熊と亀
・貞吉二年(1544年) 五月 摂津国武庫郡 越水城 六角賢頼
「六角本所様(六角賢頼)、よろしいでしょうか」
蒲生・海北と三人で播磨の情勢を話し合っていると、閉じた障子の向こうから松永の声がした。
このような夜更けに一体何事だ?
「弾正忠殿(松永久秀)か。何事かあったか?」
「それが、我が主(三好頼長)が八上城攻めの陣より密かに参っております。僅かな供回りで急ぎ参ったようで……。
至急六角様にお目にかかりたいと」
思わず蒲生や海北と目を見合わせる。
孫次郎(三好頼長)がこんな夜更けに……。
「わかった。通してくれ」
「ハッ!」
待つほども無く鎧下地姿の孫次郎が入って来る。後ろから弾正忠殿が入り、周囲を見回して戸を閉めた。
孫次郎はひどい顔だ。
汗と泥にまみれ、顔色は蒼白に近い。報せを聞いてすぐさま馬を飛ばして来たのだろう。
となると、話は恐らく……。
「四郎……いや、霜台殿(六角賢頼)。儂はすぐさま阿波へ兵を出す。その為に越水城に一旦兵を集結させる。済まぬが越水城から六角の兵を移動させてくれぬか」
やはり……阿波の争乱のことか。
先ごろ、平島中納言(足利義維)が見性寺で命を落とした。阿波太守の讃岐守(細川持隆)は右京大夫(細川晴元)の乱心として事を処理し、右京大夫を幽閉していると聞く。
問題は、孫次郎の弟である三好豊前守虎長が平島中納言と共に斬られたことだ。
孫次郎がこうなるのも無理はない。だが……
「落ち着け、孫次郎。儂らも今ちょうどそのことを話していたところだ」
「儂は落ち着いている。右京大夫は父と弟の仇だ。このまま仇を討たずして、何の面目が立とうか」
「馬鹿な。無闇やたらに攻め入っては勝てる戦も勝てるものか」
「儂を馬鹿と申すか! いくら四郎といえども愚弄することは許さぬぞ!」
突如として孫次郎がいきり立つ。まったく、どこが冷静なのだ。
相当に気が立っていることは顔を見れば分かる。
「報せを聞いて我らも急ぎ阿波の情勢を探らせている。
阿波は今揺れているそうだ。此度の変事は、全て細川讃岐守(細川持隆)の
「なに!」
「だから、冷静になれと言っている。慌てれば本当の仇を見失うぞ」
「……」
孫次郎が驚くのも無理はない。細川讃州家と言えば知らぬ者の無い平島中納言の忠臣だ。主従の絆は海よりも深いと言われている。
「そんな……そんなはずは無い。讃岐守は先の連合軍の中核ではないか。それが中納言を裏切るなど……」
「だが、父上に敗れて阿波に戻ってからは、中納言と讃岐守は意見の食い違いが目立ったとも聞く。そこへ来て、右京大夫がまことに都合よく乱心した。
問題は、お主の弟も共に討たれていることだ。連合の象徴たる平島中納言と讃岐守の兵権を預かっていた三好豊前守虎長。
その二人が揃って反対すれば、いかに阿波太守と言えども軍を動かすことは出来ぬだろう」
「讃岐守がその二人を除く為に……?」
「そういう見方もあるということだ。阿波の実力者二人を除けば、もはや讃岐守に正面から意見できる者は居らぬ」
右京大夫が阿波に舞い戻って早々に事を起こしたというのもその噂に拍車をかけている。
讃岐守はまるでその為に兄の右京大夫を阿波へ迎え入れたのではないか、とな。
平島中納言を廃し、未だ八歳の亀王丸(足利義栄)を擁立するために讃岐守が仕掛けた謀略であるとする考えには一定の理はある。
讃岐守としては足利の血筋でさえあれば平島中納言にこだわる必要は無い。むしろ、自らの都合よく動かせる亀王丸の方がよほどにやりやすかろう。
だが、今一つしっくり来ぬ。
それならば何故讃岐守はわざわざ兄の右京大夫にやらせた?
尼子や大友・畠山を味方につけ、一度は大軍を率いて父上に決戦を挑んだほどの男だ。右京大夫にそんなことをやらせれば、自分にも疑いの目が向くことが分からぬほど愚かではあるまい。
あるいは、小少将とやらの甘言に狂わされたという噂も一面では真実かもしれぬ。
阿波に戻ってからの讃岐守は、常に小少将を侍らせていたという話もある。
「ともかく、今すぐに軍を動かすには情報が足りん。
それに考えてもみろ。今この時に淡路島に渡ったとして、兵糧はどうする。兵の補充も容易ではないぞ。
少なくとも、阿波へ進軍するには堺に到着した角屋七郎次郎(角屋元秀)とは息を合わせねばならんのだ。
今焦って動けば、いたずらに兵を損じるだけだ」
孫次郎が悔しそうな顔で俯く。
理屈ではないのであろうな。孫次郎は父と弟を細川右京大夫に殺されたのだ。右京大夫を仇と憎む気持ちは、余人には想像も付かぬのだろう。
だが、だからと言って今ここで三好の軍勢を損じる訳にはいかぬのだ。
元々この軍は西国に出陣するために父上から任されたものだが、こうなってはそうも言っていられぬ。父上に奏上し、軍を二つに分けて西国と四国へ同時に兵を出すべきだ。
その為にも、今は何よりも阿波の情勢を掴む必要がある。十の内少なくとも七分の勝ち目が無ければ、父上に兵を分けさせてくれとは言えぬ。
そして、軍を分けることによって損じた兵員の不足は三好軍に埋めてもらう必要がある。
「このまま、手をこまねいて見ていろと言うのか」
「案ずるな。お主の無念を捨てはおかん。孫次郎の……千熊丸の仇は、儂の仇でもある。お主の恨みは必ず晴らす」
「亀寿丸……」
「儂を……いや、
部屋の中にすすり泣く声が響く。
その時、横から左兵衛(蒲生定秀)の声が聞こえた。
「孫次郎殿。八年前のことを覚えておいでですか?」
「八年前……?」
「左様。元服された孫次郎殿が、満を持して西岡に進軍されたあの時です。某は大本所様(六角定頼)から孫次郎殿を援けよとのお下知を受け申した」
「覚えており申す。蒲生殿は儂に京の民の不安を取り除かれよと申された」
左兵衛が頷く。
そのような話をしていたのか。儂……俺も知らなんだ。
「此度こそ、その使命を思い出す時にござる。この蒲生左兵衛大夫定秀、先ほど本所様(六角賢頼)より阿波攻めの補佐を仰せつかった。大本所様の御裁可を頂き次第、阿波へ進軍できるように軍勢を準備させよ、と」
「阿波攻めの……補佐?」
「いかにも。本所様は、阿波攻めには三好勢を先陣にとお考えでござる。『千熊丸ならば必ずや阿波の民にも受け入れられるだろう』と仰せになられましてな」
左兵衛め。余計な事を。
今は孫次郎に過度な期待を持たせるべきではないというのに。
頬を掻いて孫次郎の視線をかわす。何やら妙に照れくさいわ。
「ま、まあそういうことだ。俺が阿波に兵を出す時は、孫次郎に先陣を任せたいと思っている」
「……では」
「だが、勘違いするな。目的は父上の名の元に阿波の民を安んずることだ。細川家を討つことではない」
「そうか……そうだったな。全ては民の安寧の為に。『海内豊楽』を実現せんが為に。
義父上もよく申されていた」
ふむ。ようやく孫次郎も顔が引き締まったか。
「だが、その為にもまずは……」
「阿波の情勢だな。分かった。日向守(三好長逸)が細川の目をかいくぐって儂の陣に逃れて来ている。直ぐにこちらへ向かわせよう」
「何! 阿波から脱出できたのか!」
「ああ。その足で儂の陣に報せに来た。儂も日向守から聞いて事の次第を知ったのだ」
阿波三好家の生き残りが居るか。
これは良い。相手の切り崩しに働ける者が居れば、勝ち目を十の内八まで引き上げられる。
「分かった。阿波の切り崩しは三好に任せる。俺は父上に急ぎ文を書く」
・貞吉二年(1544年) 六月 山城国宇治郡東山 御鷹場 六角定頼
勢子が地面に伏せた籠を持ち上げると、捕らえておいた雉が声を上げて飛び立つ。
素早く鉄砲を上空に振り、照準を合わせて引き金を引く。
けたたましい音と共に雉が力を失って落下し始めた。同時に鷹匠の手元から飛び立った鷹が雉を爪で捕え、空を滑るように戻って来る。
「よーし。よし」
舞い戻った鷹の額を撫で、褒美の肉片を与えた。
さすがによく訓練されている。だが、
「新式の鉄砲は良い出来だな。善兵衛」
「恐れ入ります。左近将監様(滝川一益)からの助言も大いに助けとなりました」
「うむ。久助もご苦労だった」
「いえ、善兵衛殿が必死になって素材を探し回ってくれたおかげでございます」
二人が謙遜し合いながらも誇らしい顔つきになる。褒美は相応に取らせねばならんな。
国友の善兵衛が新たな構造の鉄砲を試作したとわざわざ京まで上って来た。かねてからの懸案だった絡繰り部の強化の方策が見つかったと言ってな。
余程の自信作だったのだろう。一刻も早く試してほしくて持って来たそうだ。
「しかし、真鍮とは良い素材を見つけたものだな」
「彫金師の後藤殿から教えてもらいました。金字写経では、金の代わりに真鍮なる物を使うと。その真鍮というものは金よりも強靭で、銅よりも薄く加工できるとか」
「そのうえ、金よりも安く手に入ると言ったか」
「いかにも」
真鍮とは盲点だったな。だが、確かに昔国友鉄砲資料館で見た金具は、こんな感じの輝きだった。
聞けば、昔から経文師が金字写経を行う際に真鍮を使っていたそうだ。
真鍮は金よりも安上がりだから、コスト削減で使っていたのだろう。見た目にはまさに金色の輝きだしな。
彫金師の後藤四郎兵衛は、仕事柄経文師が安い値段で仕事を受けざるを得ない時にそういう物を使うと小耳に挟んだそうだ。そして、善兵衛に教えてくれた。
異業種交流ってのはやっておくもんだな。ひょんなことから問題を解決する糸口になる。
その上、板バネの構造も平板からUの字型にし、そして鉄砲の側面に露出させる形状になった。これは滝川一益の発案だそうだが、こうすることで発射時の反動を抑え、かつ部品交換も容易になった。
これならば戦場で破損した場合にもすぐに交換・整備が可能だ。交換部品もかさばらないから、鉄砲兵に予備の板バネを持たせておけば長期間の遠征でも問題なく運用できる。
そして、発射時の反動を抑えたことで命中精度も向上した。飛び立つ雉を難なく撃ち落とせる程度には命中率が高い。
いよいよ鉄砲の実用性も高まって来たな。
「二人ともよくやってくれた。善兵衛、早速だがこの鉄砲をひと月に何挺製造できる?」
「日野や大津の鍛冶も協力してくれていますので、月に五挺ほどはお届けできるかと」
「ふむ。もう少し作れる鍛冶を育ててくれ。出来れば月に五十挺ほど製造してもらいたい」
「五十……では、近江だけでは限度がありますな」
「分かっている。堺や関には刀鍛冶も多いから、その辺りにも製造できる拠点を作るつもりだ」
先月には本能寺が種子島に珍妙な者達が乗る船が流れ着いたらしいと報せて来た。
恐らくポルトガル人だろう。いよいよ史実でも鉄砲が伝来する時代に入ったということだ。となると、これ以上鉄砲の製造を極秘にしておく意味も無い。
それよりも、六角家が鉄砲用兵に熟達しているという事実をこそ積極的に喧伝すべきだろう。
「早速だが、久助は鉄砲隊を率いて堺に行ってくれ」
「では、阿波に兵を出されますか」
「うむ。滝川鉄砲隊には角屋の船に乗り、淡路の安宅水軍との船戦に参加してもらう。安宅水軍も動揺しているはずだ。この時に鉄砲の威力を目の当たりにすれば、敵の士気を挫くこともできるだろう」
息子の賢頼から阿波に兵を出す許しを貰いたいと文が来た。細川持隆は家臣の動揺を抑えきれず、阿波国内は大混乱に陥っている。
特に三好家と並ぶ重臣である一宮家の離反が大きい。
一宮家の当主一宮宮内大輔成孝は三好家の縁戚でもあり、足利義維と三好虎長をだまし討ちにした細川持隆を屋形たる資格なしと糾弾している。ご丁寧に俺の所にまで書状を寄越して来た。
播磨に駐屯する六角軍の後詰を得たいという腹だろうが、こちらとしても渡りに船だ。
「俺も京の手当てを済ませ次第堺に向かうが、事は急を要する。少弼(六角賢頼)の要請によっては俺の本陣の到着を待たずに出航しろ」
「ハッ!」
しかし、妙な成り行きだな。結果的に西国よりも先に四国に兵を進めることになったか。
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