1-13 『桜の花のように』②


 自然公園の端にある小さな噴水広場は、日が暮れてしまうと不気味なほど閑散としていた。大人数で寛ぐようなスペースを確保することが難しく、絶好の花見スポットである芝生を戴いた広場が正反対の位置にあるからだろう。いくつか並んでいるベンチは恋人がそっと寄り添うには似合いだが、いやに肌寒い風が吹く今夜に限ってはそんな物好きも見当たらない。


 あるいはみな察して、無意識のうちに避けていたのかもしれない。ここには人智を超越した異形の”何か”がいることを。


 そして、それは事実だった。


 だれもいない広場の中央に佇み、遠山咲良は桜の木を見上げていた。いくらか感傷的な気分になるのは、それが自分の名前の由来だからだろう。十九年前、咲良が生まれたときも、こんなふうに美しい桜が咲いていたと両親は話していた。


 目を閉じて覚悟を決める。背後から足音が聞こえてきた。見なくてもそれがだれかわかってしまう。ずっと逢いたいと願っていた相手のことを、だれよりも大切な親友のことを見誤る咲良ではない。


 足音が止まった。近くも遠くもない中途半端な距離。それがいまの二人だった。


「きれいね」


 あらかじめ用意していた小さなかばんをぎゅっと握りしめて、咲良は語りかけた。


「こんなにも桜がきれいに見えるのは、はじめてかもしれない。ええ、今日はほんとうに、とても桜がきれい」

「……大げさだね。そんなに変わるものでもないでしょう。毎年、この時期になると見ることになるんだから」

「花はね、いつだれと見るかで変わるのよ。だから、わたしにとっては今年の桜がいちばん特別。そんなこと、彩ならわかってると思ってたけど」


 二人は十メートルほどの距離を置いて向き合った。咲良はまっすぐな目をしている。やましいことも隠し事もない、心を映したように澄んだ双眸。彩が気圧されてしまったのは、それがどこかの少年とよく似た眼差しだったからだろう。


「こんな桜をね、わたしはこれからもずっと見ていたかった。明日も、一週間後も、一年後も、ずっと」

「勝手に見ればいいじゃない。咲良ちゃんはもうここにいるんだから」


 拗ねたようにぼやく彩の仕草は、昔とまったく変わっていなかった。それが嬉しい。どれほど心に傷を負ったとしても彩は彩のままだ。気丈に振る舞っているくせに怯えを隠しきれていないその表情でさえ、一年前に咲良と対峙したときのそれとまるで同じだった。


 そう、同じなのだ。それは彩がまだ心を決めかねていることを意味している。


 だから咲良の役割は決まった。たったいま、この瞬間に。


 彩が変わっていないのなら、咲良が変わるしかない。


「ねえ彩。――話をしましょう」


 咲良の顔に浮かんだ笑みは、これまでとは打って変わって見るものを不安にさせる嗜虐的なそれだった。


「ずっと聞きたかったのよ。彩がこの一年間、どんな気持ちだったか。寂しかった? 悔しかった? 憎かった? 怒ってた? それとも自分の手でやり直したかった?」

「わたし、は……」


 まだ咲良に向ける感情が定まっていないのだろう。迷っている。当然だ。そう簡単に割り切れるわけがない。それだけのことが二人の間にはあった。


 ゆえに咲良は踏み出す。もう後戻りしないために。後悔なんてしなくてもいいように。


「わたしはね。ずっと彩のことが憎かった」


 ぱりん、と音を立てて見えない何かが割れる。それは二人の関係であり、大切だった親友から悪意を向けられた彩の表情でもあった。


 戸惑うような、傷ついたような、彩の顔。


 いつだったか咲良は、これとまったく同じ表情を親友にさせてしまったことがある。


「いいえ、いまでも憎んでる。いつも彩は、わたしの欲しいものを奪っていった。わたしが唯一、大切にしていた思い出さえあんたは踏みにじった。むかつくのよ。見ててイライラするわ。男にはちっとも興味ありませんって感じで清楚ぶってるくせに、ほんとうはいつも誰かに助けてもらったり守ってもらうことを期待してて、自分の力では何もできやしない。でもまあよかったじゃない。今度、寄生する男はせいぜい頼りになりそうで。萩原夕貴くんだっけ?」


 さらに咲良は顔を歪めてみせる。夕貴の名が出た瞬間、これまで頼りなく揺らいでいた彩の眼差しが強くなった。過去でも未来でもなく、この場にいる咲良だけを見ている。


 怒り、憎しみ――それがどんなかたちであれ、彩から特別な感情を向けられていることに咲良は退廃的な悦びを覚えた。だれかに必要とされている証拠。世界から認められている感覚。


 そうやって自分を誤魔化す。


「咲良ちゃんは何が目的なの?」

「決まってるじゃない。あんたに復讐するのよ。そのためなら彼だって傷つけるわ」

「夕貴くんは関係ないよ!」


 強く激しい感情の発露。咲良の記憶にある大人しい彩からは想像もできない声だった。だから笑う。


「これはわたしと咲良ちゃんの問題でしょう!? わたしのことが憎いならわたしに仕返しすればいい! わたしのことが嫌いなら……は、初めから、あんなふうに、優しくしなければよかったじゃない!」


 彩の声音に隠しようもない震えが交じる。目だけは臆することなく咲良を見据えたままで、だからこそ彩の瞳の奥に隠された感情が手に取るように伝わってくる。


 目は口ほどに物を言うと――その言葉を遺した者は、かつてこんな哀しい瞳と向き合ったことがあるに違いない。


 だが咲良は満足そうに微笑む。悲痛に叫んでくれる彩の姿が自分の想像通りだったから。そんな顔をしてくれると思っていたから。


 自分の思い通りに事が進んでいることに安堵して、咲良はなおも言葉を重ねる。


「そうね。あんたが周りの男に余計な愛想を振りまく前に縁でも切ってればよかった。そのほうが彩にとってもよかったんじゃない? バカみたいに大切な人を喪うこともなかったんだから」


 こんな歪んだかたちでしか想いを遂げられない。死んでも治らない自分の不器用さが嫌になる。


「……ひどい。ひどいよ。なんでそんなこと言うの? なんでまたわたしをいじめようとするの?」


 ここまで彩が頑張って、必死に持ち出さないようにしていた話題を、あえて咲良は自分から投げかけた。そうしなければ前に進めないと思ったからだ。


「もういや。傷つくのも、傷つけるのも怖いんだよ。恨みたくも憎みたくもないんだよ。わたしはただ、咲良ちゃんと……」

「うっさいな。ごちゃごちゃ言ってる暇があるならわたしを止めてみなさいよ。じゃないとまた一人になるだけよ」


 冷たく突き放して、咲良は手に持っていた小さなかばんを放り投げた。彩の前に着地したそれは、意外なほど金属質で澄んだ音を響かせた。何が入っているか理解できたのだろう。彩の面持ちがにわかに固くなった。


「難しいことじゃない。それを拾って、わたしに向ければいい。ずっと昔、彩が果たせなかった復讐を、いまここで遂げればいいのよ。それでぜんぶ終わる」

「さ、咲良ちゃん……」

「十秒数える。それで彩が動かなかったら、わたしは萩原夕貴を殺す。言っとくけど、いまのわたしにはそれだけの力があるわ」


 咲良の細い身体から、黒く禍々しいオーラが放たれる。それは大雨の夜、夕貴と彩を襲った女が身に纏っていた気配とまったく同じだった。


 過去の詩人や学者が得意気に語ってきた”悪魔”という言葉が陳腐に思えるほどの、鮮烈な死の気配を漂わせる黒い陽炎。


 それは彼女がこうして『遠山咲良』でいられる理由であり、かつて『遠山咲良』でいられなくなった原因でもあった。


 萩原夕貴を殺す。その一言を聞いた彩は、眦を決すると落ちていたかばんを拾い上げた。中身は取り出さない。しかし、いつでも開けられるように指を添えて、ゆっくりと咲良のほうに歩み寄ってくる。


 彩の顔は苦しそうだった。白い肌には目に見える汗が浮かんでいる。近付くだけでも一苦労なのだろう。それほどまでに現在の咲良は、普通の人間には耐えられない負の存在感を放っている。


 そんな彩の様子を見た咲良は、また一段と表情を歪ませて挑発を繰り返す。


「怖い? わたしが? そうよね。どうせ彩にはできっこない。気持ちはよくわかるわ。他人より自分の命のほうが可愛いものね。だれだってそうだもの」


 彩は何も言わない。ただ泥濘を進むような重い足取りで咲良に向かってくる。


「だからほら、また逃げる。失敗する。後悔する。やり直したいと望む。けどできない。それを延々と続けて繰り返す。そんな人生に何の意味があるのよ。いまの彩を見たら、あんたのお母さんはどう思うでしょうね」


 ぱりん、とまたひび割れる。粉々に砕け散っていく。


「どうせ無理よ。今度も、きっと届かないわ」


 彩の母親は、いつも咲良の恋を密かに応援してくれていた。暖かな日溜まりが似合う心優しい人だった。咲良ちゃんみたいな友達がいてくれてよかったなぁ、と言ってくれた夜もあった。


 そんな恩人でさえ悪罵の対象にする。目的を果たすためなら咲良は何だって利用してみせる。


 こうでもしないと。


 こうでもしないと、咲良は言いたいことも満足に言えなかったから。


「運命なんて言葉は大嫌いだけど、でもまあ、けっきょうどう転んでもこうなっていたと思うわ。お互いに大切なものを失くしちゃった日から、ね」


 もう距離は近い。数歩も歩けば触れられるだろう。これで終わる。そう思って咲良は夜空を仰いだ。彩は咲良だけを見ていた。一方通行になってしまった視線。だから気付かなかった。


「……ね、咲良ちゃん。わたしたち、もう十九歳になっちゃったね」


 そういえば、と咲良はどうでもいいことみたいに思い出す。


 四月、偶然にも同じ日に産まれて、偶然にも同じ花から名前をつけられた二人の少女がいた。


「あの頃より一年分だけ、だけど、それでも大人になれた。だからわかるんだよ」


 正面から向けられる声に、いままでになかった種類の感情が乗せられていることに気付いて、咲良は訝しげに眉を寄せた。


 これは、なんだ?


「ううん、ほんとうはわかってた。ずっと知ってた。咲良ちゃんはわたしのせいで苦しんでるって。わたしなんていなければよかったって。だいじょうぶ。そんなのちゃんとわかってる。自分でもよく思うもん。わたしさえいなければ、お父さんとお母さんは離婚せずに済んだから。お母さんにわたしという重荷を背負わせることもなかったから」

「そう、よ。あんたはいらない。邪魔なの。目障りなのよ。そんなあんたのことが、わたしは憎くて、大嫌いで、仕方ないのよ」

「だったら」


 彩の手が伸びる。無垢で何の力もない弱々しい手。それなのに咲良は身を竦ませると、怯えて目を閉じてしまった。


 頬に何かが触れる。いや、もうずっと、初めから触れていた。とっくの昔に堰を切っていた。それに気付いていなかったのは、自分をうまく誤魔化せていると勘違いしていた咲良だけ。


「なんで咲良ちゃんは、そんなに泣いてるの?」

「……え」


 冷たい涙のうえに触れた指は温かかった。黒曜石のように澄んだ彩の瞳には、顔をひどく歪めて、静かに涙を落とす少女が映っている。


 その少女に、咲良は見覚えがあった。幼い頃からずっと鏡で見てきたから。


 血のにじむような努力をして、上手くいくこともあれば失敗することもあって、それでも自分にだけは格好悪いところは見せられないと意地を張ってきた、そんな負けず嫌いの女の子。


 この世界で唯一、自分が諦めなければ絶対に勝てるはずの相手。


 それがいまは泣いている。こんなにも泣いている。


「わたしはね、咲良ちゃんのこと……」

「やめろっ!」


 悲痛な声で叫んで、咲良は彩の手を振り払っていた。咲良の感情に呼応するように、その身体から邪悪な波動がさらに激しく流出する。


 それだけは彩の口から聞いてはならない。これだけは咲良の口から言わなければ意味がない。


 遠山咲良は、自分を納得させてからじゃないと櫻井彩と向き合えない。そのためにここまで回りくどくお膳立てした。死んでも死にきれなくて人ではない”何か”になってまで戻ってきた。


 どうしても、伝えたい言葉があったから。


「ごめんね、咲良ちゃん。嫌なことさせちゃって。わたしが何もできなかったばかりに、咲良ちゃんに無理を押し付けて。似合わない悪者の真似なんかさせちゃって」

「ちが、う……」


 真似ではない。ほんとうに悪者なのだ。親友のとても大切なものを永遠に奪ってしまったのだから。


 一年前のあの日からずっと後悔していた少女がいた。


 でも果たしてそれは、櫻井彩だったのか。遠山咲良だったのか。


「咲良ちゃん」


 彩は微笑む。そこにはもう憎しみも恨みもなかった。傷ついた二人の少女がいるだけだった。


「もうわたしの前では、嘘をつかなくていいんだよ」


 その一言が咲良の心を決定的に崩壊させた。いますぐにでも彩に触れたかった。思っていることをぜんぶ余さず伝えたかった。受け止めてほしかったし、受け止めたかった。


 咲良の望みは、決して難しいものではなかった。彩がそう言ってくれるのなら、あとは自分に正直になるだけで叶うだろう。


「彩、わたしは――」


 しかし、この世に都合のいい奇跡などない。


 そこであっさりと限界が訪れた。


 がきり、と機械のように咲良の身体が硬直して、目から人間らしい表情が消える。これまでとは比べものにならない膨大な波動が満ちて溢れ、黒く逆巻いて天に昇る。


 遠山咲良という少女の心に巣食った”何か”は、これまでお預けを食らっていた腹を満たそうと、目の前の獲物に――彩に向けて悪意の手を伸ばす。


 それは人が人である以上、決して抗うことのできない悪魔的な殺人衝動だった。


 身体の支配権を奪われて、心を蹂躙されても、咲良は伝えようとする。こんな姿になってまで彩のもとに帰ってきた理由。ちっとも素直になれない自分が、呆れるぐらい遠回りをして辿り着こうとしたゴール。


 あるいは咲良の口からちゃんと声は出ていたのかもしれない。だが強烈な耳鳴りがこだまして、彩にはほかの音を拾う余裕はなかった。


 止まることを知らない不協和音の中で、彩は手を伸ばした。咲良もまた反射的に手を伸ばす。二人の手が触れる。言葉がだめならぬくもりで伝えられる想いもあると信じて。


「――え?」


 当惑の声は、だれのものだっただろう。


 鮮血が舞った。

 

 びしゃびしゃと小気味よい音を立てて、止めどなくこぼれる血。


 冷たい槍のようなものが咲良の背を紙のごとく突き刺し、腹まで貫通していた。咲良に理解できたのはそこまでだった。


 背後から何者かの気配。銀色の髪が風に流れている。咲良の目の前にいる彩は、返り血をもろに浴びて、ぽかんとした顔で状況の推移を見守っている。


 この世から意識が消える寸前、遠山咲良が耳にしたのは、大切な親友の哀しい絶叫。


 伝えようとした言葉も、伝えてくれようとした言葉も、最後まで届くことはなくて。


 それは奇しくも、一年前の夜の焼き直しだった。

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