第4話 利き腕

「ほら、もう授業始まるぞ。席に着け」


 始業のチャイムが鳴り、中年の男性教師が教壇に着くとみんなは渋々と自分の席に戻っていった。私も机の中から慌てて教科書とノートを取り出す。教科は数学だった。


 教師がさらさらと、わけのわからない暗号のような方程式を黒板に書いていく。数学が大の苦手な私にとっては、ただのチョークの無駄遣いにしか思えない。ちょっとした環境破壊なのでもうやめてほしい。でも仕方なく、わけのわからないままノートに黒板の暗号を書き写していく。結局後で見直してもよくわからないのだが、真面目に授業を受けているふりをして当てられるのを避けるための一種の護身術だった。


 だが、すぐに飽きた。


 教師が熱心に念仏を唱えているのを聞き流しつつ、私は隣の席の田中さんを見つめる。彼女の席には椅子がなく、その代わりにさっきまで私が押していたスーパーの籠とカートのように見える彼女の棲み家が置いてある。そして机の上には……、何もなかった。


「あっ」


 つい声が漏れてしまったが、ごくかすかなものだったので誰にも気づかれずにすんだ。


 いけない、すっかり忘れていた。私は彼女の机から教科書を取り出そうとするが……、ない。鞄は……、それもない。仕方ない。


 私は机を彼女の席にくっつけて、彼女にも見えるように真ん中に教科書を置いてあげた。


 よし、これでいいんだよね? 答え合わせをするように周りを見渡す。


 教室には死体……、もとい彼女と同じく動かない子達がいた。形態はさまざまで、まるで生きているように椅子に座り、でもどこかマネキンのように、無機質にシャープペンを握っている全身のある子もいれば、ペンを握った片腕だけが机の上にゴロッと転がっている子もいる。片脚だけが椅子に立てかけられている子もいる。このクラスは動く子の方が多いが、それでもだいたい四十人クラスの四分の一くらいは動かない子だった。ただみんな姿形は違うものの、机の上に教科書とノートが乗っていることだけは同じだった。


 あぁ、あとみんな生きているということも……。


 いつからなのだろうか? 人の死生観がガラッと変わってしまったのは。今までは動かなくなったら、心臓や脳が止まってしまったら死となっていたのに、だんだん多様な生き方というものが認められるようになり、たとえもう動かなくなってしまっても「生きている」と感じられるなら、それは生とみなされるようになったのだ。


 じゃあ、どういう場合に動かないのに生きていると感じられるのかというと……、それはなかなか説明が難しい、というか説明できるようなものじゃない。


 それはまさに、「感じる」ものなのだ。自分でもよくわからないけど、親戚のおばあちゃんが病気で入院していて動かなくなってしまったときは、「あぁ、死んでしまったな」と思ったし、偶然車に轢かれて動かなくなってしまった子供を見たときは、「あぁ、まだ生きているな」って思ったし。それははっきりと定義できるものではなく、なんとなく感じるものなのだ。


 そうだ、私にも人が生きているかどうかはわかる。そうだ、そういう感覚は普通で、みんなと一緒なんだ。


 でも、なぜだろう? そういう感覚はわかっても、どこかその感覚に違和感というか、なにかモヤッとしたものを感じるのは……。


 相手が生きているということは感じられても、動かないということにどうしても違和感がある。ふとした瞬間に、自分の感覚を否定するように頭の中に「死体」という言葉が浮かんできたり、どこか相手に対して「物」を見るような冷たい感情を抱いている時があるのだ。


 そしてそのせいか、動かない相手に対して上手く向き合うことができず、なるべく関わり合いを避けてしまっている自分がいて、これからもそうするつもりだった。


 そう、そのはずだったのに……。


 これからどうしようか? まぁ、考えていても答えは出ない。だがもうこうなってしまっては逃げるわけにもいかないし、私なりに、不器用なりに何とか彼女と向き合っていくしかないだろう。今まで逃げていたツケが回ってきたのだと思おう。


 私は彼女の檻の中から腕を一本取り出すと、机の上に置いた。彼女は筆記用具を持っていないようだったので、普段使っていないシャープペンを一本貸して持たせてあげることにした。


 ………………。


 うん、これでいいんだよね? 腕が一本ゴロッと机の上に転がってシャープペンを握っているさまは、なんともシュールなんだけど……。


「あっ」


 そんなことを考えていると、あることに気が付いた。彼女の利き腕は左右どちらなのだろうか? 両利きだったら問題ないがそんな人はめったにいないだろうし、いくら書かない書けないといっても、利き腕じゃない方でペンを握らせているというのはいかにも形だけ相手を尊重しているようで嫌だった。相手は生きている人間なのに、それでは物を相手にしているのと同じになってしまう。


 私は彼女の籠の中から腕をもう一本取り出した。自分の腕と見比べながら左右を確認する。左腕だった。ということは、今机の上に乗っているのは右腕ということになり、左利きの人より右利きの人のほうが圧倒的に多いから、確率的には正しい腕を選んでいる可能性が高くなったということになる。


 でも、だからって左利きの可能性がなくなったわけじゃない。私は彼女の左腕をじっくりと眺め回した。ペンだことか利き腕だと特定できるようなものがあればいいなと思ったのだけど、そんなわかりやすいものはなかったし、体が紫の模様で覆われてしまっていてかすかな痕跡などは探し出せそうもなかった。


 駄目だ、お手上げだ。結局、どっちが利き腕かなんてわからない。それに、


「うっ……」


 紫に染まった腕をじろじろと弄繰り回していると、なんだか気分が悪くなってきた。彼女には失礼かもしれないけれど……。


 あきらめよう。そう思うと私は早かった。彼女の腕を再び檻に幽閉し、彼女の机の上の怠け者の腕を見てちょっとモヤッとした気持ちになったが、その気持ちに蓋をして、「大丈夫、多分合ってる」と自分に言い聞かせながら、ペンを摑んで腕を動かし黒板に向かい合う。


 今は授業に集中しよう。彼女の利き腕のことはあとで担任に聞けばわかるだろうしね。


 といっても、結局それからも授業はほとんど聞いてなかったけど……。


 だって意味わかんないんだもん。

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