天文の近江大乱(4)清水山城の戦い
・天文三年(1534年) 七月二十四日 近江国滋賀郡大津 蒲生定秀
「朝飯を食い終わった者から進軍の態勢に移れ!騎馬は昨日北近江軍が乗り捨てて行った馬を替え馬として乗り換えよ!」
各組の組頭に指示を出した後郷方衆から握り飯を受け取ってかぶりつく。日中はまだ暑いが、朝晩は冷え込み始めたから暖かい汁も用意されているのは有難いな。
一夜の休息を取った後に我ら南近江軍には高島郡から敦賀を目指せと下知が下った。炊事や荷運びは全て郷方衆がやってくれているから、我らは進軍するだけで良い。これならばさほど急がずとも今日中に高島郡には到着できるだろう。
昨日一日で法華宗の寺院は悉く制圧できた。あとは市街地に潜む門徒達の制圧だが、これは北河又五郎殿と甲賀衆に任せて我らは湖西路から敦賀を目指す。
御屋形様の見立てでは高島郡にも敵が侵入するはずだが、実際に敵がいるかどうかはわからん。もしかすると小谷城に全軍で向かっているかもしれぬ。
まあ、その場合は小谷城の後詰は朽木殿に頼み、我らはそのまま北上して敦賀まで奪取する。朝倉が小谷城に全軍を振り向けているとすれば、金ヶ崎城は空に近いだろうし手間取ることもあるまい。
しかし、御屋形様もよく考えを巡らせるものだ。
北近江軍は昨日の午後に転進させ、今日は南近江軍を進発させる。半日のズレをわざと作り出すことで敵の身動きを封じた。
今頃は北近江軍も観音寺城から小谷城に向けて出発しているだろう。
「しかし、まことに小荷駄の用意はしなくてもよろしいのですか?」
「我らの後ろから郷方衆が兵糧を持って付いて来てくれる。我らの役目は進軍と戦闘のみとせよという御屋形様のお下知だ」
隣で汁を啜りながら町野将監が疑問を口にする。確かに今までの戦ならば小荷駄の進む速さにどうしても軍勢が合わせざるを得なかった。小荷駄無しで進むことは略奪が前提になるが、御屋形様は戦地での略奪を好まれない。六角の戦は常に食い扶持を持って移動することが常だった。
……このような戦は初めてだな。
何を置いても進軍の速さこそが戦を決めると御屋形様は仰せであったが、まさかここまで徹底的に進軍以外の役目を削ぎ落されるとは……。
だが、旗本衆を組ごとに分けて組織していなければそもそもこのような統制のとれた進軍などとても出来なかっただろう。こういう戦を目指して旗本衆を創設されたのだとしたら、御屋形様の目には最初から『進軍』を戦略に組み込む意図があったということになる。今更ながら、どこまでお考えなのかと呆れる他はない。
「殿!一番組の磯野丹波守(磯野員宗)が進軍の用意が整ったと!」
「よし、では出立させよ!二番組は某が率いる!三番組以下も順次出立するように通達だ!」
「ハッ!」
さて、飯も食ったし我らも高島郡へ向けて進軍するか。
・天文三年(1534年) 七月二十四日 近江国高島郡清水山城 朽木稙綱
くそぅ。負けた。
「殿、だから六角様の仰せの通りに朽木谷に籠って防戦しておれば……」
「ええい、やかましい!俺は高島郡の太守だぞ!いかに軍略とはいえ高島郡を蹂躙されて黙っていられるか!」
「しかし、今回野戦に負けたことで二千の兵も多くは逃げ散り、数は五百にまで減ってしまいました。しかも清水山城を包囲されてしまっては朽木谷に引き上げることもできません。かくなる上は六角の援軍を待ってここで朝倉を引き付けるしかありませぬ」
「言われぬでも分かっておる!」
おのれ忌々しい。朝倉九郎左衛門などに後れを取るとは……。
朝倉も兵を相当に練って来ておる。以前に箕浦河原で九郎左衛門と戦った時はこれほどに守りの強い将ではなかったはずだ。九郎左衛門もこの八年で戦を重ねて強くなったか。
「殿!高島南市から火の手が上がっております!」
「なんだと!」
野尻六郎と共に慌てて物見櫓に上ると、確かに大溝の辺りから煙が立ち上っている。
……おのれ。
手すりを握る手に思わず力が籠る。我が朽木の大切な市場を踏みにじられるとは何たる屈辱。この様子では村方にも略奪の手が入っているかもしれぬ。
戦に負ければ敵に領国を蹂躙される。戦国の習いとは言え、これほど悔しいことはない。全ては俺が朝倉に負けたからだ。
「六角の……六角の援軍はまだか」
「今日中には木戸城にまで達すると報せがありました。明日には六角軍が現れましょう」
「こうなる前に六角軍が到着しておれば……いや、そういう問題ではないな」
「殿……」
全ては俺が弱いからだ。六角は旗本衆を組織して戦だけを行う軍を作っていると聞く。それが六角の強さの秘密かもしれぬ。
「六郎。この戦が終わったら朽木も旗本衆を作るぞ」
「……はい」
負けられぬ。ここまで虚仮にされて黙っていることなど出来ぬ。
我が朽木も高島南市からの収入があるし、高島郡は八万石の米が取れる。旗本衆を維持するには金が掛かるが、もはやそのような事を言っている場合ではない。
高島南市の商人達と相談してもっと銭を稼ぐ仕組みを作ろう。旗本衆を維持し、朽木を強い軍にするためには銭を稼がねばならん。次に戦する時には俺だけで朝倉を破る軍を作って見せる。
「まずは負傷兵の手当てだ。それと、戻った兵達に飯を食わせろ」
・天文三年(1534年) 七月二十四日 近江国高島郡清水山城攻め陣 朝倉景紀
朽木が清水山城内へ退いたか。他愛もない。張り切って討って出て来るからどれほどの物かと思ったが、ただただ正面から押してくるだけだったな。
浅井備前守も今頃は小谷城に攻めかかっておるだろう。もしやすると既に小谷城を奪ったかもしれん。儂の目的はあくまで朽木の牽制だから城を包囲しておればそれだけで良いが、清水山城を奪ってはいかぬと言うことも無い。
清水山城を奪えば朽木谷に蓋をすることもできるし、北近江を奪回した後はそのまま朽木を攻め滅ぼしても良い。ここで清水山城を奪っておいて損はないか。
「よし!明日は朝から清水山城を攻める!城からの攻めを警戒しつつ兵に休息を取らせよ!」
「ハッ!」
思えば義父上は朽木が高島郡から出て来ぬように海津で見張るだけに留められた。それゆえに朽木が船で移動することを許してしまった。
安曇川沿いのこの地に布陣しておれば大溝の湊も使えぬし、朽木は城内で震えることしかできまい。
「殿!兵達が周辺の村方を見回りたいと申しております」
「わかった。兵糧を差し出した村には見回りは入れぬようにせよ」
「ハッ!」
「ああ、それと高島南市にも見回りに入れ。あそこは矢銭を拒否した。今後の見せしめのためにも徹底的にやってよい」
「承知いたしました!」
配下の長沢源太郎が嬉しそうに下がって行った。まあ、兵達の楽しみでもあるから少しくらいは良いだろう。
それにしてもこの辺りは美田が広がっているな。平地も多いし高島郡は良い場所だ。米の取れ高もなかなかの物だろう。まだ収穫には早く米は充分に実ってはおらぬが、今回は刈り働き(青田刈)はやめておこう。清水山城を奪い取ればどのみち今実っている米も我らの物と出来る。焦ることはない。
しばし陣で絵図面を眺めていると物見の騎馬が駆け込んで来る。何か見つけたか?
「申し上げます!南約二里の場所に六角軍が布陣!」
「なんだと?軍勢の旗は誰の物だ?」
「対い鶴の旗印!蒲生にございます!」
「数は!」
「およそ二千!しかし後続も次々と着陣しており、総勢はまだはっきりしません!」
蒲生藤十郎……まさかここで相まみえることになるとはな。これも天の配剤というものか。だが、清水山城と前後を挟まれたまま蒲生と戦えば負けるのはこちらだ。
「見回りに出ている兵を呼び戻せ。今津まで陣を退く」
「ハッ!」
明日は
蒲生藤十郎の首は次の機会を待つことにするか。
・天文三年(1534年) 七月二十五日 近江国高島郡
今津の手前の饗庭に退いて防御陣を敷いた。この辺りは平野から山地に入る所だから、大軍の利が活かせぬ。蒲生は総勢五千ほどだが、こちらは三千の兵がほぼそのまま残っている。蒲生を打ち破るのは難しいとしても、高所を抑えている限りそう易々と先には進ませぬ。小谷城さえ落とせればこの戦は我らの勝ちだ。
後ろの田屋城にも後詰の兵を入れてきたから、仮に饗庭の陣を抜いたとしても浅井郡へ向かう前に田屋城を攻め落とさねば後ろを突かれる。慌てて援軍に来たようだが全て無駄に終わったな。今更小谷城に向かうことはできぬわ。
「敵も動きませんな」
「動けぬのだろうよ。下手に仕掛ければ損害ばかりが大きくなる。手をこまねいているのだろう」
「音に聞く今藤太も九郎左衛門様にかかれば形無しですな。近頃の殿は亡き宗滴様にも勝る名将となられ申した」
「耳触りの良いことを言っていないで軍の指揮に戻れ。いつ蒲生が動くかはわからんのだ」
「ハッ!」
長沢源太郎が調子の良いことを言ってから持ち場へ戻って行った。
ふふ。義父上にも勝る名将か。此度の北近江奪回が成功すればまことにそうなれるかもしれん。いずれは亡き義父の無念を晴らしてくれよう。
……ん?
何やら南の湖上に船が見える。商船か?
……違う。次々に船が続く。これは船団!兵船だ!
馬鹿な!大溝の船は全て焼き払ったはず。今この時にここを航行する兵船などあるはずがない。
旗印は……隅立て四ツ目結い!六角弾正の本軍か!
「正面の蒲生軍が動き始めました!こちらに攻めかかって参ります!」
くそっ!このまま後ろに上陸されれば我らは饗庭の山中で完全に孤立する。といって後ろを向けば蒲生軍に背を討たれる。海津に新たな軍勢が出現すれば田屋城に退いたとしても我らが逆に高島郡で孤立するだけだ。
どうする……どうする……
「……撤退だ!金ヶ崎城まで撤退する!」
またしても……またしても……
「くそぉぉぉぉぉぉ!」
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