第47話



 目を覚ますと午前六時だった。僕にしては早い目覚めである。カーテンを開けて窓の外を見ると、まだ空は暗いままだった。今は冬だから当たり前といえば当たり前だ。けれど、そんな当たり前は、きっといつまでも続かない。僕の場合はそうだった。でも、だからといって、それが嫌だとは感じない。むしろ、本当に嫌なのは、当たり前がずっと続いてしまうことである。それは、言い方を変えれば、何も進歩しない、ともいえるかもしれない。変化がなくては生きていけない。だから、何かを変えるために今日も起き上がって行動する。変える「ため」というふうに、常に目的意識を持っているわけではないけれど、そんなふうに思うことができれば、おそらく少しは毎日が楽しくなるだろう。


 リビングに下りると、部屋の中は真っ暗だった。カーテンを開けて、シャッターを持ち上げる。冷たい風が室内に入り込んできた。洗面所に行って顔を洗い、鏡越しに自分の顔を見る。それは確かに僕の顔だった。けれど、前とは随分違うような気がする。そこに人工的な何かを感じてしまうことも、この瞳は、本当にこんな色をしているのか、と考えることも、昔の僕にはまったくなかった。そんなふうに感じるのはどうしてだろう? リィルを見ていても、そんな感覚に陥ることはない。つまり、これは、僕が自分自身を如何に大切だと考えているか、ということでもある。誰でも自分のことは大切だけれど、最近、ちょっと自意識過剰だな、と思うことがしばしばある。あまり良いことではない。だから、意識的に無意識になろう、といった、酷く矛盾した考えを、仕方なく受け入れるしかなかった。


 リビングに戻る前にキッチンに入って、コーヒーを一人分用意する。ぼうっと立ったままコーヒーが入るのを待ち、液体が入ったカップを持ってリビングに向かった。そのままソファに腰かける。窓の外はまだ暗いままだった。でも、それで良い。こんな静けさが僕は好きだし、リィルを見るとそう感じるように、その中にはちょっとした優しさが隠されている。


 コーヒーを飲んで、カップを手に持ったまま、僕は、固まって、機械仕掛けの人形のように、淡々と色々なことを考えた。


 まだ一度も見たことがないものを見たい、と思う。


 それはなんだろう?


 たとえば、川のせせらぎが太陽の光を反射する光景。


 それとも、地平線の彼方で空と海が出会いを果たす名場面。


 どうして、そんなことを考えるのか?


 それは、僕が人間だからか?


 僕が窓の外を見ると、曇っていることがとても多い。


 リィルと初めて目が合ったときのことを思い出す。


 彼女は、どんなふうに僕を見ているだろう?


 僕は、彼女に、僕を見てほしい、と思う。


 奇妙な連想は止まらない。


 誰かに教えてほしいと願う。


 リィルには、本当に僕の姿が見えているのか?


 僕が笑っていても、彼女はまったく嬉しくも楽しくもないかもしれない。


 それは誰にも分からない。


 窓の外に顔を向ける。


 曇り空の灰色が見えるだけ。


 リィルと初めて目が合ったときのことを思い出す。


 彼女は、どんなふうに僕を見ているのだろう?


 僕は、やっぱり、彼女に僕を見てほしいのか?


 ……分からない。


 そう、分からないことだらけ。


 僕が笑えば、リィルは本当に幸せになれるのか?


 僕には、彼女が必要だけれど、それで、本当に、良いのか?


 彼女が傍にいてくれることで、僕が幸せになれるから、それだけで、たったそれだけの理由で、リィルは僕の傍にいてくれるのではないか?


 僕は誰だろう?


 果てしない思索を繰り返しても分からない。


 追いつかない連想。


 明日になってもきっと答えは出ない。


 これからもずっと。


 成す術もなく。


 あとにも先にも見えるのは彼女だけ。


 それからどうしたら良いだろう?


 見つからない答え。


 落ちていくような感覚。


 色褪せた過去の思い出。


 繋がりの見えない過去と未来。


 折れそうになる気持ちを必死に繋ぎ留める誰かの意思。


 音も聞こえず。


 生きているのかも分からず。


 ぼろぼろになるまで歩き続けなくてはならない一生。


 綺麗に見えるかも分からない。


 見間違えてしまっても……。


 肩を叩かれて、僕は一瞬の内に幻想から現実へと戻された。横に顔を向けるとリィルが立っているのが分かる。僕はカップをテーブルに置いて、彼女が座るスペースを作った。リィルは僕の隣に腰かける。この距離感は、出会ったときからずっと変わらない。それが僕には嬉しかった。リィルも、同じように感じてくれていたら良いな、と思う。


 リィルはにっこり笑って、小さく首を傾げて僕を見た。


「やあ、おはよう」僕は小さな声で挨拶した。「久し振りだね」


 彼女はさらに首を傾ける。


「いや、それは違うか……。なんか、君と、こうやって向かい合って話すの、久し振りかな、と思って」


 リィルはにこにこ笑って、僕を見つめてくる。


「何かいいことでもあったの?」


 彼女は首を振る。それから、僕の手の上に自分の掌を重ねた。


「何?」


 リィルは答えない。


 視線。


 そのまま僕の手を自分の胸元へと導き、彼女はじっと僕の様子を観察する。


 僕は驚いたけれど、彼女が何をしようとしているのかすぐに分かった。


 そう……。


 そこには、彼女のウッドクロックがある。


 衣服の下から、時計の針が一秒ごとに刻まれる振動が伝わってきた。


 まるで生きているみたいに。


 いや……。


 彼女は僕と同じように生きているのだ。


 僕が彼女と同じように生きているみたいに……。


「どうしたの?」


 僕が尋ねてもリィルは答えない。そのまま瞼を閉じて、永遠の眠りに就くように安らかな表情で固まってしまった。


 僕も沈黙する。

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