架空随筆
加藤
電車内の自殺妄想
疲れて電車に乗った。終電だった。席はガラガラで、ぐったりと座る人々は皆一様に目を閉じていた。私もそうしようとした。取れる限りの楽な姿勢を取ろうと僅かな時間の試行錯誤を経て、目を閉じようとした。けれど、目前にいた二人の女性の存在に気がついた時、私は俯き気味にそちらへ目を向けたのだった。
下唇を噛み、耐えるように一点を節目がちに見つめている女性。それにもたれかかる一方の女性は小柄で、子供が無理をして静かに、大人びた様子で泣いているような幼い印象を受ける。二人の空間には、まるで雨が降っているようだった。くたびれた私たちの周りには陰鬱な雲が立ち込めているだけなのに、彼女たちはいつ止むのかわからない雨に濡れて、悲しげに身を寄せ合っている。電車内の蛍光灯がその悲壮感を際立たせる。崩れた化粧は彼女たちをひどく疲れたように見せる。
「どうしたの?」そう聞いて、二人まとめて抱きしめてあげたかった。泣かないで、あなたたちは大丈夫。根拠なしに、そんなことを言いたくなった。けれど、私の腕は人一人を抱きしめる事すら出来ないほど頼りない。腕を広げたときの長さのことを言っているのではない。脆さの問題だ。あの悲しみを受け止められる器はどこまでも頑丈でなければならないのだと思う。
不意に、泣いていない方の女性が、一方の肩を力強く抱いた。グッと力のこもったその腕はひどく細いけれど、逞しかった。泣いていた女性はポケットからレースのハンカチを取り出して、乱暴に涙を拭い、その腕をそっと撫でた。すると、逞しそうな女性の目から一粒の涙が静かに垂れたのだった。一方の女性は取り出したハンカチでそれを優しく受け止めた。
私はこのとき、とんでもない思い上がりをしていたのだと頬を赤らめた。
二人の悲しみを受け止める器は彼女たちの外部には存在し得ないのだ。彼女たちはお互いに、お互いの悲しみを受け止めるため、ただそれだけの器を大事に持っていた。寄り掛かり合って、それでも決して壊れない強い器を。
その事実は、彼女たちを悲壮感に溢れる人間だけに留めなかった。それは美しいのだ。まるで、一枚の絵のように。一対の彫刻のように。生きとし生ける者、それらは全てこの美しさを内に秘めているのだろう。途方もない苦しみの中で、死ぬことではなく、生きることへの渇望。「死にたい」と願うことは絶え間ない苦しみの中から消えてしまいたいという事であり、言葉そのままを意味するのではない。あくまで生きる願望への裏返しではないか。
彼女たちはこれから「死にたい」と、願うかもしれない。夜行する車の中で、涙が乾き切った瞳を悲しげに硬く閉じて、愛を誓ったその後に海に飛び込むかもしれない。練炭を焚いた密室の中で、睡眠薬を一つずつ飲みながら、思い出を語るかもしれない。お互いに突き立てた包丁の暖かな切っ先を感じて、穏やかに目を閉じるのかもしれない。このイフは全てイフでしかなく、単なる取り越し苦労かもしれないけれど、彼女たちの悲壮感は確かに私をここまでの妄想へ駆り立てるのだ。それほどまでに、生き物が生きて、生を渇望しながら、一直線に死へ向かっていく悲しみをたたえていた。
「次は〇〇駅、〇〇駅にとまります」
電車のスピードが緩み、暗い駅に辿り着く。
彼女たちは立ち上がって、もたれ合いながら開いたドアへ歩き出した。その時、小柄な彼女があのレースのハンカチを落とした。私は咄嗟にそれを拾った。汚したくなかったのだ、そのハンカチを。彼女たちの涙以外で。
「どうぞ」
私は小柄な彼女にハンカチを差し出した。
彼女は真っ赤な瞳を真っ直ぐに私の顔に向ける。どこまでも深く、純粋な目だった。根底にただ悲しいという感情をたたえた瞳はこんなにも美しいのかと、私はなぜだか泣きそうになった。
彼女は、形の良い唇を小さく開いた。
「ありがとう」
その声は僅かに震えていた。彼女もう一方の彼女に手を引かれて、駅の向こう側に消えて行った。そして、極めて事務的にドアがしまる。
私は彼女たちの後ろ姿をじっと見つめていた。そして、無意識にこう願っていた。
「彼女たちが、幸せになりますように。どうか」
きっとそれは、耳の奥で彼女の「ありがとう」という言葉が何度も反芻されていたからだと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます