走狗と狩人

 


 ・天文六年(1537年) 一月  近江国蒲生郡佐々貴神社  六角定頼



 木沢との和議を終えて近江に戻った俺は、六角氏の氏神である佐々貴神社で年始の祭礼を行った。方々から比叡山や日吉社を焼いた悪鬼羅刹と言われているが、寺社そのものを敵視しているわけではないというアピールもしていかなければならん。

 敵視するのはあくまでも武士の世界に口を出す神人や衆徒だけだという宣伝の一環だ。


 例年は祭礼だけで終わりにするが、今回はちょっと気を使って猿楽と田楽も境内で奉納することにした。と言っても比叡座や下坂座は出演を拒否しているから、今回は北近江の山階座を招いて『竹生島』を奉納する。


 境内に作られた能舞台では周囲を取り囲むように家臣達が酒席を設けて思い思いに見物している。焚火と人の熱気が相まって冬だというのに汗を掻きそうなほどだ。


「御屋形様、美しい景色ですね」


 俺と志野が並んで座る後ろからお寅が声を掛けてくる。舞台の上ではワキとツレが湖国の風景を楽しみながらシテの漕ぐ船に乗って竹生島を目指す場面だ。湖国の春の景色が色鮮やかな衣装と共に演じられてゆく。

 ちなみにワキが都から竹生島詣でに来た大臣で、ツレの女とシテの老人がちょうど釣り船を出すところに通りがかって竹生島まで便乗させてほしいと願い出る場面から、湖から見る湖国の景色を表現していく。


 衣装は多くが志野がデザインしたもので、各地の公演でも評判が良いらしい。


「御屋形様、私も一度竹生島に詣でてみとうございますわ。御屋形様のツレとして同じ御船で」


 次はお花が話しかけてくる。相変わらず俺は無言で舞台だけを見つめている。


「あら、ご自身を弁財天の化身だとでも言うおつもりですか? いくらお花殿でもそれはいささか……」

「まあ、私はそんな事は申しておりませんわ。私はただ御屋形様とご一緒ににおの海の景色を楽しみたいと申しているだけでございます」


 お寅とお花の声が少しづつ険悪さを帯びてくる。後頭部の後ろで火花の散る音が聞こえるのも、その後ろで小姓たちがハラハラした顔をしている気がするのも、きっと気のせいだろう。


 このツレの女性とシテの老人だが、実はツレは竹生島に鎮座する弁財天の化身で、シテは琵琶湖に住まう竜神だという筋書きだ。ワキの大臣はそんなこととは露知らずに弁天様を侍らせて竜神様の漕ぐ船で琵琶湖周遊を楽しみ、京の帝へ献上する宝物を受け取るというのが『竹生島』のストーリーになっている。


 舞台上ではツレとシテがワキに自分たちの正体を明かして竹生島の社殿の中に消えていく場面が演じられている。女人が聖域である竹生島に立ち入ることを不審がる大臣に向かって、我は女神弁財天であると告げる神秘的なシーンだ。


「なあ、志野。何とかならんか」

「……」


 隣の志野に小声で話しかけるが、聞こえなかったようにニコニコと笑顔で舞台を見つめている。いや、笑ってるけど今の絶対聞こえてたよな。


「貴女はそうやって御屋形様に無理やりついて来たくせに……」

「あら、私を近江に連れてくると仰せ下さったのは御屋形様でございますよ。無理やりというのは御屋形様に失礼な物言いになるのではありませんか?」


「なあ、志野」


「お二人とも、良いところですよ」


 志野の声を受けて後頭部の火花が収まる気配がする。

 舞台の上では社殿の奥から再び登場した弁財天が大臣に対して天女の舞を披露している。『竹生島』のクライマックスだ。



 お花を尾張から連れて帰って来た時、志野は喜んで迎えた。勿論、顔とスタイルのいいお花は嫁入りした初音に代わって志野の着せ替え人形になってるわけだが……。

 だが、お寅はそれを面白く思っていないらしい。お寅自身は顔は悪くないが、背が低くてどうしてもお花ほど小袖の文様が見栄えしない。そのことをお寅自身が一番気にしているらしく、折に触れてはお花に突っかかっているらしい。

 そもそも俺が尾張から連れて帰って来たというのも気に入らないようだ。


 お花もお花で、志野は別格としても側室の中では由緒ある家の出だと言ってお寅を敵視している。側室の中でと言ってもたった二人なんだから、そんなに対抗心を燃やさんでもいいように思うんだが……。


 だが、そのおかげで二人とも志野の言うことには素直に従う一種の秩序が出来上がっている。次に側室迎える時が怖いよな。どうかこれ以上側室を迎える破目になりませんように。


「御屋形様、私も竹生島に詣でたくなりましたわ。春になれば三人一緒に連れて行って下さいまし」

「春にか……。まあ、考えておこう」


 志野の言葉にお寅とお花が喜ぶ気配がする。まあ、お寅も万寿丸が生まれてからはろくに観音寺城を出ていないから、お出かけは嬉しいんだろう。


 しかし、春になったら俺は越前なんだよなぁ……。




 ・天文六年(1537年) 二月  摂津国欠郡 堺  三好政長



 茶室の中には茶釜が湯を沸かすシュンシュンとした音だけが聞こえる。

 亭主の武野紹鴎がおもむろに茶釜から湯を掬い、茶碗に注いで茶を点て始めた。先ほどの茶釜の音にシャカシャカという茶筅の音が加わる。


 紹鴎が茶を点て終わると儂の前に茶碗が置かれた。良い茶碗だな。

 茶を一口飲んで再び茶碗をじっと見る。釉薬を使わぬ焼けた土の色は素朴な美しさがある。


「良い茶碗だな」

「ありがとうございます。備前でございます」


 紹鴎の言葉に思わず儂の隣に座る男に視線を向けた。


「ほう、備前焼であったか。儂はてっきり、以前にそちからもらったのと同じ信楽の茶碗かと思うた。信楽焼も素朴な土の色の良い茶碗であった。そうは思わぬか? 近江屋よ……いや、今は内池屋であったな」

「確かに備前は信楽によく似ておりますな」


 堺で米穀を商う内池甚太郎がゆっくりと頷く。紹鴎は心得た物で、甚太郎の前にも同じように茶を出すと一礼して下がって行った。



「時に、近江を捨てたというのは真か?」

「はい。これ以上六角のやり方についてゆくことは出来ません。改めて、手前は堺を本拠として西国の荷を扱う商いをしていきとうございます」


 ふむ。近江宰相は比叡山を破却し、山門領をすべて自領へと変えた。近江国内にもそれに反発する者は少なくないと聞くが、だからと言ってこの甚太郎の言葉をそのまま信じることもできぬ。


「近江を捨てたと言ってもいきなりそれを信じろというのは難しかろう。まずは証を見せるのが先だ」

「証……どのように証を立てればようございましょうか」

「そうさな。まずは我らの役に立ってもらおう。首尾よく行けば、阿波からの荷を扱う納屋衆(倉庫業者)の一人に推挙してやっても良い」


 甚太郎が喜びと警戒心が混ざった複雑な顔をしている。なに、それほどに難しいことを言うつもりはない。


「木沢よ。奴をなんとかせねばならん」

「木沢様を……しかし、木沢様は右京大夫様に忠実なお方ではありませぬか?」

「今は忠実だ。今は、な。しかし、いつまでも忠実であるとは限らん」


 六角と木沢の和睦は正直意外ではあった。どちらもまともに損害を出さずに兵を退いてしまったからな。これでは我らの旨味が無くなる。


「木沢様を攻める手伝いをせよと?」

「今すぐにではない。だが、いずれそうなるやもしれぬ。南山城を抑えたことで木沢の勢力は畿内で頭一つ抜け出た。猟犬に求められるのは獲物を捕らえることだ。獲物を自ら食らってしまう猟犬ならば必要あるまい」


「……しかし、どのように?」

「そちは遊佐河内守(遊佐長教)の元にも出入りしておるそうだな」

「はい。今回のことで遊佐様にも南河内の商いを大々的に許すと仰せ頂いております」

「儂と河内守のつなぎ役を務めるが良い。いずれは河内守と共に木沢を牽制することになろう」

「承知いたしました」


 ほう。もっと驚くかと思ったが、意外そうな顔一つせぬとは……。

 案外六角も商人にそういう役目を負わせていたのかもしれんな。


 河内守としても木沢の膨張は面白くあるまい。南山城を抑えた木沢が次に高屋城に狙いを付けぬと決まったわけでもないのだからな。

 それに主家の畠山と違い、遊佐は堺を抑える我らと手を組む利を十分に分かっておる。今は我らと手を組むことに否はあるまい。


「そうさな。それと、もう一つ手配を頼みたい物がある」

「何かご入用の物がありますか?」

「良い太刀を探してほしい。左文字は気に入っていたのだが、先日甲斐の武田陸奥守殿(武田信虎)に婿殿への引き出物として差し上げてしまってな。今はとりあえず無銘の太刀を帯びているが、やはり良い太刀を佩きたいものよ」

「されば、ちょうど備前長船の光忠作の刀が手元にございます。近江へ持ち帰るつもりでありましたが、今となっては行き所もありませぬ故越後守様(三好政長)に献上致しましょう」


 ほう。備前の長船と言えば名工の里として名高い。これは期待できるな。




 ・天文六年(1537年) 二月  尾張国愛知郡古渡城  北河盛隆



 古渡城の城門前では毎日旗本衆の訓練が行われている。今日は三番組が太鼓の音に合わせての進退の訓練だ。先ほどから太鼓の音と鬨の声が辺りに響いている。この寒空にもめげずに皆額には玉のような汗が光っている。


「そこ!前進が遅れている!そんなことでは敵に付け入る隙を与えることになるぞ!」

「はい!」


 今度は退き太鼓が鳴らされる。


「そこ!後退が遅い!前進が遅れてもいかんが後退が遅れると命を失うことになる!」

「はい!」


 ふむ。

 急造とはいえ、尾張衆もなかなか形になって来た。昨年には守山城から刈り働きに出て来た松平勢と戦ったが、こちらの軍勢が打ち破られる一幕もあったからな。次にやるときは必ずや松平を撃退せねばならん。

 しかし、松平は手強い。三河武士は粘り強いと聞いたことがあるが、まさかあれほどの劣勢でも崩れずに戦うとは思わなんだ。まるで蒲生殿の戦ぶりを見ているようだった。

 我らもみっちりと鍛錬をしてゆかねばならんな。


 進退の稽古を見た後、城門前から上の廓へと向かう。上の廓では五番組がそれぞれに槍や太刀の稽古をしているところだ。五番組は尾張から召し出した者たちが主体だから、今はまだ進退の稽古は早い。自然と個人訓練が主体になる。


「そりゃぁ!」


 気合と共に木剣を振り下ろす若者が目に付く。なかなか鋭い太刀筋をしているな。それに上背もあり、立派な体躯をしている。

 儂の視線に気づいたか、若者が素振りを止めてこちらに会釈を寄越してくる。


「お主、名は何と申す?」

「ハッ!上社村の柴田権六郎にございます!」


 ふむ。なかなか声も良く通る。これは良き物頭になるかもしれん。

 戦場では進退を聞き分ける太鼓の音も重要だが、物頭の声が聞こえれば兵たちは安心する。我らの大将は未だ健在なりと声で知ることができるからな。


「柴田権六か。覚えておこう。これからも松平との戦は続く。しっかりと鍛錬を行い、武功を立ててゆけよ」

「ハッ!ありがとうございます!」


 うむ。将来が楽しみな若武者よ。

 さて、次は一番組の弓鍛錬を見に行くか。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る