越後の憂鬱

 


 ・貞吉三年(1545年) 一月  近江国滋賀郡 坂本城  六角定頼



 斎藤からの急使でまた頭の痛い問題が持ち上がった。今度は信濃だ。


 年始の挨拶を一旦打ち切り、居室に戻って改めて絵図面を広げた。はなはだ心許ないが、ざっくりと諏訪湖周辺の簡単な地図が描かれている。

 信濃では武田が関東に出張っている間に斎藤と村上の間で一戦あった。斎藤は裏から手を回して砥石城を落とす作戦を立てたようだが、村上方に見破られて内応者を始末され、砥石城を落とすことは出来なかった。


 ……真田幸隆にとっても辛い戦になったな。

 幸隆自身は何とか生きて戻ったそうだが、弟を失い、自身も足に手傷を負ったそうだ。真田の再起はまだ当分先のことになりそうだな。

 策が外れた斎藤は、力戦して何とか伊那郡からは村上勢を追い返したそうだが、激戦の中で明智光綱や竹中重元などの重臣が討死したと聞く。


 斎藤の策を見破り、明智光綱を討ち取ったのは村上の先鋒を務めた徳川広忠だ。

 信濃方面に逃げたのではと思ってはいたが、やはり村上の世話になっていたと見える。つまり、村上も六角に付く気は無いってことだな。

 徳川清康の遺児を匿い、斎藤との戦陣に立たせるなんざ俺に対する挑発行為としか思えん。


 慌てて尾張の次郎に斎藤の後詰を命じたが、しばらくは雪で満足に動けないと見た方がいい。恐らく村上義清もそれを見越してこのギリギリの時期に兵を出したんだろう。

 この一戦で勝てれば良し。仮に負けても、六角が出てくるまでは時間を稼げる。だからこそ、年末を狙って合戦を仕掛けた。

 村上義清は猪武者のイメージだったが、やはりある程度の知恵も回るようだな。


 本当ならば俺自身が軍を率いて後詰に向かいたいくらいだが、いかんせん西国の事がある。

 尼子がどう動くかはまだ予断を許さない。俺が東国へ出張ってしまうと、いざという時賢頼の後詰が出来なくなる。

 やれやれ、あっちもこっちも年明け早々……。


「蒲生はそろそろ動けんかな?」

「どうでしょうか。阿波衆は今のところ大人しくなっておりますが、本山や河野の動きが見えません。仮に阿波の騒動が再燃すれば、今度こそ阿波で一揆が起きましょう」

「まだ睨みを効かせる必要があるか……」


 蒲生が賢頼の後詰に動ければいいんだがなぁ……。

 動けないかな……?




 ・貞吉三年(1545年) 二月  阿波国板野郡 勝瑞城  蒲生定秀



 広場に三好軍の訓練の声が響く。やはり進退訓練の声は活気があって良いな。


「おお、蒲生殿」

「大和殿(篠原長房)。笠など被ってお出かけですかな?」

「ええ。春を迎えるに当たり、まずは各地の田畑を見て回ろうと思いまして」

「ははは。対馬殿(浅見貞則)のなさり様を見て来られましたか」

「はい。まずは出来るところから真似をして参ろうと……」


 あの騒動の後だ。篠原殿も随分と気に病んでおられるのだろう。

 そういえば、浅見殿も代官になった当初は熱心に郷村を見て回り、時には国人衆の領地までも見回って助言を与えていたな。


「国衆の旗本化は進んでいますか?」

「それが……ほとんどの国衆は己の知行地を残し、旗本には継がせる土地の無い次男・三男を召し出して様子を探らせていると言ったところです。

 近江のように国衆が自ら土地手放すということはほとんどありません」


 まあ、そうだろうな。

 南近江とて最初はそうだった。北近江は大本所様(六角定頼)が支配された時には既に借銭まみれの国衆が多かったから、借銭を払わなくて良いのであればと土地を手放す者も居た。

 だが、武士にとって知行を手放すというのは相当な覚悟を要するものだ。上から言われて『はい。そうですか』とはいかんだろう。


「焦らぬことです。焦って土地を取り上げようとすれば、国衆に不満が溜まります」

「ですが、殿の直轄地を増やす必要もありますし……」

「浅見対馬守殿は、代官になった当初から土地を召し上げようとは動かれませなんだ。京極長門守殿(京極高延)もそのような裁決は決して出されなかった。

 あくまでも国衆に寄り添い、どうすれば物成り良く豊かな土地になるかを熱心に教えて行かれたのです。


 ……無論、米や麦だけが豊かになる道ではない。

 伊吹山の麓では石灰の採掘を奨励し、多賀の山地では埋れ木(亜炭)を採掘して売ることを奨励しました。

 国衆はそうした対馬殿と京極殿のお人柄に懐き、彼らの元で働きたいと申して自ら知行を返上し、望んで代官衆に召し抱えられたのです」

「なるほど……彼らの心に寄り添うことを第一にせよ、と」

「人とは不思議な物でござる。自分から何かを取り上げようとしてくる相手には反発するが、親身になってくれる者には心を開き、何事も相談するようになる。たとえそれが昨日まで争っていた相手でも、です。

 くれぐれも焦りは禁物。じっくりと彼らの話を聞き、時間を掛ければ、必ずや阿波国衆の心も解れる物と信じなされよ」

「……ご助言、かたじけなく」


 ふむ。言葉だけで充分に伝わったかは分からんが、ともあれ焦りの色は消えたか。

 これでいい。


 知行と言えば、我が蒲生の日野もそろそろどうするか決めねばならんな。

 今は父高郷の働きに免じ、日野は引き続き蒲生の領地として認めて頂いている。だが、実際の経営は義父(馬淵重綱)に任せきりになってしまっている。

 ……そうだな。鶴千代(蒲生賢秀)の元服と同時に家督を譲り、日野蒲生家は鶴千代に治めさせることとしようか。


「そう言えば、蒲生殿も備前の陣に参ずるように近江からお下知があったとか」

「いかにも。既に単身で備前へ赴き、本所様(六角賢頼)と打ち合わせて参りました。今月中には我らは伊予へと向かいます」

「河野を攻めるので?」

「毛利を通じて村上右衛門大夫(村上通康)より調停の要請があったそうです。一昨年に急死した河野六郎(河野通政)の跡を弟の河野宗三郎(河野通宣)が継いだそうですが、宇都宮などはこれを機に独立して大友と結ぼうという動きがあるとか」

「なるほど。つまりは宇都宮を討つ、と」

「恐らくそうなるでしょう。本所様も瀬戸内で大友の勢力が広がるのは面白くない、と」


 来島の村上をこちらの勢力に取り込めれば、事実上瀬戸内は角屋水軍が制することができる。

 毛利にいいように使われている気がしないでもないが、ともあれ伊予を安定させる好機ではある。


「ご武運をお祈りいたします」

「ありがとう。大和守殿も存分のお働きを」




 ・貞吉三年(1545年) 三月  越後国頚城郡 春日山城  宇佐美定満



「左馬頭様は信濃への出兵に反対しておられます。平三殿(長尾景虎)には今一度越中への出兵を再考頂きたい」

「左衛門佐様(大舘晴光)。今一度公方様にお取次ぎ下さい。

 信濃に斎藤の手が伸びております。昨年末の斎藤と村上の戦は引き分けと相成りましたが、雪が溶ければ尾張の大原次郎(大原頼保)が軍勢を率いて後詰に駆け付けるは必定。

 村上佐渡守(村上義清)からも公方様(足利義輝)の御出馬を願うとの文が届いておりますれば、何卒、お願い申しまする」


 ……相変わらず、情勢の読めぬお方だ。

 関東への出兵は結果的に手遅れだったが、あの時点では決して間違った判断では無かった。此度の信濃出兵もそうだ。村上を支援することは越後を守る意味でも大きな意義がある。

 そもそも村上が斎藤に敗れれば、斎藤の軍勢が春日山まで迫る恐れすらあるのだ。そうなってからでは上洛もクソもあるまいに。

 殿(長尾景虎)も殿で公方様が納得されるまでご説明すると仰せだが、果たして……。


「そもそも、公方様は関東に出兵することも反対なされておられた。北条と上杉の間は我らが和睦を仲介すると申していたのに、平三殿(長尾景虎)がどうしてもと言うから出兵をお認めになられたのだ。雪が溶ければ、公方様の願い通り今度こそ越中へ兵を出すのが筋でありましょう」

「ですが、村上の頼みを断れば公方様のお味方を減らすことにもなりまする。どうかここは一つ、信濃へ足利の旗をはためかせて頂きたく存じます」

「……申し上げるだけは申し上げましょう。ですが、公方様の上洛に懸ける思いは並々ならぬもの。平三殿にも今一度再考願いたい」


 殿がぎゅっと口元を引き締める。

 悔しいのであろう。今この時に足利の名で兵を出せば、村上も勇躍して公方様の元に馳せ参じよう。北信を完全に足利方に取り込む好機であるというのに……。


「公方様に……公方様にお目通りさせて頂くわけには参りませぬか?」

「なりませぬ。公方様はご不例にて、何人たりともお目通りは許さぬとの仰せです」

「……承知いたしました。また明日に改めます」

「……越中への出兵を、ご検討いただきますよう」


 ええい、叶うならばこのような神輿など投げ捨ててしまいたいわ。

 そもそも上洛上洛と騒ぐだけで、肝心の兵は越後兵を使う腹積もりではないか。それならば少しはこちらの言う事を聞いてもよさそうなものだろうに。


 左衛門佐殿が引き上げると、殿が大きくため息を吐いた。


「……殿。この際、関東の時と同じように殿の御名で兵を興されてはいかがでしょう?」

「駿州(宇佐美定満)。このままでは公方様のお味方が増えぬ。此度の信濃出兵は、何としても公方様の御名で行いたい。

 それに、いずれ上洛して京を奪還するという公方様のお志は儂も同意するところだ。足利家の天下を奪った六角をこのまま許してはおけぬ」

「ですが、このまま村上が斎藤に敗れれば……」

「分かっている。だが、斎藤とて此度の村上との戦で多くの将兵を失ったのだ。いくら六角の後詰があるとはいえ、肝心の斎藤が兵を出さねば六角とて動かぬだろう。

 夏まで時を稼げれば、その間に越中を制圧し、しかる後に信濃へ兵を返すこともできるかもしれぬ」

「……危うい賭けでございますぞ。そも、越中は御父君(長尾為景)ですら手を焼かされた場所でございます」


 殿が微妙な顔をする。

 お父上の話題を嫌がられる所は変わっておられぬか。


「分かっている。だが、今越中では神保と椎名が争っている。この機に乗じて越中を勢力下に収めようという公方様のお考えも分からぬではないのだ」

「確かに攻めは攻めで必要ですが、今は越後の守りを厚くするのが肝要に存ずる。何卒、信濃へ兵を出すお下知を」

「……出兵の用意だけはしておいてくれ。今一度公方様にお目通りを願う。膝を突き合わせて話せば、公方様も必ずや分かって下さる物と思う」

「……承知いたしました」


 くそう。

 足利など迎え入れなければこれほど迷うことは無かったのだ。


 ……だが、越後公方が居なければ殿が越後を治めることも出来なかったのも事実。まこと、世の中とはままならぬものだ。


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