第二次六角包囲網(5)三河の将星
・天文七年(1538年) 九月 尾張国春日井郡 六角義賢
広間に入ると集まった諸将が一斉に頭を下げる。いつもはもっとゆっくり進むが、今日は時間が惜しい。足早に上座に向かうとすぐさま座って声をかけた。
「面を上げよ」
左側には北河又五郎(北河盛隆)が座り、その下座に尾張軍の各組頭が居ならぶ。右側には代官衆が並んでいる。代官衆の先頭は織田三郎五郎(織田信広)だ。
そして儂の左右には池田三郎(池田高雄)と織田与次郎(織田信康)が控えている。既に何度も行って来た尾張支配の為の評定だが、今回はただの評定ではない。緊急の軍議だ。
「又五郎、改めて状況を聞かせてくれ」
「ハッ!しからば多羅尾よりご報告申し上げる」
又五郎が視線を下座に向けると、二番組頭の多羅尾四郎兵衛(多羅尾光俊)が頭を下げて話し出した。
多羅尾の配下には目の良い者が多いから、物見役を務めることが多い。此度も物見は多羅尾の二番組か。
「手の者が見聞きして参ったところ、岡崎城を発した松平次郎三郎(松平清康)は馬廻のみを引き連れて沓掛城に入り、その地にて三河各地の軍勢が集結するのを待っているとの由。既に沓掛城には一万近くの兵が集まり、なおも各地から続々と兵が集まっているとのことにございます」
「総勢はどれほどになる?」
「わかりませぬ。松平は五万の軍勢と号しておりますが、言うまでも無く誇張にございましょう。ですが、一万は優に超えていると考えて良いでしょう」
一万以上の軍勢……?
解せぬ。
「何故松平はそれほどの軍勢を集められたのだ。今は稲刈りの時期で百姓も戦どころではない。三河一国と浜松周辺の取れ高だけで万を超える軍勢を維持することなどは不可能だろう」
「手の者の報せによれば、松平の兵はその多くが流民や河原者、あるいは山村で食い詰めた者達であり、軍装もボロボロの腹巻一つに錆刀一本を腰に差しただけの者が多いとのこと」
「……つまり、軍勢とも呼べぬ数合わせだということか。ならば物の数では無いな」
「若殿、雑兵だからと御油断召されるな」
池田の爺が横から口を挟んでくる。嫌に真剣な顔つきだ。
「爺、何故だ?そのような雑兵を軍勢に組み込んだ所でまともに統制など取れるはずがあるまい」
「そもそも松平は最初から統制など取るつもりが無いのかも知れませんぞ」
統制を取らぬ? 統制を取らずに各々が好き勝手に振舞う兵など、率いたところでまともに戦えまい。
爺は何を言っているのだ。
「統制を取らずにどうやって戦う。我ら尾張軍はみっちり鍛錬を施した兵が常時五千は動かせるのだぞ。例え一万の軍と言っても有象無象相手に後れを取ることは無いだろう」
「松平の狙いは尾張を混乱に陥れることにございましょう。流民や河原者といえば、その多くが土地を持たず、今日の飢えを満たす方法も無い者達でございます。それらの者達を集め、松平が号令をかける。
『尾張には米がある』と」
な……なんだと!
「つまり、松平次郎三郎は尾張の村々を略奪させるためだけに飢えたる民を集めたということか」
「左様にございます。松平次郎三郎は戦の分からぬ男ではございません。この二年、曲がりなりにも北河又五郎と互角以上に渡り合って来た猛者です。統制の取れぬ軍が何の役にも立たぬことは先刻承知でありましょう。その上で飢民を集めた……
某には、尾張に略奪兵を入れ、尾張各地を混乱させる目論見に見えまする」
池田の爺の言葉を受けて北河又五郎に視線を移す。又五郎もどうやら爺と同意見か。厳しい顔で頷いている。
「仮に、尾張と三河の国境の村々に万を超える略奪軍を放たれれば、我らはそれらに対応せざるを得ません。尾張各地の村ではまさに今、刈取りの終わった稲を干し、脱穀しているところでございます。それらを根こそぎ奪い取られれば、山城の御屋形様へと兵糧をお送りするどころか、今年一年の間尾張の民が食いつなぐ米にすら事欠く有様となりましょう」
「我らが村に侵入した雑兵に手を焼いている隙に、松平自身は統制の取れる軍勢のみを率いて尾張の各城を攻め取る腹積もりというわけか」
「恐らく狙いは大高・鳴海両城かと。その両城を落とされれば、我らは三河に進軍することが容易ではなくなります。その上、被害を受けた尾張の各村の復興もございます。向こう二年ほどは三河に遠征することが難しくなりましょう」
父上が淀城から動けぬ隙を突いたか。
収穫を終えたばかりの米を狙って略奪を謀り、民百姓を飢えさせて顧みぬとは……。
おのれ……外道めが。
強く握った拳が震える。これほどに腹が立ったことは初めてだ。
「動かせるだけの兵を集めよ。松平に好きにさせておくわけにはいかん」
「お待ち下され」
又五郎が進み出て待ったをかける。何か腹案があるのか?
「松平の狙いが大高城・鳴海城ならば、目くらましの略奪兵は愛知郡や春日井郡に放ちましょう。それらの者達は村を襲うことが目的であり、我らの軍勢に立ち向かおうとはしないはず」
「それがどうした。どの道村を襲う賊徒共を放っておくことは出来まい」
「無論、賊徒の討伐は必要です。ですが、我らの本軍は雑兵を無視して松平の本陣を突き、松平次郎三郎を撃破することを第一にすべきかと愚考致します。
賊徒の退治は申し訳なきことながら、代官衆にひとまずお願いしたい。松平を討ち果たして後、我らも取って返して賊徒の撃退に当たりまする」
又五郎が頭を下げる。儂に、ではないな。織田与次郎や三郎五郎に頭を下げているのだろう。
「承知いたしました。我らとて尾張の村を荒らす者どもを黙って見ていることなど出来ません。当面の賊徒退治は我ら尾張衆にて請け負わせていただく」
決まりだな。
「して、どこで戦をする?」
「大高城・鳴海城を攻めるとなれば、恐らく松平の本陣は高根山か巻山、あるいはその間の桶狭間に置くことになりましょう。我らは北から迂回し、沓掛城を攻めると見せて松平本陣の後ろを突きまする」
「よし、又五郎に任せる。必ずや松平を討ち果たし、次郎三郎を『海道一の大間抜け』にしてやれ」
「ハッ!」
・天文七年(1538年) 九月 尾張国愛知郡 沓掛城 松平清康
「兵の集合は順調か?」
「ハッ!加茂郡の山村からも続々と兵が押し寄せております」
「ふっふっふ。今一度信徒総代としてお主から一向門徒共に触れを出してやれ。ぼやぼやしていると尾張の米を食い損ねるぞ、とな」
「ハハッ!」
飢えた者達とは恐ろしい物よな。まるでイナゴの群れと変わらぬ。
とりあえず沓掛城の備蓄米を振舞ったが、瞬く間に食いつくされてしまった。まあ、こちらは今年三河で収穫した米を備蓄に回せばよい。それよりも奴らにこれから食い尽くされる尾張の村が不憫になるわ。
「しかし、某もまさかこれほどに兵が集まるとは思いも寄りませなんだ。既に兵は一万五千を超え、二万に達しようかとしております」
「ふっふっふ。良き教えを受けたからな」
「はあ……?」
安芸守(石川清兼)め、分からぬか。
この手は六角宰相が京の法華宗と対峙した時に使った手よ。六角は近江国中から兵を搔き集めて七万もの軍勢を起こしたと聞く。米を食わせてやるぞと言えば、三河一国でも一時的に二万くらいの兵を集めることは出来るだろうさ。
もっとも、六角が兵を集めた時は近江に備蓄した米を全て放出したようだがな。
民草を飢えさせぬために、か……。
フン。馬鹿馬鹿しい。目の前に他所の米があるのならば、奪って食えば良いだけだ。尾張の民が飢えようが死のうが知ったことではない。
「しかし、これほど大規模な乱取りを行えば、当面尾張を治めるのが難しくはなりませんか?」
「んん? 安芸守。お主尾張を治めたいか?」
「は、いえ、その……殿はそのおつもりでは?」
「馬鹿馬鹿しい。乱取りで傷んだ村など治めても面倒なだけよ。
六角に治めさせれば良い。そしてまた邪魔をして来るようならばもう一度飢民を集めて攻め寄せれば良い。『海内豊楽』などと御大層な旗印を掲げるのならば、手始めに三河の飢えたる民を思う存分食わせてもらおうではないか」
「殿は最初からそのつもりで……」
「うむ。尾張の民も気の毒なことよ。六角が今川と組んで儂の邪魔をしなければ、飢えや乱取りに苦しむことも無かっただろうにな。はっはっはっは」
安芸守め。何を青い顔をしておる。
所詮この世は弱肉強食、弱ければ食われるのが当たり前だ。
我が松平のように一土豪に過ぎぬ者が六角のような累代の守護と渡り合うには、非情な手段もためらわずに実行せねばならん。
我が父信忠は弱かったがために家臣共に隠居させられた。儂が弱ければ、遠からず儂も隠居させられることになるだろう。
乱世にあって優しさなどは害悪でしかない。例え世の悪評を被ろうとも、儂はその為に己を省みたりはせぬ。
決して退かず、誰にも媚びず、悪評も省みることのない強さを持たなければ、松平が生き残ってゆくことなど出来ぬわ。
「殿!六角軍が清州城に兵を集めていると報せが参りました!」
「半蔵(服部保長)か。六角はどれほどの兵を集めたか分かるか?」
「ハッ!各村では稲刈りに追われ、陣触れに応じられぬ者も多いそうにございます。物見がざっと見たところ、集まった兵は万に届かぬ程かと」
「予想通りだな。よし、全軍出撃だ。
「ハハッ!」
・天文七年(1538年) 九月 美濃国可児郡 明智城 明智光綱
むぅ……出陣だというのに、具足が邪魔で草鞋が上手く履けぬ。
くっ。このっ。
「殿、お立ち下さいませ」
「いや、牧よ。草鞋が上手く履けんのだ」
「ですから、私が履かせて差し上げます。お立ち下さいませ」
む……。
言われた通り立ち上がると、妻の牧が足下にひざまずいて草鞋の緒を締めてくれた。草鞋も上手く履けぬとは情けない限りではないか。
「草鞋の緒が少し痛んでおりますね。この戦が終われば新しく替えてくださいな」
「うむ。そうしよう」
改めて準備を整えて戸口に向かうと、後ろから倅の彦太郎(明智光秀)が顔を覗かせているのが見えた。
「彦太郎。どうした?」
「父上が出陣と聞きました」
「それで見送りか。えらく素直になったものだな」
からかうと彦太郎が俯いて目を逸らす。やれやれ、難しい年頃になったものだ。
「ま、心配は要らぬ。此度は六角の御曹司殿の手伝い戦よ。心配するほどのことは無い」
「しかし、松平は五万の軍勢と聞きました。氏家様や安藤様を始め、美濃の主だった者は山城守様(斎藤利政)に従って畿内に出陣しているのでしょう?」
「そうだ。それ故に我ら明智勢が尾張の援軍を務めるのだ。儂が行かねば、品野城に籠っている弥次郎(明智光安)が心細かろう」
「……」
ふふ。素直にこの父が心配だとは言ってくれぬか。
まったく、年頃の
「では、行って参る」
「行ってらっしゃいませ」
牧に続いて彦太郎が口の中でボソボソと見送りの言葉を述べる。
まったく、年頃の
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