佐々木同苗
・永正十六年(1519年) 九月 山城国 京 水野義純邸 侍女のヨネ
「姫様。ご用意は出来ましたか?」
「ええ」
「失礼しますよ」
襖を開けると姫様が慌てて文を畳んでおられる。もう穴の開くほど何度も読まれたでしょうに。
「また六角様からの文を読んでいらしたのですか?」
「ええ。四郎様はとても明るいお方のようですね。文だけでも伝わってきます。朗らかで、逞しくて、それでいてお優しくて誠実なお方」
まだお会いしたことも無いのに、まるっきり恋する乙女ですこと。まあ毛嫌いされるよりもいいですが……
何と言っても公方様直々の仲立ちでのご婚儀です。それが仲がよろしからずとなれば公方様の面目にも関わります。
「そうそう、四郎様に差し上げる夜具は用意してくれましたか?」
「ええ、ええ、たんとご用意いたしました。夜具だけでなく呉服も。しかし、これほど沢山の衣服を用意する必要があるのでしょうか?」
「四郎様は震えていらっしゃるそうですわ。お可哀想に……
きっと近江は京よりずっと寒いのでしょう。出来るだけ暖かくして差し上げたいのです」
はて、私の郷里の大津とそんなに変わらないと思うのだけれど……
「ともあれ、参りましょう。お父上様やお出迎えの六角家中の方々もお待ちです。早く発たねば観音寺城への到着が遅くなってしまいますよ」
「そうですわね。参りましょう。四郎様の御許に……」
やれやれ、ようやく出発できますか。明後日からは私も姫様付の侍女として観音寺城に勤めることになりますね。
京の景色を目に焼き付けて行かねば……
・永正十六年(1519年) 十月 近江国蒲生郡 観音寺城 六角定頼
先月にとうとう嫁が来た。水野義純の姫で志野という娘だ。
それが何を思ったか嫁入り道具として大量の呉服を持ってきた。おかげで皆から
そんなに寒がりなのかな?
まあ、女性は冷え性になりやすいというからなあ……
そう言えば保内の庄衛門が綿の実を収穫したと言っていたな。収穫量は微々たるものだが、まあ最初はそんなもんだろう。綿花栽培に干鰯も使い始めているから、来年以降は収穫量がアップするはずだ。
せっかくだから、初獲りの綿で志野にかけ布団を作ってあげようか。この頃の夜具は畳の上に布を敷いて小袖をかけ布団代わりにするから、確かに夜は寒いだろうしな。
布団なんて高級品だから、将軍様でも使っているかどうかってところだ。来年には敷布団も作ろう。俺もいい加減布団で寝たい。
しっかし、志野を最初見たときは驚いた。前世の嫁にそっくりなんだ。
他人の空似ってレベルじゃない。もしかしたら血が繋がってるのかもしれない。
ニコニコといつも笑ってるから、家庭も明るくなっていいな。やっぱ男は、家庭が暗いといい仕事は出来ないからなあ。
「殿、比叡山への文はこれでよろしゅうございますか?」
「どれどれ。ああ、これでいい。あとは花押を据えるから置いておいてくれ」
とうとう念願の祐筆を召し出した。蒲生郡
おかげで事務仕事が大幅に減った。これでようやく志野と楽しく……もとい、領国経営の仕事に精を出せる。
「何を見ておいでですか?」
「これか?岡山城付近の絵図面だ」
「岡山城を攻めるおつもりで?」
「いずれな。今は色々と考えているところだ」
ま、答えは知ってるんだけどね。将棋の
これも軍略の勉強というやつだ。
……まあしっかし、呆れるほど堅い城だわ。
岡山は現代でこそ琵琶湖の埋め立てで湖岸に立つ山になっているが、この当時は琵琶湖に半ば突き出した半島のようになっている。
半島の陸地側は僅かな道があり、そこを守るように幾重にも虎口が設置されている。それ以外の場所は湿地帯で、一歩踏み込めばぬかるみに足を取られてまともに歩けなくなる。
攻め手としては湿地を埋め立てるしかないわけだが、呑気にもっこを運んでいる間に城方からは矢の雨が降る。とてもじゃないが土木工事なんてやってられん。
ならばと兵糧攻めにしようにも、琵琶湖から兵糧も矢もいくらでも補給可能だ。
しかも、ご丁寧に周辺の長命寺や常楽寺の湊は全て九里方に抑えられている。湊を攻めようにも、湊に軍勢を向ければ岡山城と挟み撃ちってわけだ。
いやぁ~良く出来てるわ。確かにこうして見ると、俺の頭じゃあ城方の十倍の兵力でゴリ押しするくらいしか方法がない。そして、そんなことが出来る兵力があればそもそも伊庭も九里も反乱なんて起こしてない。
戦の権化みたいな
返す返すも、
まあ、その正着手を実行するにはまだ時間がかかる。しばらくはこっちも内政で国力を充実させておくか。
内政こそ時間がかかる。干鰯を大々的に配ったことで入会地は多少草が増えたが、まだ効果を実感できてないうちはどうしても昔ながらの草木灰を使いたがる農民が多い。
まあ、仕方がない。誰だって聞いたこともない怪しげな物を使うのにはためらいがあるよな。それは現代でも変わらん。牧草地を本格的に増やすにはあと二~三年はかかるだろう。
それから畳表の販路拡大だな。湿地帯で栽培される代表的なものにイグサがある。近江のイグサは有名で、昔から品質も上の中とされている。
最上級品は備後のイグサだが、こればっかりはどうしようもない。作り方ではなく植生の問題だからなぁ。備後のイグサは細く短く育つが、その分だけ畳表にした時にキメの細やかな畳表になる。近江のイグサは立派に育ちすぎて、きめ細かさでは備後表にどうしても負けてしまう。
後年に織田信長が足利義昭の為に二条御所を作った時に、畳表をわざわざ備後表に指定したくらいだからな。
ま、そうは言っても産量はこっちの方が多い。最上級品にこだわらない所なら近江表でも充分に使ってもらえる。格式のある寺社や大身の武家なんかに売ればいい商売になるはずだ。
差し当たって、この辺りじゃあ比叡山や朝倉家あたりが有望な販売先かな。
石鹸は難しいなぁ。産物云々以前に、手を洗うのに使いたかったんだけど……
石鹸を作るには苛性ソーダつまり水酸化ナトリウムが必須だが、これを作るためには消石灰と炭酸ナトリウムを煮込まないといけない。
消石灰は瀬田のシジミの殻を砕けば作れるが、炭酸ナトリウムは昆布なんかの海藻を獲って来ないといかん。ただでさえ干鰯で物流が増えて商人達が悲鳴を上げているところに、この上海藻もなんて言ったらキレられるかもしれん。
まあ、牛脂と灰を混ぜても出来るけど、臭いんだこれが……
貝殻の消石灰で手を洗うだけでもちょっとはマシかな。粉末がゴリゴリしてちょっと痛いけど。
あとは、お茶だな。永源寺の近辺で細々と茶の木を栽培していたが、これを大々的にやる。
ぶっちゃけ、俺がいつもお茶を飲みたいだけだ。でもお茶を飲むことが一般的になれば、それだけ民の暮らしも豊かになったことになる。
という言い訳で自分を納得させよう。お茶も飲みたいし肉も食いたい。気軽にコンビニで買えた現代は恵まれてたんだとつくづく思うよ。
・永正十七年(1520年) 二月 近江国蒲生郡 観音寺城 六角定頼
「どうか、四郎殿の合力をお願いしたい」
「某で出来ることがあれば、なんなりと。されど、我が六角だけではいささか不安がござる。管領様には今少し広くお味方を募られますよう」
「もちろんだ。そこもとが合力してくれるとなれば、渋る輩も少なくなろう」
上機嫌だな。まあ、当然か。
永正十七年になって早々、管領の細川高国が京を落ちて来た。三好之長や摂津国人衆を配下に加えた細川澄元が、摂津で高国軍を打ち負かした。
本来なら足利義稙も一緒に京を落ちて来るはずだが、義稙は細川澄元の臣下の礼を受け入れた。要するに将軍職を奪い返すのにさんざん協力してきた細川高国を見捨てたわけだ。
と言っても、単純に義稙を責めることは出来ないな。
この
部下の手柄は上司の手柄、上司の失敗は部下の責任って感じのヤツだ。一番嫌いなタイプだな。
実際、大内帰国後は傍若無人に振る舞う細川高国に嫌気が差して、足利義稙は一度京を出奔している。
でも、それを反省している色は見えない。どう見ても裏切った公方に怒り心頭って顔だ。
なんだかなぁ……偉い人達の考える事はいつの時代も変わらんモンだねぇ。
「時に、某からもお願いがございます」
「何だ?何なりと申すが良い」
「これは、管領様が再び京に戻られてからで結構でござるが、実は……」
「なんだ、そのようなことか。わかった。上洛の暁には四郎殿の望みを叶えて進ぜよう」
交渉成立だ。後は仕上げをごろうじろってところだな。
「有難き幸せ。それでは某からも管領様に合力致すように文を書きましょう」
「ほう。誰に書いてくれるのだ?」
「京極・朽木に文を書きまする。彼らは佐々木の同苗でございますれば、きっと管領様の要請に応じましょう」
「それは有難いな。近江一国がこぞって味方してくれるとなれば、わしを追い出したお方にも目に物見せてやれる……フッフッフ」
わっるい顔してんなぁ。まあいいや。
こっちは望みのモノさえ手に入ればなんでもいい。京極は伊庭を支援していた手前、六角家に負い目があるはずだ。今や伊庭が南近江を奪い取れる公算は低いからな。俺に貸しを作りたいと思っているはず。
朽木もこの前河上庄の知行を認めるように比叡山に申し入れておいた。その分の貸しがある。
どっちも管領からの要請に俺の添え状があれば嫌とは言わんだろう。
さてさて、それじゃあ
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