津田村の西川

 

 ・天文十二年(1543年) 五月  山城国 京 京都奉行所  六角定頼



「困りましたな……」


 本当に、ため息しか出ないな。


 面の前には蒼白な顔をした近衛稙家と半泣きになっている千歳丸が座っている。

 聞けば足利義晴から子らを託されていたそうだが、五日前から菊幢丸が行方知れずになっているそうだ。


 菊幢丸……後の義輝だな。

 まあ、近衛にすれば足利義晴は妹婿であり、義輝・義昭兄弟は実の甥だ。六角家に子らの存在を知らせるのをためらった気持ちも分からなくはない。

 仮に俺が義晴に負けていれば、義晴が晴れて京に帰還する前に在京の六角兵によって子供たちは連れ去られるか殺されていた可能性も充分にあっただろうしな。


 だが、やはりもっと早くに打ち明けて欲しかった。例え秘かにでも……。

 そうすれば、少なくとも近衛屋敷周辺の警備を強化するなどの方策は取れたのだがなぁ。


「今少し、某をご信用頂きたかったですが……」

「江州を信用せぬわけでは無いが、麿自身この期に及んでもまだ決心がつかなかったのだ。何とかして公方を救う方法は無いかと思案に暮れていた。此度のことは全て麿の責任だ」


 もう一度ため息を吐く。

 視線を千歳丸の方に移すと、ビクリと怯えた反応が返ってくる。


 ……いかんな。大人二人が深刻な顔をしていれば子供が怯えるのは当然だ。

 今は千歳丸を落ち着かせるのが第一だ。ただでさえ突然兄が消えて不安でいっぱいのはずだからな。


「千歳丸殿。そう怖がらずとも良い。確かに俺はお父上と戦ったが、そなたやそなたの兄を討とうなどとは露ほども思っておらん。

 ……そうだ」


 立ち上がって近寄ると、怯えた表情のまま固まる。

 取って食いやしないってば。


「飴ちゃんを差し上げましょう」


 固まっている千歳丸の前にしゃがみ、懐から取り出した飴をそっと手に握らせた。

 飴と言ってももち米のデンプンを麦芽で糖化した物だから、砂糖飴ほど甘くない。だが、この時代では庶民的な甘味料として広く親しまれている。まあ、乾燥させてそのまま菓子として食うのは珍しいが。


 禁酒すると甘い物が欲しくなるからなぁ。俺用に作らせた飴玉を懐に忍ばせておいて良かった。子供と仲良くなるためには、お菓子をあげるのが一番だ。……多分。


「あ、ありがと……」


 後半は声にならずにゴニョゴニョと口元だけが動いている。もちろん飴は手に握ったまま口に運ぼうともしない。

 大阪のオバチャン作戦失敗かなぁ。


「まあ、こうなっては仕方ありませんな。菊幢丸殿の行き先には心当たりはありませんか?」

「思い当たる所は全て探し回ったのだが、まるで煙のように忽然と姿を消してしまった。麿の屋敷の隠し通路を偶然発見した物だとは思うが……」


 ふむ。

 近衛稙家から通報があり、俺が京に入る前に奉行所の兵が京洛中を探し回ったが、京都奉行所からも『行き先は杳として掴めず』と報告があった。 

 元服前の少年がそのような真似ができるはずはない。状況的に考えれば近衛が手引きしてどこかへ落ち延びさせたと言うのが一番疑わしいが、当の近衛自身が京都奉行所にいち早く通報し、協力を仰いでいる。


 近衛の自作自演という可能性は低いか。

 第一、近衛の自演ならば千歳丸を京に残す意味が分からない。


 となると、誰か外部の手引きがあったということになるが……。


「ともかく、捜索の範囲を京洛の外まで広げます。千歳丸殿は……」


 再び千歳丸に視線を戻すと、飴を握ったまま再びビクリと震える。

 この状態で六角屋敷に入れれば、益々怯えるだけかもしれんな。


「某が近江に戻るまでは、引き続き殿下の御屋敷にてお預かり頂けますかな? 六角の兵と馬廻から気の利いた者を数名、屋敷内外の警護につけましょう」

「わ、分かった。菊幢丸の事はよろしく頼み入る」

「出来る限りのことは致しましょう」


 それ以外に答えようがない。

 単純に偶然見つけた隠し通路から外に出て、そのまま迷子になっている可能性だって捨てきれないしな。

 ある日鴨川に浮いていたなんて事態だけは避けたいものだが……。


 まあ、近衛の主導で俺の鎮守府大将軍への任命手続きは既に始まっている。具体的には近衛稙家の実弟である久我晴通が、奨学院別当職を辞する旨を近々上奏する手筈となっている。事実上『源氏の長者』を辞するという布石だ。

 京洛の警備や近衛屋敷の警備を多少厳重にしても怪しまれることは無いだろう。




 ・天文十二年(1543年) 五月  近江国蒲生郡嶋郷津田村 西川右兵衛邸  朝倉景隆



「御免! 頼もう! 誰か居られぬか!」


 邸宅の木戸を乱暴に叩く。背中では苦しそうに呻く長夜叉様の声がする。

 儂が北へ行こうなどと言い出さねばこのような事には……。


「御免! 誰か居られぬか!」


 ……! 奥から灯明の光が近づいて来た! どうやら気付いてもらえたか!


「どちら様ですか? こんな夜更けに」

「通りがかりの者でござる! 何卒お助け願いたい! 連れがマムシに噛まれ申した!」


 儂の声にバタバタと慌てて動き出す気配がする。奥からもう一つ灯りが近づき、待つほども無くくぐり戸が開いて灯明に照らされた老齢の男が顔を出す。

 明かりの中に立つ儂と長夜叉様の姿を認めると、門を開いて招き入れてくれた。


「中へ。今湯を沸かします」

かたじけない」


 案内されるままに居宅に上がり、用意された寝床へ長夜叉様を横たえる。

 呼吸が荒い。噛まれた足も紫色に腫れあがっている。


 ……何故、このようなことに。


「この村の和尚は医薬の心得があります。今寺へ人を遣っておりますので、お武家様も少しお休み下さいませ」

「お気遣い忝い。ですが、大切な……」


 言葉に詰まる。ここは六角領。しかも観音寺城に近い六角家の本貫地だ。

 朝倉家の者と知られれば、すぐさま命を奪われかねぬ。


「大切な甥でござる。兄から託された子故、某もここで容態を見守らせて頂きたい」

「では、今暖かい白湯など用意させましょう」

「忝い」



 先ほどまで意識を保っておられた長夜叉様もとうとう気を失われてしまった。邸宅の家人が慌ただしく動き回る音が続いていたが、やがて夜着に羽織り姿の僧侶が案内されてきた。


「マムシに噛まれた者というのはこのお方ですかな?」

「左様。どうかお願い申す」


 一言断った後、僧侶が長夜叉様の足から腿にかけてを診ていく。


「……ふむ。右兵衛さん、茶を沸かして下さらんか」

「よしきた」


 何と? このような時に真っ先に茶を飲む気か?


「その沸かした茶を冷まして噛まれた跡を洗って下され」

「心得た」

「あの……茶で足を洗うと?」

「ええ。マムシの毒には茶で傷口を洗うと良い。贅沢な話ではありますがな」


 そうなのか。

 まさか茶にそのような効用があるとは知らなんだ。


「噛まれたのはいつ頃ですかな?」

「夕暮れの頃合いです。観音寺城下を目指して歩いておりましたが、日が暮れそうなので野宿の用意をしておりました。水を汲みに沢に行った所で……」

「左様ですか。まあ、明日の夜までは多少苦しみが続きましょうな」

「助かるのですか? なが……甥は助かるのでしょうか」

「なに、ご安心召されい。幸い拙僧の本業は坊主ですからな。不幸にして亡くなられたとしても経ぐらいはあげて進ぜられますぞ。うわぁーはっはっはっは」


 そんな……こんなことで長夜叉様が……。


「はっはっは……はは」

「……和尚。さすがに笑えんぞ。こちらのお武家様はまことに心配しておいでなのだ」

「これは失礼をば。まあ、お命に別状はありますまい。噛まれてすぐに毒を吸い出し、合わせて傷口を沢で洗った。間違いありませんな?」

「い、いかにも」

「それが良かった。毒は足で止まっておりますし、このまま安静にしておればやがて目も覚まされるでしょう」


 僧侶の言葉に体中から力が抜ける。

 良かった。本当に良かった。


「とはいえ、一月ほどは歩き回らずに安静にしておられたが良い。無理をすると、今度こそお命に関わります」

「これも何かの縁だ。甥御様が快復されるまでは当家に留まられると良いでしょう」

「……重ね重ね、忝い」


 人の情けが身に染みる。人の世がこれほど有難いと思ったことは無い。


「時に、お武家様のお名前をお伺いしても?」

「某はあ……木原。木原勘右衛門と申す」

「では、木原様。お聞きの通り、お連れ様はいずれ目を覚まされましょう。後は我々で介抱いたしますので、安心して今夜はお休み下され」

「……よろしくお願い申し上げる」




 ・天文十二年(1543年) 五月 山城国 京 六角屋敷  滝川一益



「もう一度!」


 配下の鉄砲組三名が鉄砲に火薬を入れ、槊杖さくじょうで衝き固める。続いて弾丸を入れてこれも槊杖で衝き固め、膝立ちに発射の構えを取る。


 ……まだ遅い。


「もう一度だ!」


 号令と共に弾丸と火薬を抜き取り、再び同じ動作を繰り返す。

 もっとだ。もっと速く撃てるようにならなければ……。


 あの時、教興寺での戦で朝倉勢が突撃してきた時、鉄砲をもう一度撃てれば敵は為すすべなく壊滅していたはず。上様(六角定頼)の御前にまで敵に近付かれたなどと、我ら馬廻衆の恥だ。

 あのような醜態を二度と繰り返すわけにはいかん。


「もう一度!」

「久助様。やはりこれ以上速く撃つのは難しいのでは……」

「泣き言を言う前にもっと速く弾を込める方法を考えろ! 敵の動きが速かったなどと戦場では言い訳にもならんのだぞ」


 野戦で騎馬に突撃されれば鉄砲には為すすべが無いのか?

 いいや、そんなはずはない。鉄砲はもっともっと強くなれる可能性を秘めている。使い方次第でもっと強くなれるはずだ。


「これは何をしておいでかな?」


 廊下から声を掛けられて振り向くと、織田侍従様(織田頼信)が縁側に座って様子を見ておられた。いつから居られたのだろうか。


「これは侍従様。こちらは上様が開発された『鉄砲』と申す武具にござる」

「ふ~ん。何だか手間のかかる武具のようだな」

「手間はかかりますが、ひとたび撃てば轟音と共に弾丸が具足をも貫きます」

「ほう、そうなのか。今は撃たないのか?」

「恐れながら、相当に大きな音が致します。京中に響くほどの音なれば、さすがにここで撃つわけには……」

「それは残念だ。しかし、麿には随分余計な手間をかけているように見えるぞ」


 余計な手間?


「それ、そこだ。今革袋から黒い粉を筒の中に詰めているだろう。量を調整しているのだろうが、そこで手間がかかっている。例えば、必要な分だけ小分けにしておけばもうちっと速くなるのではないか?」

「……!!」


 た、確かに。火薬は革袋に入れて携行しているが、事前に一発分づつを分けておけば戦場での弾込めは速くなる。

 そうか。その手があったか。


「貴重なご助言、感謝致します」

「いや、なに。代わりと言っては何だが、今度是非実際に撃つ所を見せてたもれ」

「ハッ! その折にはお声がけさせて頂きまする」

「よろしく頼む」


 軽く笑うと優雅な足取りで奥へと向かわれた。

 何とも不思議なお方だな。剣の腕前は確かだそうだが、鉄砲の問題点をこの僅かな時間で見抜くとは。

 だが、良いことを教わった。


「三人とも集まれ。少し試したいことがある」


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