13
車は高速道路を走っていた。
景色はどんどんと後ろに流れていく。
午前の空は晴れていて、空の端に雨雲が小さく見えている。
夜は雨になるだろうか。
驚いたことに、常盤はレンタカーを用意していた。マンションの近くのパーキングに停めてあったようだ。
車内は静かだった。朝の和らいだ空気はどこにもない。
行き先を僕に知られたくないのか、常盤は何も言わずに車を走らせている。僕もあえて聞かず言われるがままに車に乗り込み、黙って窓の外を見ていた。しかし、そろそろ1時間が経つ今、来た道順を追うにつれ、普段車を使わない僕にもその行き先がどこなのか見当がついてきた。
「…空港?」
常盤の横顔が緊張しているのを感じる。
ゆっくりと頷いた常盤は、まっすぐ前だけを見て僕に言った。
「午後の便で日本を発つらしい」
当然『その人』のことだ。
意外な話に僕は少し驚いた。
「そうなのか?…どこに?」
「オーストラリア」
素っ気なく常盤が呟く。
「向こうに永住するからもう帰って来ない。今日しかないんだ。出発前にホテルで会うことになってる」
僕は頷いた。だから今日か。
ちらりと常盤が僕を見た。何か言いたげに、でも結局何も言わない。
心配をしているのかもしれない。
でも一体何に?
聞いたところで答えないのは、昨夜のことでよく分かっていた。
窓の外に海が見えてきた。
着いた先は空港に一番近い大規模なホテルだった。国内国際のどちらのターミナルとも地下で直結しているそこは、多くの人で賑わっている。行き交う人の間を僕の手を掴んで進みながら、常盤は携帯で連絡を入れた。
「すぐ行く」
ロビーに入り、エレベーターへと足を向けた。
「部屋に行くのか?」
てっきりラウンジで会うのだとばかり思っていた僕は思わず常盤に聞いた。常盤は頷いてちょうど来たエレベーターに僕を促して入れ、エレベーターのボタンを押した。8階。
「人が周りにいると落ち着かないだろ」
「それは、そうだけど…」
音もなくエレベーターは8階に着いた。
エレベーターホールから右に曲がり、3番目のドアの前で常盤は立ち止まる。
827号室。
「直さん」
チャイムを押した常盤が僕に言った。
「何があっても俺を信じて」
「え?…」
どういう意味だ?
見つめてくる目を見つめ返した。常盤の目は複雑な色を浮かべて揺れていた。何か言わなければと返事をしようとしたとき、内側からドアが開いた。
「いらっしゃい」
開かれた隙間から『その人』は言った。
よく日に焼けた、背の高い女性だった。
***
それはほんの偶然だった。
父親の葬儀からしばらくたったころ、ようやく重い腰を上げて、仕事場の事務室を整理していたときのことだ。
「お、っと…」
何気なく開いた顧客名簿の間からパラパラと挟んであったものが落ちていく。一番上に重なった紙を拾い上げると、それはメモ書きで、父親の字だった。床に散らばる写真と封筒、封筒の中からは手紙らしきものが飛び出ていた。
常盤は全てを掻き集めて机の上に置いた。
最後に摘まんだ写真の風景に手を止める。若い女性がこちらを見て微笑んでいる。彼女の背景にあるものに見覚えがあった。
常盤がよく知っている場所だった。
***
年の頃はおそらく60を過ぎているその人は、しかし、実際よりもずっと若く見えた。
「初めまして、
問いかけられて、はっと僕は我に返った。
目の前の彼女に重なる面影が揺らいで消えた。
あまりにも彼女はよく似ていた。
「あ、いえ…何でもありません」
僕がかつて傷つけたあの女の子に。そう、彼女は、あの子の母親と言ってもいいくらいだった。
窓からの光を背にした彼女に心配そうな目を向けられて、取り繕うように僕が名乗ると、彼女──明日香さんは柔らかく微笑んだ。
「どうぞ掛けて」
部屋はひとりでは広すぎるほどの大きさで、ベッドルームとは別にソファセットとテーブルが置かれたリビングが付いている。
テーブルの上には既に飲み物が用意されていた。
「失礼します」
ソファに座りながら常盤を見ると、彼は窓際に置かれた椅子にひとり座っていた。
「愛ちゃんと、やっぱりどことなく似てるわね」
紅茶を注ぎながら、明日香さんは言った。伏せた目尻に深く刻まれた笑い皺が印象的だった。額を出し、長い髪を後ろでひとつに結んでいる。間近で見て、彼女がほとんど化粧をしていないことに気づく。
「愛と…妹と暮らされていたとお聞きしました」
「そう」僕の前にカップを差し出す。
「私の姪が連れてきたんです、8年前に」
そう言って立ち上がると、常盤にカップを渡した。目線だけで交わされる合図のような会話に、このふたりが随分前からの知り合いだと言うことが分かる。
何か胸の中がざわついて、僕は視線を逸らした。目の端に常盤がこちらに顔を向けたのを見た。
「5年間一緒に暮らしたわ」
5年間…
明日香さんは僕の向かいに座った。
「姪も家族と折り合いが悪くてね。家出同然で飛び出して来て、その途中で愛ちゃんと知り合って、私のところへ」
ふと目を上げた明日香さんは、僕の顔を見て困ったように微笑んだ。
「私も家族を捨てて家を出た人間だから、姪は何かと私を頼って来たものでね。いけないことだろうけどふたりを受け入れて…私、B市で農園を経営してたの。そこで3人で暮らしたわ。姪はすぐにまたいなくなったけれど、愛ちゃんは姪がいなくなった後も私の元に残って、3年前まで一緒に暮らしていた」
僕の知らない妹の足跡。
B市とは、確かU市の隣県の市だ。M市とはU市を間に挟んだ位置関係にある。近い距離だ。
「3年前…」
僕の漏らした小さな呟きに明日香さんは頷いた。
「そして、彼女はいなくなってしまった」
僕と目を合わせた。
「突然だったわ」
彼女が持ち上げたカップから立ち上る湯気が、透けるカーテンのように僕と彼女の間に広がった。
漂うカーテンの向こうから彼女は言った。
「茅山という人に会うと言って出て行ったきり、帰っては来なかった。今もまだ私はあの日のことをよく覚えているの。あの子が出て行く後ろ姿を…」
彼女の瞳に暗い影が落ちる。
何かが音を立てて回りだした。欠けていたパーツがぴったりとはまり、滑らかに動き出していく。
ああ、と僕は思った。どこか頭の片隅で納得している自分がいる。そうだ。
それこそが、足りなかったものだと。
「あの子はもう死んでいる。そんなこと、あなたにはとっくに分かっているんでしょう?」
兄妹ですものね──
明日香さんが僕に囁く声は、僕がずっと自分の中で蓋をしてきたものを揺り動かした。優しい声だ、けれど、確信に満ちている。その中に燃えるような憎悪を見た。
僕は目を伏せた。
蓋が外れ溢れ出す。
飛び出していくそれを僕は両手で掴んで掻き集めた。
手の中にある断片が列をなし、正しく並べ替えられる。
すべてがひとつに繋がっていく。
導き出された答えはひとつだ。
そこから誰が──目を背けることが出来るだろう。
「そう、茅山があの子を殺したのよ」
***
毎年桜の咲くころに、父親はU市の同業者から誘われて城址跡に訪れる観光客相手の撮影会に出掛けていた。M市の広報にも知り合いがいたらしく、観光パンフレットに載せる写真の依頼もあった。隣り合う市は観光場所のアピールを互いにし合うことで訪れる観光客を少しでも引き付けようと、相乗効果を狙っていたからだ。
「んなことやったって来るもんは来るし来ねえもんは来ねえだろうよ…」
常盤も一度だけ父親の撮影に同行したことがある。
目も眩むような桜の花びらが舞っていた。
夢中になってシャッターを切った。
そのあとすぐに父親は体調を崩し、入院して1年も経たずに帰らぬ人になった。あっけないほどにあっという間だった。1ヶ月前のことだ。
写真を手に常盤は再びそこを訪れていた。
桜の季節は終わり、鮮やかな緑の葉が海風に揺れている。
まばらな観光客の間を歩いていくと、やがて目の前に写真に写るものと同じものが見えてきた。大きな一枚岩、穿たれた穴の向こうに青黒い海がある。
風の強い日だった。
そこに佇む人がいた。穴の向こうを見つめるその人の長い髪が風に煽られていた。
***
飲んでいたカップをソーサーに戻す音が、部屋の中に響いた。
僕は冷めていく紅茶の表面を見ていた。肩のあたりに常盤の視線を感じたが、気づかないふりをした。
「証拠は何もありません」
「そうね」
鼻から漏らすような笑いを含んで明日香さんは言った。
僕がどうしようもなく馬鹿げていることを言ったとでも言いたげに、うっすらと口元が笑っている。
「でも、彼は死んだわ」
「──」
息が詰まる。
そう仕向けたのは自分だと言ったも同然だ。
飲み干したカップを置くと、彼女は柔らかく微笑んで僕を見た。窓から入る日差しが彼女の形を縁取って光り、神々しくすらある。けれど彼女が決して心から笑っているのではないと、僕は確信した。
この笑顔は嘘だ。
ソファの背に身を預けた明日香さんは、僕が話し出すのを待っていた。
僕は声を絞り出した。
「茅山さんに手紙を出したのは、復讐ですか?」
ひどく喉が渇いていた。
昨夜常盤が答えなかったわけがようやく見えてくる。
こんなことを答えられるわけがない。
「彼に、僕にくれたものと同じ写真を送ったんですね?」
愛の写真を。
「きっと手紙も添えたはずだ。僕にしたように。手紙は偽物だった。そして彼がそれにどういう反応をするのか、あなたは知りたかったんだ」
明日香さんの口の端がゆっくりと上がる。
「ええ、それで殺したのが茅山だと確信した」
「満足ですか?彼が死んで」
僕に向けられた目は、まるでガラス玉のようだった。
「そうね」
僕の斜め後ろで常盤が息を呑んだ。
「やっぱりお兄さんなのね、手紙が偽物だとよく分かったわね」
まるで宿題が良く出来た子供を褒めるように、明日香さんは僕に感心していた。
膝の上に置いた手を握りしめる。自分の中で繋ぎ合わせた切れ端を、どうにか整理しながら話した。
「妹はあんなふうに…僕のことを『兄さん』とは呼びません。あれは多分…あなたか常盤くんが書いたものだ」
妹と僕のことをまるで知らない誰か。あるいは妹のことだけをよく知る誰かがわざとああいった書き方をしたのだ。
常盤が身じろいだ気配がした。立ち上がっている。だが僕は構わずに続けた。
「ましてや茅山さんでもない。手紙なんて、はじめからなかったんでしょう?あんなふうに書けば僕がどうするのか、あなたは見たかったんだ。愛を捜しに来るのかどうか──」
あるいは僕を疑っていたか。
妹を殺したやつだと。常盤からも一度そんなことを聞かれた覚えがある。
『あんたが殺したの?』
そして僕は常盤の元を訪れた。
「そうかもしれないわね。でも、遅かったわ」
静かに彼女は言った。
「何もかも遅すぎた。今さら、いなくなったこれだけの時間が経って、あなたはやっとあの子を見たんだわ」
「僕が、僕たち家族が愛を捜さなかったとでも言うんですか」
「もっと本気で捜すべきだったわ」
「捜してた、それでも見つからなかったんです」
「それは本気じゃなかったからよ」
「おいあんた…!」常盤が声を上げた。
それを制するように彼女が一瞬目を走らせた。
「見つからなければいいとどこかで思ってたんだわ」
「そんなわけないだろ!」
カッと、僕の中で怒りが爆発した。張り上げた声が部屋の空気を震わせていた。握りしめた手のひらに爪がきつく食い込んでいく。
常盤が僕の傍に立っていた。
「あなたに何が分かるんだ」
明日香さんは立ち上がった僕を薄く笑って見上げている。
「
捲し立てた僕を明日香さんはガラス玉のような目で見ていた。
そのガラスの中でふいに揺れるものに気づく。けれどそれはすぐに消えた。
「家族から逃げてきたあの子を家族の元に戻せと言うの?自分から出て来たのよ、それは相当の覚悟があってのことだわ」
そうかもしれない。けれど理屈はそうであっても納得できないものはある。
「まだほんの子供だった」
「あなたにとってはね。でも彼女の世界は既に子供の時代を終えていた」
「どういう意味だ」
「あの子はもう大人と同じだったということよ。16歳だった、16歳だったのよ?彼女は自分で自分の人生を生きようとしていた。雁字搦めにして、赤ん坊のように守ろうとするばかりの過干渉な親から自分の足で逃げ出して一体何が悪いの?」
そんなこと言われなくても分かっている。
明日香さんがどこまで知っているのかは分からない。妹がどれだけ家族のことを話したのかも。
義父は子供が作れない体だった。子供がふたりいる僕の母と結婚したのもそれが理由だった。僕はそのことを、真夜中にふと起きたとき、トイレに行こうと通りかかった両親の部屋から漏れてきたふたりの話し声で知った。
彼は叶わない自分の子供の代わりに惜しみなく僕たちを愛してくれた。
けれど僕は彼を父親として無条件で受け入れるには少し歳を取り過ぎていた。距離を置く僕を扱いあぐねた義父は、やがて僕のことは構わなくなり、いないものと認識するようになり、その持て余す愛情をすべて妹に注ぎ込んでいった。母もまたそれに引きずられるように、過ぎるほどに妹に干渉していくようになった。
息も出来ぬほどの愛情がそれを望まぬ者にとってどれほどの苦しみなのか、僕は、傍で見て知っている。
知っていたのだ。けれど、そこから逃げ出したのは僕の方が先だった。
愛を置き去りにして。
込み上げてきたものが頬を伝って落ちていく。
歪み、滲んでいく視界の中で、僕を見る明日香さんに、震える声で僕は言った。
「それでも…それでもあなたは、通報をするべきだったんだ」
沈黙が落ちる。
誰も何も言わなかった。
長い静寂の後にぽつりと彼女がそうね、と呟いた。
目尻がかすかに濡れているのを気のせいだとは思わなかった。
出発の時間が迫っていた。
明日香さんは目尻を拭い、鞄の中から数冊のノートを取り出して僕の前に置いた。
「愛ちゃんがうちに来てからずっと付けていた日記よ。あなたに返しておくわ。これを読めば、なぜ私が茅山があの子を殺したと思ったのか、きっと分かる」
鞄を手に立ち上がる彼女に、僕は最後に聞いた。
「どうして常盤くんに手紙を出すように頼んだんですか?」
ずっとそれが知りたかった。
運命よ、と彼女は言った。
「あなたに送った愛ちゃんの写真のあの場所でね、常盤くんに会ったのよ。茅山はあそこにあの子を呼び出して、そしていなくなった。だから私は何度も通って…彼と知り合えた後あの写真を撮ったのが常盤くんのお父様だったと知って、これは運命だと思ったわ。愛が、私たちを引き合わせてくれたんだとね」
「…U市の城址跡ですね」
旅館の仲居から聞いたことを思い出す。常盤に会った次の日に、僕は偶然にも写真に写る場所を知ることが出来た。
ほんの何週間か前のことなのに、随分と遠い昔に感じる。
「あら、知っていたの?」
「ええ…偶然ですけど、知ることが出来ました」
「行ってみた?」
僕は首を振った。
「一度行ってみるといいわよ。春には桜が綺麗だわ」
明日香さんが僕の髪に触れる。
「私にとってあの子だけがすべてだった。すべてをあげてもいいと思えたのよ」
愛おしそうに目を細め、愛の面影を僕の中に探している。
「私を告発してもいいわよ」
「何の罪で?」
「何の罪でも」
僕はゆっくりとかぶりを振った。
これ以上何も、望んだりしない。
「愛ちゃんはね、いつもあなたのことを自慢してた。あなたのことが大好きだった。大好きなお兄ちゃんの、失くした写真のことを私にずっと見せたがっていた」
「…失くした写真?」
「あの子が自分で撮った写真よ。あなたが買ってくれたパスケースに入れていたんですって」
彼女の指が僕の目から落ちた涙を掬った。
「発つ前にあなたに会えてよかった」
ぎゅっと僕の手を明日香さんは握った。
何かを僕の手に握らせる。
「あなたはもっと欲しがってもいいのよ?」
誰かと同じ台詞だ。どうして皆そんなことを言うのだろう。
彼女の手はとても暖かかった。
さようならも言わず、ただ微笑んで、彼女はドアを開けて出て行った。
彼女が握った手を開く。あったのは部屋のカードキーだった。
ドアが閉まる。
「──」
そっと引き寄せられる。背中から息も出来ないほどに強く常盤が僕を抱き締めてきた。
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