12


 玄関を開け入るように促すと、常盤は僕の後をついて来た。リビングまでの廊下をゆっくりと歩く足音。背中に感じる彼の気配に、こめかみが引き攣れる気がした。

「適当に座ってていいよ」

 ダイニングテーブルに買い物袋を置いて、コンロにケトルを掛ける。

「コーヒーでいいか?」

 振り向くと、リビングで所在なげに視線を動かしていた常盤が、僕を見て頷いた。一瞬目が合ったが、僕はすぐに逸らした。

 買って来たものを冷蔵庫の中に入れていく。

「…ここ、どうやって知ったんだ?」

 常盤に住所を教えた覚えは僕にはない。彼が知っているのは、以前住んでいた独身寮の住所のはずだ。あの手紙もあそこから森野さんによって転送されて来たものだ。

 背中を向けたまま問うと、軋むような音がして彼がソファに腰を下ろしたのが分かった。

「寮の方に行った」身じろぐ気配、初めてあったときと同じモッズコートの衣擦れの音。「管理人のおばさんが…ここの住所を教えてくれたんだ」

「そうか」

 先日訪ねた森野さんの顔がちらついた。彼女ならきっとそうするだろう。

 沸いた湯をフィルターに入れたコーヒーの上に注ぐ。暖房をつけたばかりのまだ暖まりきれていない部屋に、コーヒーの匂いが漂った。

「どうぞ」

 ソファの前のテーブルに彼の分を置いた。置きながら、無意識に彼と距離を取っている自分に気づく。もの言いたげな常盤の視線を感じながらキッチンに引き返し、間仕切りのカウンターに寄りかかる。自分の分を立ったまま飲んだ。

 僕は常盤が話し出すのを待った。けれど、話があると言ったのは彼の方なのに、彼は視線を落としたまま口を開かない。

 常盤はコーヒーカップを見つめていた。

 ただじっと、そうしていれば、そこに何かが浮かび上がるとでも?

 僕の方が、先に沈黙に耐え切れなくなった。

「それで?」

 僕は言った。

「わざわざこんなところまで来て、何の話かな」

 常盤の折り曲げた長い脚の上で組んだ両手の指が、ぴくと動いた。

「…会ってもらいたい人がいる」

 少し掠れた声で常盤は言った。

 思ってもいなかった言葉に僕は驚いた。

「僕に?…誰?」

 その質問には答えずに、常盤はようやくカップに手を伸ばした。

 僕もコーヒーを飲んだ。もう冷めかけている。ぬるく苦い液体が空っぽの胃に落ちていく。帰り道に感じていた空腹は今ではもうすっかりどこかに消えてしまっていた。

 ずっしりと重たい石を喉の奥に押し込まれている気がする。

 息苦しい。

 それでも言わずにはいられなかった。

「それくらいのこと、電話で言えば済んだんじゃないか?」

 絞り出した声は自分でも驚くほど冷たかった。テーブルの上にカップを戻した常盤が口の中のものを飲み下す。ごくりと鳴る音、喉仏が動く。骨っぽく筋の浮く男らしい首筋。吸い寄せられるように視線が向くのを、目を閉じてやり過ごし、顔を背けた。

 今はそんな場合じゃない。

「電話じゃ無理だ」

「頼むだけなら出来るだろ」

 常盤がこちらを見た。

 背けた頬のあたりに視線を感じる。

「その人のところに俺と一緒に行って欲しいんだ」

「だから、その人って誰なんだ」

 上ずった声で僕は言った。

 会ってほしいと言うくせに『その人』の話を常盤はしない。

 核心から少しずらしたように言う話し方に段々と僕は苛ついてきた。どこか頼むことさえ躊躇ためらう態度に、落ち着かなくなる。

 一体何なんだ。

「言えないなら話にならないよ」

 背を向けてキッチンに行き、シンクの中にカップを置いた。がたんと思いのほか大きな音がした。

 ギッ、と何かが音を立てた。

「直さん」

 はっと振り向くと、真後ろに常盤が立っていた。

 いつの間に。

 その距離の近さに息を呑む。

 頭一つ分高いところからじっと見下ろされ、まともに合ってしまった目を逸らせない。

 少しでも離れようと後退るが、腰にシンクの縁が強く当たった。常盤とシンクに挟まれ完全に身動きが出来なくなっていた。

「…なに」

「明日、俺と一緒に来て欲しい」

「明日?」

 随分と急な話だ。

「明日って、それこそ──」

「時間がないんだ。無理なことを言ってるのは分かってる」

 時間がない?

 よく分からない話に、僕は戸惑った。じっと、探るように常盤を見上げる。もう一度聞いた。

「会ってほしい人って誰なんだ?」

 常盤が目が揺れる。

「言わずに僕がついていくとでも思うのか?」

「それでも来てほしいんだ」

 今度は僕の目が揺れた。

「…嫌だ。ちゃんと、理由を言えよ」

 常盤は無表情に僕を見下ろしていたが、深く息を吐いた後、その顔を苦し気に歪めた。

「あんたの妹を知ってる人だ」

「え?」

 僕は目を見開いた。

「その人は、ずっと久我愛と暮らしてた」

 妹?

 妹を知っている人?妹と、暮らしていた?

 は、と呼吸が浅くなる。

「妹って、なんで…きみは関係ないだろ…」

「あるんだ」

 驚きで喘ぐように言うと、常盤は僕の言葉を遮った。

「直さん、俺は最初から、その人に頼まれてあんた達に手紙を出した。俺に会いに来てくれたあのとき、俺は直さんにちゃんと言うつもりだったけど、俺は、…」

 常盤が僕の両腕を掴んだ。

 まるで僕がここから逃げ出すとでも思っているかのように、その力は強かった。上着の上からでも彼の熱が伝わってくる。彼の手は熱かった。

 だが、その熱さに動揺しながらも、僕は、彼の言った言葉を聞き逃せない。

 。確かに常盤はそう言った。『その人』のことなどよりもずっとそのことが──僕の胸深くに突き刺さる。

 僕は聞いた。

「茅山さんに手紙を出したのは、やっぱりきみなんだな?」

 常盤は答えない。

「頼まれたって何でそんなことしたんだ」

 堪らない気持ちがふつふつと湧き上がる。

 僕は彼のコートを両手で掴んだ。

「茅山さんは死んだ」

「ああ、知ってる」

 。知っているだって?

「きみは…自分が何をしたか分かってるのか?きみの手紙が原因だったかも知れないんだ」

 何も言わない。

 答えさせたくて僕は彼を揺さぶった。

「なあ、どうなんだよ!彼は死んだんだぞ⁉」

 声を上げて叫んだ。

 がくがくと揺さぶられ、されるがままになりながらも常盤はそれにも答えず、固く唇を引き結んで僕を見下ろしている。

 奥歯を噛み締めているのか、顎がこわばり、目尻がきつく上がっていた。僕も彼を見つめる。わずかに揺れた瞳が陰りを落としている。そのときになってはじめて、僕は彼が以前よりも少し窶れていることに気づいた。頬がこけ、顎が鋭く尖り、元々の精悍さに暗く色を添えている。

「直さん」

 ぞくりと背筋が震えた。

 思えばそこかしこに常盤の関わりを示す断片は散らばっていた。茅山の妻が言っていた手紙のこと、最初に送られてきた妹の手紙の不自然さ、そして僕は彼のことを名前以外ほとんど知らないということに、今さらながら気づいてしまった。

 常盤高史という名前だって偽名かもしれないのだ。

 その不安が顔に出ていたのか、常盤がぐっと息を呑んだ。

「今はごめん、これ以上言えないんだ。でも俺は直さんが思ってるようなことは何もない」

 僕の腕を掴む指に力がこもる。

「明日、俺と一緒に来て欲しい。そうしたらちゃんと何もかも全部話すから」

 僕の肩に彼の額がぶつかった。指はやがて、縋るように僕の背を掴んでくる。

「…俺を信じて、直」

 頼むから、と泣きそうな声で常盤は小さく呟いた。



 帰ろうとした常盤を僕は引き留めた。

 泊まるところはあるのかと聞くと、一晩くらいネットカフェでいいと言うのを呆れまじりに言った。

「ネカフェに行くくらいならここにいればいいよ。朝、出るんだろ?」

 一緒に『その人』のところに行くのだ。どこかで待ち合わせるよりはその方が楽だと思っただけだった。

 食欲はなかったがとりあえず何か食べようと、僕はふたり分の簡単な食事を用意した。ぎこちない空気を掻き混ぜるように、なんでもない態度を取った。

「どうぞ、美味しくないかもしれないけど」

「いや…ありがとう、いただきます」

 出来上がったものをダイニングテーブルに並べ、向き合って食べる。不思議な感覚だった。彼がこの部屋にいることにまだ慣れない。

「旨いよ」

「そう?ちょっと味薄くないかな」

「平気だよ」

 同じものを分け合って食べ、当たり障りのない会話をする。先程常盤に感じた不安や苛立ちは少しずつその会話の間に溶けていった。

 信じてと言って縋りついて来た彼を、信じてみたかった。

 分からないことは多い。

 常盤に聞きたいことはたくさんあったが、なるべく考えないようにした。『その人』のことも聞かなかった。

 今はまだ。

 妹のことを知る『その人』、会って、僕に会わせて、それからどうなる?

 無意識に色んなことに蓋をして、僕たちはあの日以来のふたりきりを過ごした。



「おやすみ」

 と言って僕はリビングの明かりを消した。

 ソファに横になって目を閉じる。

 常盤には僕のベッドを使うように言った。ソファでは彼の大きすぎる体はあまりにも窮屈だったからだ。手も足もはみ出してしまう。

「いいって、俺は床で寝るから」

「ウチには予備の毛布はあっても敷布団なんかないんだよ。明日予定があるのに風邪でも引いたらきみだって困るだろ」

 僕の言い分に常盤は最後には折れた。

 目を閉じた暗闇の中でかすかに人の気配を感じる。

 壁の向こうに常盤が眠っている。

 ただそれだけだ。

 何も考えないように、僕も眠りに落ちた。

 

***


 壁一枚隔てた向こうに息遣いを感じる。

 彼の寝室は本がある以外は何もない部屋だった。セミダブルのベッド、古い椅子の上に積み上げられた本、床の上の本、ベッドサイドのテーブル、小さなライト、読みかけの文庫本…

 眠れなくて常盤はベッドを抜け出した。

 水でも飲もうとリビングのドアを開ける。

 忍び足でそっと部屋を横切り、蛇口をひねって水を飲んだ。

 戻ろうと振り返るとソファの上の毛布がかすかに動いた。

 カーテンの隙間から差し込む月明かりが、細くその上に線を描いている。丸く柔らかな膨らみ。白くほっそりとした足先が毛布の端から覗いている。

 近づくと直は眠っていた。

 常盤は傍らにひざまずき、その寝顔を眺めた。深く繰り返される呼吸に耳を澄ます。

 ずっと会いたかった。

 けれど会えなかった人だ。

 茅山の通夜に向かっていたあの日、道の向こうに見た彼の、驚いた顔が忘れられない。電話で冷たくあしらったときの彼の声を思い出すだけで苦しくなった。

 だから彼から再び掛かって来た先日の夜は、もう話してしまおうと思っていたのに。

 直は突然電話を切った。折り返しても電源を落としてしまわれてはどうしようもなかった。

 もっと早く来ればよかったのだ。こんなにギリギリになるまで時間をかけなくてもよかった。

 言いたいことも言わなければならないことも山のようにある。

 明日、彼は何を思うだろう。

 厭うことなく見てくれるだろうか。

 腕の中におさまる体を抱き締めたい。

「……」

 額にかかる乱れた髪に常盤は手を伸ばした。青い闇の中で黒い髪がさらりと流れる。

 どうか、明日が終わっても俺を見て欲しい。

 直、と名前を呼んで、常盤は眠る彼に祈るように、顔を寄せていった。


***


 誰かが僕の髪を撫でる夢を見た。

 ゆっくりと、長く、往復する指。

 髪の先を摘まんで弄ぶ指先がやがて僕の頬に触れた。

 唇がそのあとを追うように押し当てられるのが、ひどく優しかったのを覚えている。夢なのだと分かっている自分がいて、おかしくて微笑むと、口の端に躊躇ためらうようなキスをされた。

「おはよう」

 目を開けると、常盤が僕を覗き込んでいた。

 朝になっていた。

「メシ出来てるよ」

「え?」

 状況がよく呑み込めずに毛布を抱きしめていると、ふっと常盤が笑った。

「顔洗ってこいよ、一緒に食べよう」

「あ…うん」

 明るい光の中で、再会してから初めて見る常盤の笑顔に、僕はぼんやりと見惚れていた。


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