第6話 事故とモンペ

「あっ」


 ふと目に入った空き教室の時計が、次の授業が始まる直前の時刻を指していた。何も考えずに教室から離れてぶらぶらと歩っていたせいで、今から全力で走って戻ったとしても間に合うかは微妙なところだ。それになんとなくここから動く気にならずに、脚が廊下に貼りついたままだった。彼女を自分の遅刻に巻き込むわけにはいかないという理屈はわかってはいるのだが、それでもどうしても足が動かなかった。


「………………」


 どうしよう? まぁ、どうでもいいか。そんな無責任なことを半々ずつ考えていると、


「あら、はるかさんと田中さん? もう授業始まるわよ?」


 ちょうどそこに担任が現れ、私たちに声をかけてきた。


「あ、はい。今戻ります」


「あ、そうそう」


「えっ?」


 あわてて踵を返そうとした私の肩を、担任が摑んだ。そして私と彼女の間に体を滑り込ませて、カートの持ち手を取り上げて一言。


「田中さん、早退することになったから」


「えーっ! どこか具合とか……」


 私は驚き、そして言いかけて口ごもる。なんで早退? そんな早退するようことなんてないじゃん。具合が悪い? だって動かないし、さっきとどこも変わってないのに、早退なんて……。


 いや、動かない子でも具合が悪いとかあるかもしれないし、ここは迂闊なことを言うべきじゃないだろう。


 ごちゃごちゃした頭の中をざっと整理して、私は担任の言葉を待った。


 私が黙り込んでいる間、担任はどこかに電話をかけていた。するとすぐに用務員のおじいさんがやってきて、田中さんのカートを摑むとそのままどこかへ去っていった。


「あっ……」


 つい、去って行く彼女に向かって手が伸びた。お別れの挨拶もできず呆然とする私を見て、担任は思い出したかのように話しだした。


「いえね、田中さんは大丈夫なんだけど、親御さんがね……」


 担任は言いづらそうに、歯切れ悪くそう言うと、窓の外に視線を逃がした。


「親御さんがどうかされたんですか?」


 続きが気になって、ついつい先を促してしまう。言いづらいことで、担任のペースで話を進めたいのはわかっているが、我慢できなかった。


 担任は観念したのか軽くため息をつき、困ったように手を頬に当てながら言った。


「お母様が急に学校に来てね、『娘を返してください!』って。娘さんが急に変わってしまったから、興奮して戸惑っているみたいなのよ。……自分から預けに来たのにねぇ」


 そこから担任は、転校初日の今日の朝に、彼女が交通事故に遭って体がバラバラになって動かなくなってしまったこと、それから彼女の母親が取り乱しながらバラバラの彼女をカートに入れて学校に連れて来たことを話した。話をしている担任は、迷惑そうな渋い顔をしていた。彼女の目には娘が動かなくなったことで変に取り乱したり、急に学校にまで来て娘を連れ出そうとする母親は、いわゆるモンスターペアレントと言われるような非常識な親に映るようだった。


「そんなことくらいで、いったい何を騒いでいるのだろう?」と言っているような目は、私をなんとなく不安な気持ちにさせた。


 そうだ、世間一般では担任のように思うのが普通で、むしろ動かなくなったことで取り乱す彼女の母親や、その心情が理解できてしまう私の方が異端なのだ。


 私はバラバラになり、物のようにカートに乗せられていた彼女の姿を思い浮かべた。その彼女が今日の朝まで、ほんのついさっきまで私と同じように動いて生きていたのかと思うと、とても複雑な気持ちになった。私は彼女が生きて、動いていた時の様子を想像しようとしたが、それは何かいけないことのような気がして、やめた。彼女は彼女だし、彼女は今も動いていないだけでちゃんと生きているのだから、動いていた時の彼女を本物の彼女のように思うのは失礼なことだと思ったからだ。


「動いていても動いていなくても、生きているということに変わりはないのにね。ただ形が違うだけなのよ」


 わかっている、自分でも重々理解できている、この世界の常識的なことをただなぞるように言っただけの、担任の他愛のない言葉。


 でも、わかっているはずなのに、自分でもそう思っているはずなのに、他人からそう言われると素直に頷けない自分がいた。何も言えずに口ごもる私を見て、


「あら、なぁにはるかさん。納得いかなそうな顔しちゃって」


 担任はニヤニヤしながら、私の脇腹を肘でつついてきた。担任は私がうまく、動いていることと生きていることについて折り合いがつけられないのを知っていて、それを面白がっているのだ。彼女いわく、私は「個性的で面白い生徒」らしく、たまにこうやってちょっかいをかけられている。こちらとしては真剣に悩んでいるので面白がられるのは癪だが、変に問題児扱いされないだけましかもしれない。


「べ、別になんでもないです」


 担任の肘を押しのけながら、誤魔化すように言葉を返す。そして、納得いかなそうな顔というのがどういう顔なのかはわからないが、とりあえず真顔を作っておいた。


 担任は私の慌てた様子を見て満足そうに笑うと、少し真面目な顔になって言った。


「田中さんのお母様は、彼女を物のように思っているところがあるみたいね」


「えっ?」


 思いがけない言葉に、私は驚いた。


 彼女の母は娘が動かなくなったことにショックを受けていたようだし、それが子を思う親の自然な反応だと思っている私には、担任の言葉の意味が理解できなかった。


 むしろ娘が動かなくなっても特に気にせず、物のようにカートに乗せて連れて来るという、いわゆるこの世の中の普通の考えの方がよっぽどひどいと思ってしまうのだけれど……。


「彼女のお母様がさっきなんて言ったと思う? 『娘を返してください! あんなに汚れていて恥ずかしいわ! きっといじめられてしまうわ!』ですって」


「それは……」


 娘を思う親心なんじゃ……、と言いかけて言葉に詰まった。そういえば、私の母親もよくそんなことを言っていた。「そんなもの体に悪いから食べちゃ駄目!」とか「そんなもの着るのは恥ずかしい!」とか「そんなことをするのはみっともない!」とかやたらと干渉されたが、正直そこに愛情は感じなかった。親である自分が子供を支配し、コントロールすることに優越感を覚えているようで、気持ち悪かった。まぁ、彼女の母親がそうだとは言い切れないけれど。


「彼女は動かなくても生きている、意志を持った人間よ。恥ずかしいか、汚れているかどうかは、彼女自身が決めることよ。いくら家族でも、他人が勝手に決めて干渉していいものじゃないわ」


 いつも笑顔で飄々としている担任が、強い目をして言った。私は自分のことを言われているような気になって、居心地が悪くなった。自分がどうしたいのか、しっかりとした意志を持ちきれず、いつもふらふらしている私にはその言葉は胸に刺さった。


 でも素直に納得できない自分もいた。


 動かない人間に意志なんてあるの? 動かないのだからつまり脳も動いていないということで、それなら意志なんてものもあるはずがないのではないだろうか?


「意志……」


 その言葉だけが、不意に唇から漏れた。するとその言葉だけで察したのか、担任が私を見透かすような目をして、にっこりと笑った。


「彼女は学校に来たがっていたのよ。誰も彼女の意志を無視することはできないわ」


「でも、それは……」


 彼女が死ぬ前のことじゃな……、頭に浮かんだその言葉を、汚いものを掻き消すようにして頭の中から振り払った。そうじゃない、そういうことじゃない。そういうことを言いたいんじゃない。


 でも、彼女と触れ合った時に感じたこの不思議な気持ちを、上手く言葉にすることができなくて、


「…………」


 私は俯いて黙り込んでしまう。あぁ、やっぱり私はコミュ障だ。しかも動かない子だけじゃなくて、ちゃんとしゃべって動いている人とさえ上手くコミュニケーションが取れないだなんて……。って、えっ?


「うわっ!」


「ほらほら急ぎなさい。もうチャイム鳴っちゃうわよ」


 有無を言わさぬ勢いで、担任が私の腕を摑んで走りだした。教師が廊下を走っていいのだろうかとか、いろいろと思うところはあるけれど、何も言わずにただ駆けていく担任の背中が今はとてもありがたかった。


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