第2話 来世でまた会おう! 前編

 街の中心地から数キロ離れた平地沿いにあるここ、私立麻利亜中学高等学校は、中高一貫校の男子校である。


 黒赤色のレンガ調の校舎からは、築10年だけあって清潔感が漂い、ありったけの財力を注ぎ込んだと思われる二階立ての体育館、芝生のグラウンド、ピカピカのプールは、壮観である。誰が何と言おうとここは県内屈指の名門校であった。


 その場所では今日も授業が行われていた。


「はい、じゃぁ自分が今までで一番つらいと思った経験を友達と話しあってみて!」


 山下先生が快活な口調で言った。


 今、山下先生の倫理の授業を受けているのは田中の属する4年2組である。山下先生は4年2組の担任でもあり、数少ない女性の先生でもあった。


 山下先生の授業は、ほとんどの時間が友達同士の会話で終わる。倫理といえば思想家がたくさん出てくるが、山下先生の授業の流れは以下の通りである。


 1先生がその思想に関する話題を生徒に提案する

           ↓

      2生徒が話し合って発表

           ↓

     3先生のまとめ、思想家の紹介


 今は1のステップである。田中は、右隣の席の岡田と右斜め後ろの席の龍美の方を向いた。だいたい田中が授業中喋るメンツはこいつらである。


 こいつらの話をしておこう。岡田は田中と入学してからの4年間、ずっと一緒のクラスで、仲がいい。背は170センチくらいの田中よりも少し低いくらいだが、体重は50キロの田中に比べて65キロと大きい。顔の円周率が3.14なので、友達からは「メスゴリラ」とよく言われ、ネタにされる。・・・なぜかメスなのである。純粋な性格で、そのせいで「メスゴリラ」など皆からネタにされやすい。面白そうなことには目がない。


 龍美(たつみ)は元帰宅班のエースであり、現ハンドボール班である。がっしりとした体つきで、胴が長く、顔が少々でかい。しかし、整った顔立ちをしており、将来はイケメンになる可能性がある。友達からは「師匠」という愛称で呼ばれており、朗らかで、度胸もある。クラスの人気者だ。ツッコミが多い。


 まずは龍美から話し始めた。


「1番つらかったことってあるか?パッと思いつかんけど・・・」


「あー俺あるわ。めっちゃ印象に残ってるの」


 田中が言った。






☆★☆






*田中のつらかった思い出


 それは田中が小学校三年生の時だった。児童館から自転車で帰る途中、田中は二つの岐路に差し掛かった。


 普段は左側の道から帰るのだが、その日は何となく右側の道を通ろうと思った。左側は遠回りになるが、安全に帰れる。右側は用水路が通っており、ちょっとしたコンクリートの橋(といっても一メートルくらいだが、手すりが無い)を渡らなけばいけないため、少し危険だった。


 しかし、田中少年は以前も数回通って帰ったことがあったため、今回も楽勝だと、狭い道端を自転車から降りずに進んでいった。そして案の定、田中は橋を渡ろうと曲がる時に後輪を引っ掛け、用水路に転落した。


 幸い一度自転車がクッションとなり、水量もそれなりにあったため、怪我をせずに済んだ。やらかしたと思った田中少年。すぐさま自転車を起こして用水路から出ようとするが、2メートル程の高さがあり、とても持ち上げることができない。


 田中少年は悪戦苦闘するが、自分だけ這い上がるので精一杯だった。おそらく排泄物が混ざっているであろう水が、自分の自転車によってせき止められているのを呆然と眺めながら、田中少年は自分にとっての最終手段をとった。


 田中少年はキッズ携帯を開き、母に助けを請おうとした。しかし、ポケットを探すがキッズ携帯がない。ハッと用水路を見ると、キッズ携帯は汚水に浸され、画面が割れていた。急いで確認するが、電源がつかない。まさに、「万策尽きたー!」である。


 田中少年の目からは涙が溢れ出した。真面目な彼には自転車をこのまま放っておくこともできない。しかし、どうしようもない。しかも携帯が壊れた。母に叱られるかもしれない。田中少年はえんえんと泣き叫んだ。


「どうした、坊主?」


 そこに現れたのはヤンキー風のお兄さんだった。その頃やっていたドラマGTOの鬼塚そっくりで、金髪にピアス、黒のタンクトップ姿に腕に刻まれた刺青のような紋様。若干の時代錯誤感が否めないそのいかつい風貌は、田中少年の涙を止めるには充分だった。


「これ、上げたいのか?」


 田中少年がコクリと頷くと、鬼塚は片手で軽々と自転車を引き上げた。ほい、と田中少年に預けると、背を向けた。


「じゃあな、気をつけろよ」


 そういいながら鬼塚は来た道を戻っていった。その背中はたくましく、「ヒーロー」と呼ぶに相応しい姿だった。


 田中少年はしばらくの間あっけにとられていたが、かろうじてお礼を言うと、やっと電源がついたキッズ携帯で、母に連絡をした。母は心配ばかりして、叱ることはなかった。


 田中少年は自転車引きながら慎重に帰っていった。途中、もしかしたらまた会えるかもしれないと思ったが、その願いは叶わなかった。もっとちゃんとお礼を言っておけばよかったな、とちょっとした後悔を胸に、夏の夕暮れ時を本物のヒーローを見た泣き虫のある少年は歩くのだった。






☆★☆






「いや、いい感じで締めてんじゃねぇよ。ていうかそれ辛い経験じゃなくね?どっちかというとその鬼塚似の人が超カッコ良かったって話じゃん。ジャンプの新連載でありそうだわ。ヒーローなるやん」


 龍美のツッコミが炸裂した。今日もいいツッコミである。ツッコミがあるからボケることができるのだ。


「うーん、まぁそうかぁ。でもあの時けっこう絶望してたと思うけどなぁ」


「あ、その泣いたっていうので思い出したわ」






☆★☆






*龍美のつらかった思い出


 それは師匠が中学校3年生の時のことだ。師匠はその頃、いわゆる「反抗期」という時期に突入していた。


 大人はバカで、周りのみんなは洗脳されている。自分だけが正しくて、いつも自分は孤独だと感じていた。彼自身、現在はそんなことは思っていないが、あの時期自分がいわゆる「反抗期」だとは認めたくないらしい。むしろ、自分の思いを突き通していたことを誇りに思っている。しかし、その頃の彼にとって、他人を卑下することはかなりのストレスであった。


 ちょうどその頃、二週間後に控えていた音楽祭に向けて、合唱の練習が日々行われていた。朝のホームルームの時間、やる気の無い生徒たちは、教室の後ろに並ぶと、かったるそうな声で歌い出した。


 龍美にはそれが無意味で、まるで整列させられた家畜の所行に等しく思えた。彼は絶えきれなくなって、教室を飛び出した。


 ちょうどその時、当時の担任の荻窪(おぎくぼ)先生が通りかかった。彼は28歳と働きざかりの年頃で、どの先生よりも人一倍、音楽祭に情熱を傾けていた。当然、龍美を呼び止めた。


「どうした、龍美。練習やってるだろ?早く入れ」


「嫌です」


「どうしてだ?なんかあったのか?」


「・・・みんなやる気ないじゃないですか。それなのにこんなに時間使っても意味無いですよ」


「う~ん、そうだなぁ。まぁお前の気持ちも分からんでもないが、・・・おい、お前その前にまずはポケットから手を出せ」


 龍美は無意識のうちにポケットに手を入れて話していた。別段悪気があったわけではなかったが、その荻窪先生の命令口調が龍美のかんに障った。


「いやです」


「は?」


 荻窪先生は年のわりに少し老けて見えるほど厳つい顔をしている。普段はそのギャップもあって優しく見えるのだが、怒る時はまさに鬼の形相である。荻窪先生は、龍美に少し高圧的に迫った。


「なんでや。なんかわけでもあるんか」


「だって、意味ないじゃないですか。先生、俺たちは人間として対等ですよね?だったらポケットに手を入れていようがいまいが、話している内容は変わらないでしょう?俺には先生が先生という社会的立場を使って、俺たちの個性を圧迫しているように思えます」


「あん?なに屁理屈抜かしとんじゃわれ。礼儀や作法も社会で生きていく上で欠かせんもんじゃろうが。それを身につけるためにお前は学校に来とんじゃないんか」


 龍美の足はガクガクブルブルと震えていた。ここまで来ると、どちらが正しいかという問題ではない。二人の頭の中にあったのは、どちらが論破して勝つことができるか、ということのみであった。


「俺が学校に来てるのはきちんとした教養を身につけるためで、べ、別に作法とかを習いに来ているわけじゃありません」


「あん?じゃぁお前学校来んでいいやろ。勉強だったら通信制の学校でもできるし。ていうか学校行かんでもいいんじゃないん?・・・お前が言うんだったら」


 荻窪先生は、教師が学校に来るなと言ってはまずいと思い、最後に言葉を付け足した。


「そ、それは・・・」


「・・・放課後来い。後でみっちり話すぞ」


「はい・・・」


 荻窪先生は去っていった。突き当たりを曲がって見えなくなると、龍美はトイレに駆け込んだ。便座に座って、歯を食いしばる。体の震えが止まらない。龍美は、これが本物の恐怖なのだろうかと思った。否、違う。これは恐怖なんかじゃない。信じていたことを実行できなかった自分に対する、そして負けたことに対する悔しさだ。目からは涙が溢れ出し、それを袖で必死に拭う。


 いい子として振る舞ってきた龍美はこの時、初めて敗北を知ったのだった。






☆★☆






「ポケットに手つっこんでて怒られるとか、しょうもなっ」


 田中が言った。


「いや、でも数学の荻窪先生でしょ?さすが師匠だわ~」


 岡田が称えるように言う。


「やっぱ三ちゃん分かっとるわ~」


 三ちゃん(さんちゃん)は岡田の下の名前、三郎からつけられたあだ名である。


「ありがとうw」


 二人はハイタッチをした。それを尻目に、田中が言った。


「でもさ、荻窪先生ってハンド班の顧問じゃなかったっけ?」


「いや、結局ねぇ、喧嘩したあと仲直りした。それで、そのままハンド班入った」


「おー、さすが師匠。いえ~ぃ」


 岡田と龍美はまたハイタッチをする。


「なるほどなぁ。お前帰宅班のエースだったのにねぇ」


 田中が冗談っぽく言う。


「まぁ俺チャイムが鳴った前から帰り始めとったけぇ、うん」


「それで、岡田のつらかった経験は?」


 龍美の発言はスルーされた。


「いや~二人ともすげぇな。俺まじで思いつかん」


「さぶちゃん、悩み事とかないんじゃないん?」


 龍美も自分の発言を無視し、移った話題に合わせる。


「いや、俺めっちゃ悩んどるよ。・・・あ、一つあるか・・・」


「はい、じゃぁそこまでー」


 岡田が言おうとしたとき、山下先生が遮って言った。


「いや~みんなけっこう苦労しとるんじゃね。やっぱ世の中世知辛いわー。時間も無いから、残りの時間は私の話するわ」


(始めからあんたの話をしたかったんだろ!)


 とクラス全員が心の中でツッコんだ。


「実はね、私、警察に捕まったことがあります」


 そう切り出し、山下先生は話し始めた。

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