得宗家

 

 ・貞吉元年(1543年) 七月  山城国 京 六角屋敷  六角定頼



「こちらの要求はただ一つ。武田陸奥守信虎殿を小田原にてお預かり申し上げたい」


 気を取り直した幻庵が単刀直入に本題を切り出す。

 意表を突いて出鼻を挫いたのもなんのそのだ。まあ、わざわざ公式の会談を早々に切り上げてまで密かに訪ねたんだから、今更席を蹴立てられることはないという読みもあるんだろうが……


「いささか性急に過ぎぬか? 理由くらいは聞かせてもらえるのだろうな?」

「関東の事は、我ら北条にお任せいただきたいということにございます」


 現状六角家が関東に対して出来ることはほとんど無い。任せるも任せないも無いんだが、それが武田信虎とどう繋がるのか。

 幻庵の方は落ち着きを取り戻し、最初に会った時の飄々とした風に戻っている。

 そう言えば幻庵は臨済宗の僧侶だったな。禅問答でもするつもりか。


 ……面白い。俺だって仮にも相国寺で得度した臨済の僧侶だ。禅問答の一つや二つ。


「任せること能わぬ、と申せば?」

「古河公方様は足利のご血統にて」


 つまりは、北条も古河公方足利晴氏を担いで足利支持に回ると言いたいわけか。だが、そう上手く行くかな?

 確かに現状北条家と古河公方の関係が険悪になったとは聞かない。だが、山内上杉家の上杉憲政が古河公方と扇谷上杉に接近しているという噂がこちらにまで聞こえて来ている。北条氏綱が死去したことで北条を叩く好機と見たのだろう。


 畿内にまで噂が聞こえて来るんだ。北条家がその動きを察知していないはずがない。

 関東を切り取るには関東管領上杉家との対決は避けられないだろう。となると、古河公方との関係は早晩冷え込む見込みが高い。北条幻庵ともあろう者が、それくらいのことを見通せないはずはないが……


「古い蛾は杉の木を好むと聞くぞ」

「蛾は杉にとって害。古き蛾がんだ杉は遠からず朽ちましょう」

「ならば、朽ちた杉を切り倒して後に蛾を捕まえるか」

「いいえ」


 上杉を倒して古河公方足利晴氏を手中にするのではない、か。となると……どうなるんだ?

 くそう。俺だって禅問答の一つや二つ……。


「降参だ。分かりにくい会話はやめにしよう」


 幻庵がゆったりと微笑む。

 なんか負けた気がするな。


「足利の血統は複雑怪奇にございます。古河公方(足利晴氏)と越後公方(足利義輝)は同じ足利であれど、いや、同じ足利であるが故に手を結ぶことは出来申さぬ」


 同族嫌悪か。ありそうな話だ。

 そう言えば北条家は初代早雲が堀越公方を、二代氏綱が小弓公方を滅ぼしたんだったな。北条家は他ならぬ足利家の命によって両公方家を攻めた。北条早雲は十一代将軍足利義澄の命によって堀越公方足利茶々丸を追放したし、北条氏綱は古河公方の命によって小弓公方足利義明を滅亡に追いやった。

 誰よりも北条家自身が足利家の同族嫌悪を知り抜いているというわけか。


「故にこそ、我らには選ぶことが出来る。越後公方は今血眼になって味方を募っておられる。我らが越後公方の名の下に古河公方を滅ぼすと申し出れば、喜んで北条家を関東の支配者と認めましょう」

「確かにな」


 そして、越後を鎮圧した長尾景虎は後顧の憂いを絶って畿内へ軍勢を進める、と。

 確かにあり得る話だ。


「だが、北条家は本心ではそれを望んでいない。そうだな?」

「いかにも。越後公方と組めば、我らは挟み撃ちに遭う恐れがあり申す」


 それが本音か。

 要するに北条は武田を信用していない。何かあればすぐに裏切ると踏んでいる。さしずめ、古河公方や上杉と組んで北条からの独立を狙うと見ているってとこか。

 だからこそ、武田が裏切れないように前当主信虎を擁しておきたい。武田晴信に対して『いつでも晴信を追放して信虎を当主に復帰させることが出来るのだぞ』と圧力をかけるために。


 だが、幻庵は大事なことを忘れている。裏切るのは武田だけじゃない。今川もだ。

 現に今川義元側近の太原雪斎は、今川氏豊を通じて六角の出兵を要請している。今のところ寿桂尼が親北条の姿勢を崩していないから今川家としての要請にはなっていないが、俺が正式に軍勢を出すと言えば雪斎は何が何でも今川義元を口説き落とすだろう。


 さて、どうするか……。


 幻庵の要求を突っぱねれば、北条家は本当に義輝と組むかもしれん。

 武田は裏切ろうとするかもしれんが、今川を武田の抑えに回せば武田は上杉の援軍に回れない。塩の道を握られている以上、北条・今川を敵に回した武田はまず最初に駿河を抑える必要がある。北条と上杉の決戦を尻目に、武田は今川と戦わざるを得ないだろう。

 現状上杉の戦力は北条を上回っているが、史実では北条単独でも上杉を降していたはずだ。歴史は変わっているが、それでも上杉と北条の決戦ならば北条が勝つと見た方がいいな。


 だが、ここで六角が今川を支援すれば風向きが変わる。

 北条家は上杉・今川・武田に包囲網を敷かれることになる。いかに北条氏康と言えども、為す術はない。


 だがなぁ……。


 俺としては正直今すぐに東国にどっぷり嵌りたくは無い。

 これから鉄砲の増産をしていくに当たり、硝石の買い付けは不可欠になって来る。その肝心かなめの西国がこうも乱れていては、いくら堺を抑えても交易に支障が出る。

 それに、そろそろポルトガルから鉄砲が伝来するはずだ。折角早い時期から鉄砲隊を組織して来たというのに、ここで東国に足を取られれば西国に対して兵器の優位性が損なわれかねない。

 どちらかと言えば、今は西国情勢を落ち着かせたいのが本音だ。六角家の軍備拡張のために。


 その意味で言えば、関東で北条が暴れるのは悪くないんだよな。

 上杉を降した北条氏康が長尾景虎・足利義輝と噛み合えば、理想的な展開と言える。そのままこっちの手が空くまでグダグダしといてもらえるとなお有難い。

 武田信虎を引き渡すだけでその未来が現実味を帯びるとなれば、悪くない。


 悪くないんだが……


「やはり、陸奥守殿を引き渡すことはできん」


 にこやかに微笑んでいた幻庵の顔にピクリと険しさが混じる。

 ちょっとイラっとしてきたかな。


「理由をお聞かせいただけますかな?」

「理由か……」


 理由は色々とある。

 武田信虎は俺にとっても対武田の切り札だ。武田信虎を擁していることは、今後甲斐の情勢に介入するこれ以上ない名分となるだろう。

 今頃は美濃に戻った斎藤利政が東美濃の遠山一族への調略を本格化させているだろう。今後斎藤が信濃へ進出した後、甲斐にまで手を伸ばすには信虎という手札があった方がいい。


 加えて、北条家がこのまますんなりとこちらと友好関係を続けるかも不明確だ。

 上杉を倒して関東を制圧した北条が、次に足利義輝と……いや、長尾景虎と手を組まないという保証はどこにも無い。


 何より、北条家をこのまま関東の盟主として残すわけにはいかない。

 平将門の頃から、関東は常に畿内の政情に影響を与えて来た。源頼朝は関東から平氏政権を打倒したし、足利幕府も元は関東から興った。

 そして、南北朝以後も関東は常に畿内の戦乱と相互に影響を及ぼし合って来た。

 関東の地が真に落ち着いたのは、徳川家康が関東に入府して以降のことだ。


 要するに、北条家をこのまま温存しておけばいずれ関東が六角政権にとってのアキレス腱になりかねない。関東を北条家が完全に制圧してしまうことは、六角家にとって必ずしも喜ばしいことではない。


 だが、それをこの場で幻庵に悟られるわけにはいかないな。表面上は一時的に友好関係を作っておく必要がある。


「理由は、陸奥守殿が他ならぬ我が六角家を頼みとしたからだ」

「頼られたから、応じる。と?」


 幻庵の顔が益々険しくなる。

 足利を滅ぼした俺が、今更綺麗ごとを言うなとでも言いたいのだろうな。


「いかんか? 俺とて何も信義を踏みにじりたいと思っているわけでは無いぞ。足利と戦ったのも、俺なりの『義』があってのことだ。今その『義』は陸奥守殿をそこもとらに引き渡すべきではないと告げている。

 それに、我が六角家を頼りとしてくれた士を無下に扱えば、天下に『六角は頼むに値せず』と思われるだろう」

「……念のため、申し添えておきまする。太原崇孚(雪斎)が今川を寝返らせると思っておられるのならば、いささか見込みが甘うございますぞ。拙僧らは既に太原崇孚の動きを注視しております」


 ……ちっ。気付いていやがったのか。

 そうなると雪斎がこのまま駿府に留まり続けるのは危険だな。角屋水軍に命じて今川氏豊の元に亡命させる手筈を整えるか。




 ・貞吉元年(1543年) 七月  山城国 京 六角屋敷  北条幻庵



 しばしの沈黙が流れた後、ふと外に視線を向けた。

 ……もう夕暮れのカラスが鳴いている。随分と話し込んでしまったな。


 しかし、これほどに苛立ったことは久しぶりだ。私もまだまだ修行が足りぬと見える。


 武田陸奥守は六角家を頼りとしたが故に六角家が保護する、か。

 言われてみればもっともな話だが、この御仁の口からその言葉を聞くとは思わなんだ。今まで散々に足利義晴公を利用して勢力を広げ、ついには義晴公を自害にまで追い込んだ男の言葉とも思えん。

 一体何を考えているのか。


 ……いや、案外本当に陸奥守の意を汲んでの言葉かもしれぬな。


 実際に会ってみると、この御仁にはそういう甘い所が見え隠れする。足利を滅ぼしたのも、実際にはやむにやまれぬ事情があったのではとつい思ってしまう。

 事前に思い描いていた人物とは似ても似つかぬ御仁だ。


 さて、そうなるとこれ以上強いて陸奥守を引き渡せとは言えぬか。これ以上意地を張れば、本当に六角が今川左馬助(今川氏豊)に軍勢を貸す事態にもなりかねん。

 と言って、越後公方と手を組むなどは論外だ。越後公方は関東にとっては馴染みの無いお方。味方と言ってもまだ足元の覚束ぬ長尾平三(長尾景虎)ぐらいのもの。越後上杉と長尾左衛門尉(長尾晴景)が本気になって潰しにかかれば、ひとたまりもあるまい。


 となれば、六角と組む……いや、組むまで行かずとも当面の友好関係は維持せねばならん。

 はったりで越後公方と組む選択肢もあるとは言ったが、実際には六角との友好関係以外に取れる道は無いのが現実だ。


「どうあっても、陸奥守殿をお渡しいただけませぬか?」

「二言は無い。武田陸奥守殿は我が六角家にてお預かりした。である以上は、陸奥守殿自身が六角家を見限らぬ限り、俺が陸奥守殿を見捨てることは無い」


 ……これまでか。


「だが……」


 む? だが?

 何か代案があるのか?


「だが、俺としても北条家を敵に回したいと思っているわけでは無い。それ故、新九郎殿を従五位下武蔵守に任ずるよう奏上しよう。それで手を打たんか?」

「武蔵守に……」


 ううむ……悪くない条件か。

 正式に『北条武蔵守』を名乗れるとなれば、我らを『伊勢家』と侮る者達も口をつぐむだろうし、関東で味方を募りやすくもなる。

 考えようによっては、ただ武田家を掌握するよりも利があるかもしれんな。


「右大将様(六角定頼)には敵いませんな」

「分かってくれるか」

「はい。右大将様の思し召しに従いましょう」


 奇妙な成り行きだが、結果としては上々か。

 さてさて、相模に戻ったら武田への備えを今一度確認せねばならんな。駿府にも誰ぞ心利いたる者を送り込むとしよう。


 上杉が態勢を整え切らぬ内が勝負よ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る