春を待つ

 

 ・1547年(貞吉五年) 一月  相模国足下郡 小田原城  北条幻庵



 正月の挨拶も終わり、諸将が引けた翌日に御本城(北条氏康)が儂の居室を訪ねて来た。

 近習一人を連れただけの軽装……近臣にも何も告げずに来たのであろう。


 用件は恐らく……


「叔父上、六角はまだ動かぬのか?」


 居室の戸を閉めるや、儂の前にどっかと腰かけて食いつくように身を乗り出す。昨日まで諸将に見せていた鷹揚な態度とは打って変わって落ち着かぬ様子だ。

 いや、内心の焦りを押し殺して鷹揚に振舞って見せる度量と見るべきか。


「落ち着きなされ。山城守殿(進藤貞治)より六角家の信濃派兵は春を待って行うとの文がございました。いかに六角とはいえ、雪に埋もれては何もできますまい」

「しかし……簗田はもう持たぬぞ」


 ふむ……

 確かに、簗田中務(簗田晴助)は長尾の相手としていささか心許ないか。


 こちらがジリジリと下がったことで、越後公方の標的は古河公方を自称する幸千代王丸(足利藤氏)に変わった。

 我が方には抑えの兵を置き、まずは古河公方を擁する簗田中務を粉砕する構えだ。


 こちらも長尾方の兵糧を襲ったりはしているが、いかんせん連勝を続ける長尾に関東の諸将も次第に靡きつつある。

 関東管領のは気に食わぬし、細川六郎(晴元)などという怪しげな男を側に置く越後公方に不満を抱く者も少なくないはず。


 それでも、『勝ち続けている』という事実は殊更に重い……か。


「今は辛抱が肝要かと」

「……春までに簗田らが潰走すれば、兵力を増した長尾は本格的に我が方へ攻めかかろう。そうなる前に、簗田と共に長尾を挟撃するべきではないのか?」


 ふむ……御本城の焦りは分からぬでもない。

 武田が新たに築城した岩殿山城に兵を集めているという話もある。


 我らの軍は八王子権現の辺りまで下がらせているが、簗田が落ちれば武田と長尾が我が方に挟撃を仕掛けるということも考えられる。

 そうなると、もはや小田原城の要害を頼りに籠城する以外に手が無くなる。


 諏訪に大原次郎が控えている以上、武田が全軍を持って関東に攻め入ることはなかろうが……。


「御本城は長尾と戦して、勝てる見込みがおありかな?」

「……正直、分からぬ。越後公方の率いる関東勢だけならばいくらでもやり様はあるだろうが、弾正(長尾景虎)はそれらを上手く目くらましに使いながら、戦機と見るや自ら精鋭を率いて駆けて来るという。

 まるで話に聞く徳川清康のような戦ぶりだ」


 ふむ。

『東海の暴れ馬』か。


 あれは大将たる器では無かったが、確かに戦は無類の強さであったな。


「正直、儂は長尾弾正があれほどの戦上手とは思うておらなんだ。このまま手をこまねいて味方を減らし続ければ、六角の出兵を待たずして小田原城が落ちるという事態にもなりかねぬ。そうは思われぬか?」


 ……確かにその恐れが無いとは言えぬ。

 六角の出兵が遅れれば、武田が前に出て来ずともいずれは小田原に敵を迎えることになろうが、少なくとも武田の動きだけは抑えておかねばならぬか。


「承知しました。それならば拙者が後詰として八王子へ参りましょう」

「叔父上が?」

「左様。ここで御本城が自ら動けば、敵味方に『北条は焦っている』と受け取られかねません。拙者が左衛門大夫(北条綱成)の後詰に向かうのならば、武田への対応という印象になる。

 その中で今一度長尾めにを仕掛けて参ります」


 何より、ここで北条と長尾が正面切って戦うことになれば、六角公方の思惑通りになる。

 儂が直に差配すれば、我が方の損耗を抑えつつ時を稼ぐことも出来よう。


「ふむ……あくまでも時を稼ぐことに専念する、か」

「今は何よりも時を稼ぐのが肝要。御本城にはくれぐれもご自重をお願い申し上げます」

「……分かった」


 ……結局は六角公方の思惑通りになっている気もするが、やむを得ぬ。

 確かにこれ以上下がり続ければ、六角の信濃出兵の前にこちらが大きな損害を被りかねん。六角公方が約定通り出兵するとも限らぬし、な。


 無傷で兵を温存するというのは、いささか見通しが甘かったか。




 ・1547年(貞吉五年) 一月  尾張国愛知郡中村郷  木下藤吉郎



 炭の爆ぜる匂いに混じって餅の焼ける香ばしい香りが漂い始める。

 囲炉裏の灰に置いた餅は、だんだんと美味そうな焦げ目をつけ始めた。


「そろそろいいかな?」


 小一郎がウキウキと餅を取り出し、一口かじる。

 焼きたての餅の熱さに目を回しながら、それでも次の一口を止めようとしない。


「美味しい!」

「落ち着いて食え。逃げやせんから」


 そう言いながら、儂も餅を一つ拾って口に入れる。

 途端に熱い塊が口の中に飛び出し、思わず口をすぼめた。


「熱い熱い」

「兄ちゃんも落ち着いて食うとええ」

「お、言うたなコイツ」


 笑いながら餅をもう一つ。


「はいはい。出来たよ」


 姉ちゃんとかか様が料理を次々に運んでくる。

 里の芋の煮物に雉肉の味噌焼、大根の菜を混ぜた飯。今年はいい正月を迎えられたモンだ。


 小一郎や朝日が美味い美味いと言って菜飯をかきこむと、競うようにお替りをしていく。

 やはり美味いもんを腹いっぱい食えるのは幸せだの。


「だけど、本当にいいのかい? 正月とはいえこんなに贅沢にしてしまって……」

「かか様は心配性だなぁ。塩の商いは順調にいっとるし、何も心配いらんて」

「でも、本当はやっちゃ駄目なことなんだろう?」

「なあに、皆やっとるで心配は要らんよ」


 かか様が相変わらず心配そうな顔でこっちを見る。

 まあ、確かに塩止めのお触れはまだ無くなった訳じゃない。が、あれだけ多くのモンが大量に塩を買っとれば怪しまれて当然じゃと言うのに、誰もな~んにも言わん。

 楽市で塩を売っとる商人も、楽市警護の役人も、みんな見て見ぬふりじゃ。

 これはもう、六角様が甲斐に塩を売りに行ってもええと言うとるようなモンだで。


「本当に、大丈夫なんね?」


 ううむ……

 そこまで言われると不安にもなってくるな。


 最近じゃあ甲斐に塩を売りに行くモンが増えて前よりは儲からんようになってきとる。

 今まで儲けた銭で小さな店を出す場所代くらいにはなるし、かか様の言う通りそろそろ塩売りはヤメにしとった方がええやろうか……。


 しっかし、店をやるっちゅうても何を売ればええかの。

 大きく儲かる品なんぞは、それこそ熱田の衆や津島の衆が既に手を出し尽くしとって入り込む隙間は無い。今更塩以上に儲かるような品があるかっちゅうと……。


 う~む……。


 次に行く時は、甲斐あっちでなんぞ新しい商いの種でも探してみるか。




 ・1547年(貞吉五年) 三月  武蔵国入間郡 河越城  長尾景虎



 両の足を広げて立ち、両腕を左右に突き出す。

 心得たように小姓の手が伸び、身につけた具足を一つ一つ外していく。

 具足に身を包むのも慣れたものだが、やはり具足を外した時の解放感はたまらぬ。


 ……ともあれ、ようやく、勝った。

 此度の戦で簗田中務は死に、古河公方はいずこかへ遁走した。

 頼る先は宇都宮か佐竹か……。いずれにせよ、当面再起は難しかろう。


 あとは北条を下せば、関東は公方様(足利義輝)の旗の元に纏まる。

 六角に奪われた天下を取り戻すのもそう遠くない。


 具足が取り外され、籠手を縛る紐をほどいていると駿河守(宇佐美定満)が広間に入って来た。


「御屋形様!ご戦勝おめでとうございまする!」

「うむ。厩橋城の方はどうだ? 公方様にお変わりは無いか?」

「はい。公方様も此度の勝ち戦に大層お喜びでございます。次の北条攻めでは御自ら御出馬いただける由、直々に仰せ下さりました」

「左様か」


 お側の方々は『一刻も早く上洛を』と申されているとの話だったが、公方様ご自身が北条攻めのご意向をお持ち下されているのならばひと安心だな。

 とまれ、まずは此度の首実検をせねばならん。


「公方様には何卒河越城までお越しいただき、此度の戦で功のあった者どもにお言葉を賜りたい。

 戻ってそのように申し伝えよ」

「その前に、一つお耳に入れたき儀が……」


 駿河守が声をひそめる。その目線は儂の具足をすっかり外し終えた小姓たちに向いている。

 顎でしゃくると、着替えの直垂を置いて小姓たちが下がった。


「……で、話とは何だ?」

「間者の報せによると、近江の軍兵の動きがにわかに慌ただしくなっておるとの由」


 ……!


「簗田相手にちと時を使い過ぎたか?」

「……いえ、やはり口先での時間稼ぎでは限度がございました。某の見通しが甘かったこと、申し訳もございません」

「良い。……北条の動きは?」

「武田の対応に追われておりまする」


 ふむ……。

 武田が矛を返し、駿河へ刈田働き(略奪)に入ったのは北条も意表を突かれたと見える。


 簗田と連携して我が方を挟撃する動きを見せていたが、駿府まで行かせては今川に対して面目も立たぬと慌てて武田の対応に回った。

 おかげで簗田を充分に叩くことが出来たが……。


「小田原に兵を向ければ、北条は城門を固く閉ざすだろうな」

「左様に見受けまする。出兵当初から北条は『守り』の姿勢に終始しておりました」


 潮時、か。


「急ぎ厩橋城に戻り、公方様に河越城までお越しいただきたいと申し伝えよ!」

「……!? 今から小田原を囲んでも落とすことは難しゅうございますぞ。それよりも六角を迎え撃つ用意を致さねばならぬかと存じますが……」

「無論だ。だがその前に、公方様の御旗を立てて鎌倉へ参りたい」

「鎌倉へ……?」

「左様。鶴岡八幡宮に詣で、八幡大菩薩の御前で戦勝祈願を行う。その後、兵を返して六角を迎え撃つ!」

「……!」

「急ぎ厩橋城に戻れ」

「ハッ!」


 駿河守の足音が遠ざかっていく。

 いよいよだ。いよいよ六角と雌雄を決する時が来たのだ。


 南無八幡大菩薩。

 軍神八幡菩薩よ。我らの義挙にその加護を与えたまえ。


 ……ふむ。胴に震えが来るな。

 これが武者震いというものか。


「誰ぞある! 酒を持て!」


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