scene 7 落ちこぼれとレモンティーと、天才
その時だった。
何かを弾き飛ばす音と何かが床に落ちる音、それと小さな悲鳴が同時に聞こえ、驚いた美優ははっと目を開けた。すると程なくして、弾き飛ばされたと思われるものが美優のつま先に当たる。
それは、見覚えのあったレモンティーのペットボトルだった。
このレモンティーって、確か……。
美優が顔を上げると、いの一番にあの人の姿が見えた。
森永響。
森永響が座ったまま、美優――いや、ペットボトルに向けて手を伸ばしている。
ペットボトルを取ろうとしたら指が当たり転がったのかと思ったけど。
それならなぜ、まるでペットボトルを払ったように手の甲がこちらを向いているのだろう。
少しだけ目線を上げて、美優は小さく息を呑んだ。
森永響は眉間に皺を作り、口を一文字に結んでいる。
今まで美優に見せてきた意地悪で無表情でも、得意げで不敵な表情でもない。
可哀想にと憐れんでいるようにも、不甲斐ないと怒っているようにも見えた。
それは、不意にペットボトルを落とした人間が、する顔ではない。
机の周りのレッスン生が森永響に注目し、高崎マネージャーが「何やってるのよ」と言わんばかりに額に手を当て項垂れた。
この事態を動かしたのは、酒井講師――。
――では、なかった。
「申し訳ありません!」
騒ぎの発端である森永響を咎めようと口を開いた酒井講師の尖り声のさらに上を行く、森永響による大音声の謝罪だった。
酒井講師がその声の力に圧倒されて息を呑む。レッスン生たちも美優も、高崎マネージャーさえも目を丸くして森永響を正視していた。
森永響は下げていた頭を上げ、続ける。
「私の不注意で彼女の発表を止めてしまいました」
森永響はそう告げると、立ち上がって左右それぞれ向き謝罪の意を込めて頭を下げ、いまだ呆気にとられている酒井講師に向き直ると、再度深々と頭を下げる。
「酒井先生。大変申し訳ありませんが、私に免じて再度彼女にチャンスを与えてはいただけませんか? お願いいたします」
そう乞われた酒井講師はまだ呆気に取られていた。森永響に対しての怒りはどこかに飛んで行ってしまったようだ。だが、レッスン見学の声優が自分のミスでレッスン生の発表を止めた。これが現場での出来事ならば、取返しもつかないことになっていただろう。
酒井講師はブルブルと頭を振ってやっと正気を取り戻すと、今度は腕を組んで難しい顔をして見せる。この事態に対して、何が最善なのかを思案しているようだった。
この状況で美優にチャンスを与えるか否か、どうした方がフェアなのだろうと考えたのだろう。考えに考えて、いまだ頭を下げ続けている森永響を見、参ったといわんばかりに頭を掻いた。
「――頭を上げてください。わかりました。『特別』に、ですよ」
とやっと頭を上げた森永響にため息混じりに告げ、今度はレッスン生に向かい、
「目は口程に物を言うもんだ。人の発表を心静かに聞くのもレッスンのうちだぞ」
と彼らに釘を刺す。
さすがは舞台俳優。美優のあの一言が場の空気感を一瞬で変えたことは察知済みであった。
酒井講師は、今度は美優に向き直ると、
「藍沢、本来ならやり直しはない! これくらいで止まるんじゃない!」
と檄を飛ばした。
「あ、はい。すみません、ありがとうございます」
と頭を下げて返事をした美優だったが。
脳裏に焼き付くのは、森永響の真剣な、少し怖い顔。
何だったんだろう、あの顔は……。
見間違えた?
でも……。
美優がふと足元を見れば、レモンティーのペットボトルがキラキラと蛍光灯の光を反射している。よく見たらボトルの底の方が凹んでいた。
森永響は不意に指が当たったって言ってたけど、不意に手が当たってできた凹みにしては、不自然なくらいに歪んでいる。
まるで、払い飛ばしたような凹み方だ。
そう思いながらしゃがんでペットボトルに手を伸ばすと、
「藍沢さん大丈夫ですよ。そのままで」
と、森永響の穏やかな声が聞こえてきた。
顔をあげると、森永響は椅子から立ち上がりながら手のひらを美優に向け、自分で拾いに行くと意思表示をし、こちらへと歩を進める。
美優は伸ばした手を引っ込まることも忘れ、しゃがんだままきょとんととていたが、リテイクのチャンスを与えてくれたのも、紛れもなくこの人だ。
美優は森永響が自分の前に来たらお礼を告げなければと構えていた。
しかし森永響は、美優の目前にたどり着くなり、しゃがみ込んでペットボトルを拾い上げ際、ふと笑顔を消した。
「……空気に吞まれるなんて、本科生としては甘すぎますよ」
それは誰にも聞かれないほどの囁き声。
所属声優からの厳しいダメ出しだ。
普段だったら、相当落ち込んでしまったに違いない。
だけど美優は微かに眉根を寄せてしまい、お礼の言葉もどこかへ吹っ飛んでしまった。
美優の挑戦的な表情を見た森永響は、一瞬だけ表情を険しくした。だがすぐに余裕ありげに口角を上げる。
「お手並み拝見しますよ、基礎科ちゃん」
挑発的に囁いて、スッと
森永響がレモンティのペットボトルを会議机の天板に置きパイプ椅子に掛けたのを見届けて、美優はそっと立ち上がる。
「藍沢、できるか?」
「はい、お願いします」
酒井講師の呼び声に、美優は声を返した。
ここで与えられたリテイクのチャンスを放棄することは、端的に言えば自ら夢への道を断つということ。
それだけは絶対にしたくない。
さっきの一件で分かった。
ここはアウェイ。
あたしはこの中で一番経験も浅く、一番下手だ。
さっきの森永響の言葉に腹が立ったが、言われた言葉は確かにその通りだ。
まだまだ技術面やメンタル面は甘いし、期待されてるって聞いて天狗になってた。
こんなところで折れてたら、『しろねこさん』に会うことはできない!
自分にも周りにも、負けない。
森永響くの挑発にも負けない。
こんなところで挫けるもんか。
一番下なら、あとは這い上がるだけ。
美優は目の前の森永響、いや、彼の頭上で時を刻む時計を見据えた。
そして思い出すのは『あの人』のセリフ。
――生まれてきた意味を、ここにいる意味を、見つけるんだ――。
美優の頬がふわりと上がる。
心に『あの人』を思い起こせば、笑顔になれる。
酒井講師はレッスン室がいつもの空気に戻ったことを見届けて、
「リテイク、用意――!」
今一度、拍子を打った。
さっきまであれだけ緊張していたのに、今は嘘のように平常心だ。
なんでだろう。
そう思う間もなく、美優は間髪入れずに息を吸い、口が動くまま、声が乗るまましゃべり始める。
「藍沢美優、15歳高校1年、千葉県出身在住、昨年度はジュニアコースでした」
二度目のジュニアコースという言葉だったが、酒井教諭の一喝が効いているのかレッスン室内はざわつかない。
万が一ざわつかれても、今度は止まらない。
美優は、先ほどは言えなかった言葉の続きを紡ぎ出す。
「あたしは一度、中学1年の時、人生で盛大に転んだことがあります。事情は端折りますけど、人生の底でした――」
――そんなあたしを救ってくれたのが、『あの人』いや、『しろねこさん』。たまたま見たアニメに出ていた一回だけのゲストキャラだ。
あたしは運が良かった。
彼と出逢えた。
彼がいたから、夢を見ることや、夢に向かって進むことを知ることができた。
何度もくじけそうになったけど這い上がることができた――。
生まれてきた意味や、ここにいる意味を探せる。
「あたしは、『しろねこさん』の声優さんと同じ立場、声優として、彼に直接お礼がしたい。そしてあたしも、誰かの心の支えになれる声優になれたらこれ以上の幸せはありません。将来は、誰かの心に寄り添えるキーパーソンを演じたいです。よろしくお願いします」
スピーチを終えた達成感と安堵感で胸がいっぱいになりながらお辞儀をし、頭を上げた美優と最初に目が合ったのは。
森永響だった。
森永響は、まるで何か珍しいものを見つけた時のように目を丸くして驚いている。ただでさえ大きな彼の目は、余計にキラキラ輝いていた。
が森永響は美優と目が合うなり、はっと我に返ってメモを取り出す。彼の隣に座る高崎マネージャーも同様にメモを取っていて、その様子に、やはりこの自己PRレッスンではただの授業ではないのだなと感じる。
一方、ホワイトボード前で仁王立ちの酒井講師は、ひとつ大きな息をついたのち、つぶやいた。
「やりゃぁできんじゃねぇか……」
お褒めのお言葉かと思いきや、酒井講師はさらに眉間の皺を濃くした。
「集中してないから、場の空気に飲まれるんだ。これが舞台だったら、取り返しつかないぞ!」
「す、すみません」
怒号に思わず頭が下がった。
確かにそうだ。
これがオーディションだったら、『もう一回やらせてください』だなんてフェアじゃないし、舞台だったら会場の空気を一瞬にして乱してしまう。
スタジオだったら、
美優の中の達成と安堵感は一気に鳴りを顰め、今度は無力感と悔しさがこみあげて来る。そして森永響のレモンティーがキラキラと蛍光灯の光を反射させている床まで目線を下した。
「スピーチ内容はまぁよかったし、
「はい、ありがとうございました!」
ダメ出しに礼をして、美優は逃げるように自分が座っていた場所に戻る。最後、ちょっと褒めてもらったけど、それでもリテイク一回の帳消しにはならない。
一方、美優と入れ替わったさよりさんは、しっかりと返事をして堂々とレッスン室内のセンターに立った。
「北原さよりです」
大トリを任されたさよりさんが意気揚々と名前を告げると、酒井講師の打つ手がレッスン室の静寂を破る。
「……用意、アクション!」
「北原さより、16歳高校二年生、東京都出身在住、一月に受験した入所試験で本科に配属されました」
その言葉にレッスン室が凍りつく。
――入所試験で本科所属。
それがどれだけの快挙かは、この教室にいる全員が知っている。
東京ボイスアクターズスクールの基礎科へは、入所試験で明らかなミスをしない限りは誰でも入ることができる。しかし本科入所は、別の養成機関でレッスンを積んでもなお難しいとされている。
それは元ジュニアコースの美優でさえ知りうる事実だ。
だがレッスン室内は、美優の発表時より騒ぎにはならなかった。『人の発表は心静かに聞け』という酒井講師の喝がまだ効いているようだ。
だが皆、心中穏やかではないだろう。
目の前の少女は、おそらく自分たちが入所試験の際に選択しなかった……選択したくても自信がなくて選ばなかった選択肢を選んだ。その結果、見事その座を射止めたのだから。
皆の注目を一身に浴びてさよりさんは、レッスン室内の反応を静かに受け止めてにっこりと微笑んで、
「この件に関しては私が一番びっくりしています」
と、アドリブ力で切り返した。
これには酒井講師が目を見張り、メモを取っていた高崎マネージャーの顔が上がる。森永響もまた、ペンの頭を唇に当てて興味深げにさよりさんの言葉を聞いていた。
「私の強みはこの通り、物怖じしない強さだと自負しております。私は――」
理路整然とし自信に満ちた明朗な発表は、聞きやすく耳障りの言い声にすんなりと乗る。
「――将来は、与えられた役は何でもこなし、人気だけでなく実力も兼ね備えた表現者になります。よろしくお願いいたします」
明朗で非の打ち所がない自己PRは酒井講師の評価も高く、大トリに相応しい出来栄えであった。
これがもし本当のオーディションなら、主役を射止めるのは間違いなく彼女であろう――。
藍沢美優と北原さより。
片や、養成所発足以来初のジュニアコースから飛び級。
片や、入所試験本科合格。
イレギュラーがふたり。
違ったのは、一つ。
心の強さ。
格が違う。
美優の心に重くのしかかる現実は、ジュニアコース初の基礎科飛び級という燦然とした肩書をも打ち崩す。
さよりさんがヒロインなら、自分は引き立て役。いや、モブにもなれない。役なんか絶対にもらえない。
一番下なら這い上がるだけなのに、頂上は果てしなく遠いことを思い知らされて、美優は下唇をかみしめる。
あたしは事務所期待のレッスン生。
絶対に声優になるんだから、こんなところで挫けてなんかいられない。
だけど本当に、期待されてる?
このクラスに進級してよかったの?
胸の奥に蠢く暗く苦い気持ちを味わいながら、美優の心はぐらぐらと揺れた。
さよりさんが隣に戻ってくる前までに、この惨めな気持ちに折り合いを付けなければならない。
それに反して酒井講師からダメ出しを受けるさよりさんの表情と、森永響の前に置かれたレモンティは、キラキラと輝いて見えた。
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