由野さんのBL短編集。

由野 瑠璃絵

瑛が泣かない理由

朝の空の風が気持ちいい。鈍く白色に光っている雲も、今日は青の面積が多いから、少ない。


こんなに天気のいい日なのに、こういう日に限って、朝9時に起きて、朝からつめつめの講義を受ける。そう考えるだけで思わず疲弊する。


「あ……おはようございます。瀬戸さん」

「おはよう、瑛」


同居人の瑛ーー一文字であきらって読むんだ。綺麗な名前だろ?ーーが1足遅く、眠りから覚めたようだ。いつものように歯を磨く準備の体制に入っている。



うちの大学は国公立だが、いかんせん瑛も俺も金がない。


なぜなら、瑛の両親も、俺の父親も死んでるからだ。


瑛は頭がいいからかなりの額の奨学金が出る。だが、それでも金は足りなかったらしい。


同居を持ちかけてきたのは、意外にも瑛の方からだった。


ベランダで煙草を1本出して吸う。真っ青な空を汚していくようで悪いが、俺の心はタバコのニコチンですっと晴れていく。


親父はいつもベランダでタバコを吸ってた。家族の迷惑になっちゃいけないからって、うちの肝っ玉母ちゃんが、室内でタバコを吸うことは許さなかったから。


だけど、母ちゃんさ。母ちゃんは鼻炎持ちで鼻が悪かったから、あんまりわかんなかったかもしれないけど、どっちにしろ料理作る時に換気扇回してたら、外の空気は入ってくるんだよな。


あんな風な汚ねえおっさんに、俺はなってしまったのかなぁと思うと、少し笑いが出た。

こんなにナチュラルに笑えたのは久しぶりのことだった。



その時、ベランダの網戸が開いた。


「どうして笑ってたんです?」

歯を磨き終わった瑛が、室内からコーヒーを俺に渡してくる。

「ありがと。まぁ、いや、ちょっと」

瑛は深くは突っ込んでこなかった。瑛自身もコーヒーを作ってきて、ベランダに一緒に出て、もう一個パイプ椅子出して、俺の隣に座った。


「笑えるっていいですね。最近の瀬戸さん、死ぬほど笑ってなかったですから」

「まじで?いや、自覚なかったな。それは」

「自覚ないのが一番やばいんじゃないですか?」

「そっか。それはそうかもしれねぇな」


そう言って俺が笑うと、瑛もつられて笑ってくれた。


笑って、俺のコーヒーの黒い面がゆらゆら揺れた。


頑張って空を映しだそうとした真っ黒いコーヒーに、俺は泣いた。


俺は泣いた。ボロ泣きした。


朝だろうが、近所にヒビコうが、男のメンツに関しても考えてられなかった。


泣いてる俺のことを、瑛はただ背中をさするだけで何も言わなかった。


やっと俺が泣き止むと、瑛の手がそっと俺の背中から離れていって。


「いやだ」


俺はそう言って、ただ、瑛のことを抱きしめた。


まるでこうなることを予測していたかのように、お互いのコーヒーカップは地面に置かれていた。


「……珍しいですね。珍しいこともあるもんだ」

「ごめん」

「あなたが謝るのも相当に珍しい」

「……母ちゃん、本当はこうしたかったのかな。ベランダに父ちゃん追い出すんじゃなくって、本当は2人でこうやって。子供の事とか気にせずに。ただただ。コーヒーでも飲んでたかったんじゃないかな?って」


少し離れたパイプ椅子同士から瑛を抱きしめるのは体制がきつい。

その体勢がきついままで、瑛も俺のことを抱きしめ返してきてくれた。


「……明日の朝、何時に家出ます?」

「……9時ぐらいかな」

「もっと早くなくていいんですか」

「どうして?」

「僕に合わせなくていいんですよ。本当は、十分でも1時間でも、ずっと目を閉じて手を合わせたいって、毎回瀬戸さんの背中からビリビリ感じるんですから」

「俺、そんなオーラ出てた?すっげえオーラじゃん。美輪さん並?」

「はは。僕ら美輪さんのオーラは見えないでしょ」

「じゃあ、江原さん並?」

「江原さんのオーラも見えない。それよりいいんですか?もう8時半回りますけど」

「うげ、やべ、嘘じゃん!?それはあかん、やばい。冷静にやばい。俺何もしてないじゃん!」


俺の焦りに焦りまくる姿を、瑛が笑いながら見ていたのは見逃さない。


「あのさ、瑛、言い忘れたら嫌だから、今もう言っちゃうんだけど、」

「なんです?」

「今日の夜は、お前が泣けよ。約束な。お前の父ちゃんの命日ももうすぐだろ。人のこと慰めてる場合か?」

「あなたが泣きついてきたんでしょ?」

「もうそれはいいの。終わったことだから!」

「都合がいいなぁ、」

「ああ、もう、こんなことしてる余裕ないの!カップラ、味どっちがいい?」

「どっちでもいいですよ」

「じゃあ、普通の方持ってくわ。あと携帯と、あれと…………オッケ。じゃあ行ってくる!」

「あんまり急ぎすぎないで。気をつけて」

「おう」


玄関のドアを閉める時、一緒に、瑛の溢れんばかりの涙をこしらえた瞳のことも一緒に忘れてやることにした。

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