第3話 田中さん

「戻りました」


「あら、だいぶ綺麗になったわね。はるかさんありがとう」


 教室に戻ると、担任が爽やかな笑顔で迎えてくれた。私は少し恨めしそうな顔をしつつ担任にたこ糸を渡し、汚れた新聞紙をゴミ箱に捨てると、自分の席に着いた。


「じゃあ、私はこれで。もうそろそろ一時限目が始まるから、みんな自分の席でおとなしく待っているように。転校生が来てはしゃぐのはわかるけど、話すのは休み時間にね」


 担任の姿が廊下に消える。すると担任の釘を刺す言葉などどこ吹く風で、みんながわっと私たちの席の周りに集まってくる。うん、知ってた。


「いやぁ、お疲れ様。大変だったね」


 クラスメイトの間をすり抜けて、アカネがにやにやとからかうように寄ってくる。


「なら手伝ってよ」


「それは嫌」


 私のお願いをばっさり切って、アカネは彼女をまじまじと眺める。そして手を伸ばす。彼女の片腕をひょいと持つと、団子のようなクラスメイトたちの喧騒を離れて、語りかけるように言った。


「だいぶ綺麗になったね」


 アカネの手が彼女の腕を撫でる。なぜか自分が撫でられているような気がして背中がゾクゾクとした。


「これからよろしくね」


 アカネが彼女に微笑みかける。それはとても自然でどこにも違和感のない、和やかなやり取りだった。


 そうだ、これが普通なのだ。動いていても動いていなくても、同じように接することができるのが当たり前なのだ。


 それなのに、なぜ私は上手く接することができないのだろう?


 私が彼女と触れ合うとどこかぎこちないというか、人間同士というより物を扱っているような冷たさが出てしまうのに、なぜかアカネが触れ合うと、たとえ相手が動かなくてもきちんとした人間同士のコミュニケーションに見えるのだ。


 なんか落ち込む……。明るく屈託のないアカネを見ていると、自分のダメさを思い知らされる。


 あ、そうだ。そういえば、私はこの子の名前すら知らないじゃないか。さっき彼女に直接聞いてしまったものの、なんとなく堂々と他人に尋ねるのも気が引けて、


「ね、ねぇ、彼女の名前ってなんていうんだっけ?」


 私がアカネにそっと耳打ちすると、


「うわー、ひどーい。さっき先生が言ってたのにー」


 話を聞いていたらしいシホがいたずらっぽく、後ろからひょいと顔を出してきた。彼女に聞かれちゃうと思いあたふたする私を、アカネが呆れた顔で見つめている。


「さっき言われたばっかりなのになんで忘れるの……」


「う、うるさいな。早く教えてよ」


 アカネの肩を揺すって答えを促していると、背後から答えが返ってきた。


「田中さんだよ」


 振り向くと、そこには柔和な笑みを浮かべたミサキがいた。


「田中さんか……」


 ありきたりな名前だった。でも、そのシンプルな響きは私の心にすっと染み入った。アカネの腕の中、相変わらず色の悪い彼女の腕を撫でる。名前を知っただけなのに、彼女が少し近しい存在に感じられるような気がした。って、ちょっと馴れ馴れしかったかな? 私はすっと手を引っ込める。するとミサキが、入れ代わるように私と彼女の間に入って、


「これからよろしくね、田中さん」


 にっこり笑うと、両手で包むように彼女の手を握った。そして私の目をチラッと見る。


 えっ、私も何か言った方がいいの? でも何て? こんにちは? はじめまして? 気軽にはるかって呼んでね、とか? 頭の中で言葉の渦がぐるぐると回り、いろいろと考えてみたものの、


「わ、私もよろしく……」


 なんとかそれだけ振り絞るように言うと、彼女の手にちょっとだけ触れた。情けない話だが、そんな無難なやり取りが今の私の精一杯だった。触れた手は、さっきよりもちょっとだけ温かく感じた。


 ふと顔を上げると、シホがこちらを見てにやにやと笑っていた。私は慌てて手を引いた。

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