烏有に帰す
・天文元年(1532年) 八月 山城国宇治郡 山科本願寺 顕証寺蓮淳
堅田本福寺の明宗が不意にお上人様への目通りを願って山科本願寺にやって来た。
一体何をしに来たのだ。今は六角が儂の大津顕証寺を攻め、京の法華宗までもが六角の尻馬に乗って本願寺を攻める姿勢を見せている。このクソ忙しい時にお上人様へのお目通りなどさせれば、一体何を吹き込むかもわからん。儂がまず話を聞かなければ。
「明宗殿。本福寺には我が顕証寺への後詰を行うように指示を送っていたはずだが、肝心の顕証寺には一人の門徒も応援に来ず、代わりにそなたが二名の弟子を連れたのみで本願寺へ参られた。これは一体どういうことかな?」
儂の詰問にも涼しい顔をしている。いや、かすかに笑っている?
嫌な笑いだ。お上人様の外祖父である儂を馬鹿にしておるのか。
「蓮淳殿自身が一番お分かりでござろう。二度に渡って破門された我が本福寺には今や門徒を動員できるだけの銭も兵糧もありはせぬ。拙僧は六角様の意を受けて勧告に参ったのです」
「勧告?しかも六角の意を受けてだと!本福寺はいつから武士の犬に成り下がった!もう一度破門を言い渡されたいか!」
尚も薄く笑っておる。一体何が可笑しい。このクソ坊主めが。
「我が堅田本福寺は以後六角家と歩みを共に致します。今後は独自に兵力を持つことは慎み、六角様の領国支配に協力し、六角領の一向門徒達の心の拠り所として存続する所存にございます。
今回参ったのは、親鸞上人の御血筋である証如上人が望まれるのならば堅田本福寺にお迎えする用意があることをお伝えするため。あいにくですが蓮淳殿に用はありません。お上人様に取り次いで頂きたい」
何を生意気なことを!しかもよりにもよって六角家と歩みを共にするだと?
「ふざけるのも大概にして頂こう。今や総本山たる本願寺は創建以来最大の危機を迎えている。今までの法難などよりも遥かに厳しい戦いだ。その時にあって、まさに今本願寺を攻撃せんとしている六角におもねるとは言語道断!破門だけでは飽き足らず仏敵にまで落ちぶれたいか!」
「本願寺を腐らせたのは一体誰だと思っている!」
ぐぬぬぬぬ。明宗め。この儂に向かって怒鳴るとはいい度胸ではないか。
「そもそも蓮如上人は『御文』の中で守護・地頭を粗略にすべからずと説いておられる。また、他宗派に対して誹謗を行うなかれとも説いておられる。我ら浄土真宗の本願はただ阿弥陀様の慈悲にすがり、極楽往生を為されんことを念じて
門徒が武装し、しかも守護に対して蜂起せよなどとただの一言も説いてはおられぬ。
蓮淳殿達の行ったことは蓮如上人の貴き教えをただ門徒達を支配する方便に使ったに過ぎぬ」
「……
「いかにも。六角様は抵抗を止めて寺内町を破却するならば命までは取らぬと仰せ下された。そもそも内心深く信心を持つ為に領地や兵力などが必要になりましょうや。六角様の仰せになられたことは蓮如上人の『御文』にも通ずる浄土真宗の原点でもある。
六角様は本願寺についても寺領を返上し、伽藍を破却し、兵力を召し放つならば命を許すと仰せ下された。蓮如上人の教えに立ち戻るだけのこと。何の抵抗をする必要がありましょう」
裏切者が偉そうに説法を垂れよって。その六角が矛盾を示しておるだろうが。
「六角がそのように言ったとして、我らが兵を召し放った瞬間に手のひらを返さぬと何故言い切れる。現に今、大津顕証寺は六角に囲まれて攻められておるではないか」
「顕証寺は摂津の一揆衆が逃げ込み、周囲の村を略奪いたしました。粟津の米蔵を襲ったことに六角様は激怒しておられる。粟津の米はただ六角家のための物に非ず、民が飢えに苦しまぬように備蓄している物。いわば民のための物であることは昨年の飢饉の対応を見れば明らかでござろう。蓮淳殿が素直に頭を下げて非道を働いた者を六角様に差し出せばそれで収まったこと」
「我が兵を敵に引き渡せと申すか!」
「その『我が兵』という考えそのものが間違っていると申し上げている。六角様は三日後には山科本願寺を焼き払うと仰せであった。ご英断は早い方が良いでしょうな」
言い捨てると頭を下げることもせずに立ち上がってさっさと行ってしまった。
明宗め。親鸞上人の血統を伝える儂を侮りおって。
三日後に六角が山科本願寺に攻め寄せると言っていたな。
今更六角などに頭を下げることなどできるものか。
・天文元年(1532年) 八月 山城国宇治郡 山科本願寺 下間頼慶
「
「お上人様、落ち着いてくだされ!討って出た門徒は悉く六角に討ち取られ、間もなくこの本堂も炎に包まれます!今はこの本願寺から落ち延びることが第一でございます!」
「やかましい!老僧様はどこだ!老僧様を探せ!」
目が正気を失っておられる。恐怖で混乱しておられるのか。
「蓮淳様ならば昨日からお姿が見えません!おそらく逃げたものと思われます!今はお上人様のお命を守ることをこそお考えくだされませ!」
「老僧様が炎に焼かれれば儂はこれからどうすればいいのだ!」
「落ち着いて下され!蓮淳様が居られずとも某がお側に居り申す。某がお上人様をお支え致します」
「摂津に行けば法華に勝てると貴様が言ったから儂も下向したのに、結果はこのザマではないか!貴様では当てになどならん!ええい、貴様もゴチャゴチャ言わずに老僧様をお探し申さぬか!」
くっ。こうなればやむを得ん。
「御免!」
「うっ」
当て身をしてようやく大人しくなってくれたか。しかしこのままでは炎に焼かれるか六角軍に殺されるか二つに一つ。何としてもお上人様を摂津に落ち延びさせねば……。
お上人様の法衣を脱がせ、農夫の姿にして担いで行こう。東と南は六角軍が隙間なく包囲しているが、西側に陣する法華の包囲はそこまで厳しいものではない。西野から山を抜けて小栗栖に出れば山科川から摂津に出られるだろう。
蓮淳様はどうなったか……。おそらく先に逃げ出したのだろうな。
お上人様を置いて逃げるとは外祖父が聞いて呆れる。もはや蓮淳様は……いや、蓮淳は当てにならぬ。
今の摂津ならばまだ兵力を集めることもできるはずだ。石山御坊に逃れれば六角もすぐには手出しできまい。何とかここを逃れて石山御坊を拠点に本願寺を再興しよう。
「誰ぞある!手を貸してくれ!」
・天文元年(1532年) 八月 近江国栗太郡 瀬田宿 顕証寺蓮淳
ふう、やれやれ。ここまで来ればもう六角の軍勢は居ないだろう。
六角の裏をかいて逢坂山の南の山中を抜けて来たから、追手も掛かっていないだろう。まさか近江勢に追われている儂が近江側に居るとは阿弥陀様でも気付くまい。
法衣も先ほど売り払って銭に変え、シジミを籠一杯に仕入れた。行商姿に扮してこのまま伊勢の願証寺まで行こう。願証寺は伊勢と尾張との境にある。六角の目もそこまでは届くまい。
「え~シジミ~シジミはいらんかね~」
ふふふ。誰にも気づかれぬとしてもせめて行商人らしくシジミを売って歩かねばな。儂が近江を抜けた痕跡を消してしまえば、顕証寺蓮淳は山科本願寺と共に焼け死んだと思われるだろう。我が父蓮如も京を追われて北陸に布教を行ったことで一向宗の勢威を回復した。今度は儂が伊勢と尾張に一向宗の根を張ってくれよう。
証如はどうなったか。死んだかもしれんな。
儂の言うことだけを聞く法主は便利だったが、この際なればやむを得ん。儂にも親鸞上人の血は流れているし、次は我が子に法主を継がせるのも悪くはない。
しかし、六角の横暴は許しがたい。伝統ある山科本願寺を焼き、大伽藍も全て
「シジミ下さいな」
……ん?儂に言っているのか?
「聞こえてる?シジミ下さいな」
……おっとそうだった。今の儂はシジミ売りだ。
「へい、毎度」
「お幾らかしら?」
「ええっと……」
シジミとは幾らくらいする物なのだ?
「百文です」
「……ちょっと高くない?シジミが一椀で百文なんて。せいぜい十文くらいでしょう?」
「ああ、すみません。間違えました。十文です」
「しっかりしてくださいな」
「へい、申し訳ありません」
この女。一体誰に口を聞いていると思っている。本来ならば貴様など話しかけることすら出来んのだぞ。
まあいい。今はなんとかこの場を切り抜けることだけを考えねば。
よし、女は行ったな。なかなかいい尻だ。こんな時でなければ一夜を共にしてやっても良かったのだがな。
さて、まずは観音寺城下を目指そう。商人ならば石寺楽市に寄らないというのは逆に怪しまれるかもしれん。それに、噂に聞く楽市の賑わいというものも一度見ておきたい。
急いでいるように見えてはいかんから、三日ほどかけてゆっくりと歩くとしよう。
・天文元年(1532年) 八月 近江国滋賀郡 粟津郷 岩城久兵衛
「何?瀬田宿で不審な僧を見かけたと?」
「ええ。随分立派な絹の法衣を買い取りました。本人は農夫の恰好をしていましたが、あれはおそらくお坊様ではないかと」
ふむ。一向宗の僧ならばあり得るな。六角様がまさに今山科本願寺を焼き払っている最中だろうから、六角軍から逃げて来たのだろう。
絹の法衣を持っていたとなるとそれなりの地位にある僧侶だろう。念の為どこに向かうか調べておいた方がいいかもしれん。
「その僧はその後どうしている?」
「馬三郎のシジミ屋からシジミを買受けて行きました。籠も求めていたということなのでおそらく行商に扮したのでしょう」
「どの方角へ行ったかわかるか?」
「甚助の女房がシジミを買ったそうですが、それから北に向かって歩いて行ったそうです」
行商に扮して北へ……か。とすれば石寺楽市に立ち寄るだろうな。近江を通る行商人が石寺楽市を素通りするのはどう考えても不自然だ。
「わかった。里の者に後を
「承知しました。礼銭はよろしくお願いしますよ」
「わかっている。悪いようにはせんよ」
一応伴さんに知らせておこうか。今から文を書いて船で届ければ、その僧が石寺楽市に着く頃には保内衆の方で追跡の用意ができるだろう。北近江に行くか伊勢に行くかはわからんが、どちらにしても保内衆の方がそちらの地理には明るい。
「誰ぞ手の空いている者は居らんか?」
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