彩は認めたくなかった。
だってまだ何もしていない。ずっと探していて、ようやく逢えたのだ。自分の気持ちと向き合い、心の在り方をちゃんと決めたのだ。いつか訪れるかもしれない、こんな嘘みたいな再会の日だけを信じて、彩は今夜まで色のない世界で独り耐えてきたのだ。
それがぜんぶ無駄になった。彩が迷っていたから、友情と憎しみの間で揺れていたから、たった一言を伝える時間がなくなってしまった。
一年前の夜と同じように、彩の前で冷たくなっていく咲良。その顔が、その身体が、まるで輪郭が崩れるようにして見たこともない少女のそれに変貌していく。少しずつ咲良の存在が世界から失われていく。
耳鳴りがした。
ぽっかりと空いた彩の心の空洞に”何か”が流れ込んでくる。ひたすらに黒く心が塗りつぶされていく。この世の果てよりも冷たい、おぞましいほど邪悪な力。それは遠山咲良が身に宿していたものと同質の異形だった。
拒絶する気は起こらなかった。むしろ受け入れなければと思った。彩の心身を侵食する禍々しいオーラの中には、この街で自殺した何人もの少女の悲哀とともに、咲良の魂も微かに感じられたから。
だったら否定していいわけがない。
もうわたしは、咲良ちゃんを傷つけたりしない。絶対に見捨てない。
「――ちっ、そういうことか。グリモワール。あのクソ野郎が」
彩の視線の先、咲良だった少女の遺体の向こう側には、この世のものとは思えないほどの美しい女が立っている。忌々しそうに舌を打ち、白銀の双眸を細めて彩のことを見ている。
彩はその場にうずくまり、寒さに震えるように両腕で自分の体を抱きしめていた。咲良から渡されたかばんを捨てずに胸のなかに抱えていたのは、そこに少しでも親友のぬくもりを求めたからだ。そして、こうでもしていなければ内から溢れるものを抑えきれないと、本能で感じ取っていた。
あまりにも暴虐な風が渦を巻いて、広場の周囲に立っていた木々をしならせる。吹き荒れる怨念。撒き散らされる慟哭。華やかに咲き誇っていた桜が少しずつ枯れていく。
そんな絶望の色をした暴風雨の中心にいるのは、櫻井彩だった。
銀色の髪がなびいていた。整った顔を難しそうに歪めて、こちらに向かって注意を促すように何か言っている。でも聞こえない。聞き入れたくない。親友を殺した女の戯言をどうして受け入れられるのか。
声が聞こえる。幻聴。とても寂しい声。いままで死んでいった女の子たちの痛み、無念、害意、血、人を殺せ、助けて、一人じゃヤダ、だからもっと一緒に連れていこうよ違うそんなこと望んでいない死にたくなかったのわたしも同じだよでもそうしないと次に行けなかったの知らないそんなの関係ないわたしはただ咲良ちゃんに――
「ナベリウス?」
少年の声がした。彩と、物言わぬ屍と、そして――銀色の女を信じられない目で見つめながら、萩原夕貴が立ちすくんでいた。
夕貴が辿り着いたとき、もう全ては終焉に向かいつつあった。
見たこともない少女の死体が転がっている。その手前に彩は座り込み、がたがたと震えながら自分の身体を按摩している。ついさっき、彩のものと思われる悲鳴を聞いたときは最悪の想像が脳裏を掠めた。
そして、それは真実となった。
彩は無事だ。生きている。しかし、その身体には、輪郭をぼやかせるほどの漆黒の陽炎がまとわりついている。陳腐な言い方をすれば、闇という闇が彩を苦しめているような光景だった。
吹き抜ける風が肌を刺す。比喩ではなく、ただ表面を撫でられるだけでも皮膚が蝕まれる。死者の念を凝縮してどろどろになるまで煮詰めたようなそれと、以前にも夕貴は大雨のなかで対峙したことがあった。だが禍々しさは比ではない。いまの彩は、あの女の何倍も濃いオーラを垂れ流している。
そんな彩のことを遠くから俯瞰しているのは、最近の夕貴にとって、ある意味では日常の象徴とも言える人物だった。
「ナベリウス?」
返り血の一滴も浴びていない彼女は、足元の死体と、その向こうでうずくまる彩を感情のない目で観察している。それがどうしても夕貴のよく知る彼女のイメージと結びつかなかったから、とても同一人物だとは初見で看破できなかった。
「ナベリウス、だよな?」
枯れた声で誰何する。そこで初めて、見覚えのある瞳が夕貴に向いた。
「あら、夕貴じゃない。何してるのよ、こんなところで」
まるで人の死が見慣れたものであるかのように、ナベリウスはいつもの泰然とした態度で応じた。
夕貴は震える声で問う。この場にいる意味がわからなかったから。目に入る全てが自分の理解を超えていたから。
それなのに。
これから訪れる未来を、なぜか予想できてしまったから。
「おまえこそ、何してるんだ?」
ナベリウスは一瞬、口ごもる様子を見せたが、すぐに澄ました顔で簡潔に答えた。
「人殺し」
短いが故に絶対だった。間違えようのない不文律だった。いってらっしゃいと、おかえりなさいと言ってくれた。優しく慰めてくれたときもあった。その口で、その声で、聞きたくなかった言葉だった。
「おまえが殺したのか」
「これから殺すのよ」
「なんで」
「あなたを守るため」
「どうして」
「わたしの意志だから」
「だれを」
「その子を」
「なんで! どうして! だれを!」
「同じことを二度言うのは好きじゃない」
きっぱりと告げられる。そして、と彼女は続けた。
「あなたもすでに気付いていることをあえて言うのは、もっと好きじゃない」
もう話すことなど何もない。そう言わんばかりに、ナベリウスは地べたで固まる彩だけを見据えた。
自分でも信じられないぐらいの速さで思考が回る。ありとあらゆる可能性を検討し、模索した。そこには数えきれないぐらいのパターンがあったが、しかし辿り着いた答えはどれも同じものだった。
ここに至るまでにどんな経緯があったのか、正確なところはわからない。しかし、どんなに自分を誤魔化してみても、揺らぐことのない事実を夕貴の目は捉えてしまっている。
彩は憑依されてしまったのだ。死体さえも操り人形のごとく動かす正体不明の化物に。
そんな取り返しのつかなくなってしまった哀れな少女を、ナベリウスはどうにかしようとしている。
たぶん、きっと、それだけが全てだった。
だれもが救われる魔法のような正解はどこにもなくて、考え得るかぎりの最悪の結果だけが何度も脳にシミュレートされる。
「ゆ、夕貴、くん……」
たった数秒の、永遠にも思えた静寂を破ったのは彩だった。最後の力を振り絞るような懸命さで振り向き、涙に濡れた瞳で夕貴を見ている。たどたどしく唇を動かして言葉を紡ごうとしている。
ああ、そうか。俺に助けを求めるんだろうな。
そんなことをぼんやりと夕貴は思った。
声にはならない。すでに発声するだけの力も彩にはなかった。だから夕貴は、何度も同じ動きを繰り返す彩の唇をよく観察した。
「に……」
逃げて、と。
確かに彩は、夕貴の目を見てそう言った。それだけを切に願っていた。もう何もかも手遅れの極限の状況下において、自分よりも夕貴の無事を優先した。
助けて、と言われていれば、あるいは夕貴は自身の命と他人の命を天秤にかけ、迷うこともできたかもしれないのに。
こんなときでも彩は、夕貴の知っている彩のままだった。自分のためではなく他人のために笑う少女。その優しさが好きで、たまに見せてくれる彼女の素顔はもっと好きだった。
失いたくないと、そう思った。
夕貴は彩に駆け寄ると、何の躊躇いもなく手を握りしめた。夕貴が触れた瞬間、彩がまとっていた昏い波動は煙のように消え失せた。でもそれは表面上だけだ。根絶したわけではない。彩の身体の奥の奥、それこそ心とか言われるような深い場所に悪魔は根付いている。
そんな二人を、ナベリウスは絶対零度の眼差しで見ている。素人の夕貴にもわかるほどの明らかな殺意が秘められた視線。それはナベリウスが彩のことを排除する対象とみなしている証左。
死体を前にしても表情一つ動かさないナベリウスという存在が、いまになって得体の知れないものに感じられた。そう感じてしまう自分が嫌だった。
だって楽しかった。どんなに憎まれ口を叩いても、言うことを聞いてくれなくても、嫌いになんてなれるわけがなかったのだ。美味しいご飯も、食事している夕貴を幸せそうに見つめる顔も、何もかも日常の幸福に色付いていた。絶対に口にはしなかったが、夕貴なりに認めて、彼女のことを信じていた。
それなのに、たった一つの側面を見ただけで、こんなにも心を離そうとしている弱い自分がいる。
きっとナベリウスにはナベリウスの事情があるのだろう。それを聞いたら夕貴はたぶん納得するだろう。
しかし、その事情とやらは、何度考えてみても一つの答えに行きついてしまう。
やがて訪れる未来に、ナベリウスの笑顔を見た。でもそこに彩の笑顔は永遠になかった。
だから夕貴は迷わなかった。
彩の手を引く。倒れそうになる身体を支える。彩は弱々しく何度もかぶりを振っていたが無視した。腰に手を回して強引に歩かせる。ナベリウスは動かない。固く手を結びなおす。彩の足に歩くだけの力が戻ってくる。前に進む。走る。どこかに向けて、何かから逃げ出す。
ナベリウスは押し黙ったまま、遠ざかる夕貴と彩のことを見守っていたが、しばらくして祈るように瞳を閉じた。
あてもなく夜の街を駆けながら、夕貴は、彩の笑っている顔をしばらく見ていないなと、そんなことを思った。
次回 1-14『彩鮮やかな幸福を』
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