第24話 惨 劇

 文乃の手から鉄箱に代金が滑り落とされ、チャリンと音を立てる。

「はい、これで百杯達成よ」

「じ、時間は?」

「十分余裕を持ってクリアよ」

 道矢、美味、総長三人の視線が合わさる。

「やったー!」

「ふむ、我ながらよくやった」

「見たかウラァ!!」

 そう言うと同時にそれぞれ安堵の溜め息を吐く。

「ちょっと、まだお客さんが並んでるんだから! 鍋が空になるまで売る! わかった?」

 文乃の声に、「お~っ」と気合を絞り出す三人。

「よし、これで最後だ」

 美味が震える手で煮込みをスチロール丼へ入れる。

「やりやしたね、姉貴」

 感慨深げな顔で総長がそれを受け取り、ジャージ姿のおかっぱ女子に手渡した。

「あなたで最後よ。ラッキーだったわね」

 笑みを浮かべた文乃がお代を受け取ろうと手を伸ばす。

 だがおかっぱ女子はそれに気付かないのか、手にした丼をじっと見ている。

「あの……百円なんだけど」

 再び文乃が声を掛けた。

 たがまたも気付かぬ様子のおかっぱ女子は丼に顔を近づけ鼻を鳴らしている。

「あ~あ、お兄ちゃんの屋台邪魔してハンターコースに引き入れる作戦失敗しちゃったか~。ん、どったの?」

 ノブナガ、あかりを連れてこちらに来た巳茅が尋ねる。

「あ、ああ、ちょっとね」

 巳茅に曖昧な返事をした道矢がおかっぱ女子へ目を戻すと、無言で手付かずの丼を総長へ突き返すのが見えた。

「は?」

 想定外の行動に総長が顔を曇らせる。だがその後、おかっぱ女子が更に想定外の行動に出た。

 くるりと手の平が返し、丼を落としたのだ。

べちゃっと音を立てコンクリートの地面に落ちた丼からジワジワと煮込みの汁が広がる。

 それを驚愕の表情で見ていた総長が恐ろしい形相で吼えた。

「テメー! 何て事しやがる!!」

 そこでおかっぱ女子が初めて口を開いた。

「熱い上にゴチャゴチャと臭い人間のエサである。母上の言った通りである。こんなエサを食べたから姉上達はおかしくなったである」

 氷の様な冷たい口調。

「も、もう一度言ってみやがれ!! 俺っちと姉貴、道矢の作った煮込みをエサだと!……ん? 姉上と言いやがった!?」

「気を付けろアホウ! そいつからは微かに私らと同じニオイがする……しかしおかしい、何故人間のニオイがする?」

 おかっぱ女子が人差し指で頬を撫でる。そして、その指先をこちらへ向けた。

「むっ! こいつ人間の脂を全身に塗っている」

「げえ! に、人間の脂? まさかこんのヤロー!」

 おかっぱ女子が両手で雑巾を絞る仕草をした。

「食べずに捨てる人間の脇腹部分をぎゅううっと絞って作ったのである。母上のアイデアである」

 うぷっ、と文乃が口を押える。

「ふう、またまた奴の差し金か。いい加減腹が立ってきたな」

 指を額に当てた美味が溜め息を吐くと、語気を強めてこう言い放った。

「帰れ! それとも私とアホウが相手になってやるか?」

「あの、美味先輩」

「むっ、鳴瀬道矢、下がっているのだ。こいつはちょっと危険だ、私が……はっ!?」

 美味は息を飲むと同時に『まずい!』と思った。何故なら道矢の様子が一変していたからだ。

 半開きな目は眠たげ、瞳の色は黒く澱んでいる。

 そう、彼は文乃相手にブチ切れた時と同じ状態になっていたのである。

 パンッ!

 神社でする様道矢が手を叩く。

「あのですね、そこのおかっぱさん。えーっと、こちらの煮込み落としましたよね? それ、手が滑ったからですよね? ですよねー?」

 危険な凄味を漂わせるフラフラした足取りで一歩二歩とおかっぱ女子へ歩み始めた。

「な、鳴瀬道矢! よせ!」

 怯えた様な声を出す美味を一瞥したおかっぱ女子が小さく鼻で笑い、

「ボクが手を滑らす様なヘマをするか、汚らわしいエサだから捨てたのである」

 逆さまになった丼を踏み潰した。

 その瞬間、夏夜の線香花火が燃え尽きる様、道矢の目から僅かな光がすうっと消えた。

「お前……」

 滑らかな動きで持ち上がった指先がおかっぱ女子へ向けられる。

「甘やかされてきただろ?」

「ふは?、何を言ってるのかこの食糧が……」

「お前何十っている姉妹の中で生れは下の方だろ?」

「ふは?」

「で、母ちゃんから甘やかされてきた。何やっても怒られずにな。キツく言われたとしてもせいぜい『こらこら、いけませんよー』ってとこだろ?」

「ふ……は」

「そんな甘々環境じゃ何でも自分の思い通りになるって思いこんじゃうよなあー? でー、当然母ちゃんが自身の跡継ぎに指名した美味先輩が面白く無い訳だ。何で何でボクちんじゃないであるー? 生まれるのがちょっと遅れただけでボクちんの方が絶対凄いのであるー! って感じ?」

「は……ふ」

「でもお前はわかってるんだよ。何から何まで母ちゃんが選んだ姉の方が優れてるって事をよ。わかってて知らない振りしてんだよな。な? なー!?」

「ふ、ふははっ、訳のわからない独り言をグダグダとである! 食糧ごときが……」

「はい、図星ー。鼻に手をやる、目を左にちらっと逸らす、それ嘘ついてる典型的な動作ー」

「このっ! その口利けない様に首を喰い千切ってやるであるー!!」

 野獣の形相で目を大きく開いたおかっぱ女子が、飛び掛かろうと前かがみの姿勢になる。

 それにもまったく動じず道矢は声高に続けた。

「お前は一生母ちゃんに選ばれる事は無いんだよ! なんせ何十いる姉妹から選ばれたのは美味先輩だからなー! お前が何故甘やかされてきたかわかるか? みそっカスだからだよー! 高い順位の後継者程叱って育てるんだぜ? 現実味ある後継者だからな、叱るのってスゲー労力要るんだぜ? やっとわかったか、お前はどうでもいいからそんな扱いされてたんだよー!」

 突如おかっぱ女子が激しい頭痛を起こしたかの様その場へうずくまる。

「ふはー! 違う! 違うである! そんな訳無い……ボクは母上に愛されて、必要とされているであるー!! ふははーん!!」

 ついに大泣きするおかっぱ女子。

 それにもまったく動じず声高に道矢は続けた。

「いくら否定しても現実は変わらないんだよー! 現実受け入れて成長しろークソガキ、はははは!!」

 うずくまり大泣きしているおかっぱ女子を見下ろし高笑いする道矢の図は、通り過ぎる人々から見たらDVにしか見えないであろう。

 屋台の一同はといえば様々な反応を見せていた。

「道矢ー……!!!!」

 かつての屈辱を思い出したのか文乃がギリギリと爪を噛み出し、

「ああ~、完全ブチ切れのドSお兄ちゃん久々に見ちゃったよ~。堪んない~、キュンキュンしちゃう~」

 と自分を抱いて腰をモジモジさせる巳茅、それに美味が、

「な、鳴瀬巳茅、まさかお前ブラコン……」

 と驚きと嫉妬の入り混じった顔になり、

「口先だけであんな風にしちまうなんて、俺っちの鍛え上げた肉体は何だってんだ?」

 と総長が自らのシックスパック腹筋を叩く、その側でノブナガが、

「ああ……美味お姉様が複雑な顔をしてますわ、素敵」

 とまったく状況を理解してない様子であった。

 そこへリンゴ飴を手にしたひょろ長い女子と金魚の入った袋をぶら下げたメガネ猫背女子が歩いて来た。

「ほえー、アカウオ、何やってんの」

「地上の暑さで熱中症でも起こしたのかね、キキッ!」

 おかっぱ女子が慌てて涙を拭き立ち上がる。

「シロウオ、モモウオ、どこへ行ってたである! ボクから離れるなと言ったであろう」

 おかっぱ女子が鼻声で赤い目を向ける。

「ほえー、すまないアカウオ。人間界の食べ物が珍しくてつい」

 そう言っておかっぱ女子の右に並んだひょろ長い女子がリンゴ飴をかじる。

「キキキ、そんな薄気味悪いの食べるなんていい趣味してるわね、キキ!」

おかっぱ女子の左に並んだメガネ猫背女子が、金魚の入った袋を持ち上げると大きく開けた口の中へ落とした。

「美味しい? モモウオ」

「生臭いし食った気がしないわね。やっぱ人間の肉が一番よ、シロウオ」

 モモウオと呼ばれたメガネ猫背女子が袋と鱗の塊を口からぺっと吐き出した。

「二人共その位にするである。今ボク達は一番目と二番目の姉上を前にしているのである」

「ほえー、あの二人が姉上か、初めて見た」

「ホントに人間なんかと仲良くしてるよ。いい趣味してるわね、キキキ!」

 それに総長が歯を剥いて睨む。

「俺っちもテメーらのツラなんぞ初めて見たぜ! てー事は生まれて大した時間経って無え連中か。ふん、クソガキ共が!」

「ボク達をクソガキと呼ぶな、バカ姉が。おい、自己紹介といくぞ」

 二人が不気味な笑みを浮かべて頷いた。

 そしておかっぱ女子が勢いよく右腕を突き上げる。

「赤は芳醇血の香り、そして鉄分豊富、アカウオ! ふははは」

 そう叫ぶと親指で首を掻っ切る真似をした。

 次いでアカウオの右にいるひょろ長い女子が野太い声で叫ぶ。

「白はコリコリの骨、カルシウムいっぱい、シロウオ! ほえー」

 言い終えると拳で側頭部をノックした。

 そしてアカウオの左にいるメガネ猫背女子がガラスを引っ掻くような声で叫んだ。

「桃はプリンプリンの筋、コラーゲンたっぷり、モモウオ! キキッ」

 枯れた枝みたいな自分の二の腕を引っ張った。

「「「三人揃ってツチウオレンジャー!」」」

 キメポーズを取った三人が息の合った声で叫びに、その場の空気が数秒固まる。

「……アオウオとミドウオは母上のオーディション選考中である。そこは突っ込むな、である」

「ふ、ふざけやがって! 何の戦隊だよ! つかツチウオレンジャーってお前人間が付けた名前思いっ切りパクってんじゃねーか! そのふざけきった口から血反吐を吐かしてやらー!」

 珍しく突っ込み役に回った総長が三人に向かい腕を振り上げた。

「だからここではダメと言ったろうがアホウ!」

「いてえ!」

 スパーン! と透き通る音を立ててハリセンが総長の頭に炸裂。

 それを見たアカウオ、シロウオ、モモウオが「ふははは!」「ほえひゃひゃひゃ!」「キキャー!」と腹を抱えて爆笑した。

 そんな三人には目もくれず、美味がノブナガへ顔を向けた。

「おい、ノブナガ。こいつら私を連れに来たと言ってるが、いいのか?」

 笑い声が止まる。

「ほえー、ノブナガ? 確かアカウオ最終候補だった奴じゃなかったっけ?」

「チビがセンターじゃ五人並んだ時バランス悪いってんで落ちたんだよ、キキキ!」

「ふん、背だけじゃない。ボクのスペックが全てを上回っただけである」

 どこぞのアイドルグループの楽屋裏みたいな会話をする三人の前でノブナガが足を止めた。

「驚きましたわ、あなたがアカウオになってるなんて。私なんかそんな恥ずかしいグループの一員になるオーディションと知って途中で辞退したんですのよ。まあお似合いじゃないんですか、おほほほ」

「悔し紛れの嘘を言いおって、この落伍者」

「そう思うのならそれでいいんじゃないですの。それより、美味お姉様を連れ戻しに来たなんて頭がたかってるんじゃありませんの?」

「でなければこんなに臭くて汚い地上になど来る訳ないである」

「早く帰って母上のお乳でも吸いなさい。美味お姉様は私のものなんですからね。おほほ」

「何を、である!」

「こっちこそ何を、ですわ!」

 両者険悪なムードで睨み合う。

 そこへ美味がノブナガの前に来た。

「おい、ちょっと待て」

「お前、カレーのニオイがぷんぷんするな」

「煮込みの味見を仰せつかったのですわ。中々味がまとまらなくて何度も食べましたのよ。ってあら嫌ね、美味お姉様にバレちゃうなんて恥ずかしいですわ」

「ふむ、成る程合点がいった。ひとつ頼まれてくれるか」

「な、何ですの? お、お姉様が私に頼み事なんて。ぽっ……」

「あのふざけた連中に背中を向けてくれるか」

「え? 背中……ですか? はっ! まさかあの者達に見えない様こっそり、その、接吻などする気ですの……そ、そんな私まだ覚悟が……」

「い、いいから早くやってくれないか」

「は、はい。これでよろしいでしょうか?」

「うむ、すまんな、本当はこんな事はやりたく無かったのだが」

 美味が申し訳なさそうに手を握り締める。

 そしてノブナガに腹パンチを決めた。

「ぶふう!」

 くぐもった声と共に、ブオオオ! という屁が放たれる。

 それはまさに合戦を告げる法螺貝の音色。

「ふははは!」「ほえひゃひゃひゃ!」「キキャー!」とまたも爆笑するアカウオ達だったがそれは長く続かなかった。

 両手を鼻に当てた三人の顔色がみるみる青ざめてゆく、そして次々とその場にひっくり返り、のた打ち回り始めた。

「カレーを食べた後の屁は臭い。ただでさえ臭いノブナガの屁だからさぞ壮絶な臭いであろう。何遠慮するな、煮込みを落とした礼だ、心置きなく悶絶してくれ」

 美味が残酷な笑みを浮かべ、その場から後ろ足でそそくさと避難する。

「ちょっと美味先輩、この臭いヤバイですよ。他の人達が逃げ出してますよ!」

 道矢の言う通り、生徒や一般の人々が「プロパンガスが漏れてる!」「いや、毒ガステロだ!」と口々に叫び、蜘蛛の子を散らす様その場から離れてゆく。

「安心しろ鳴瀬道矢、次の手は考えてある。おいアホウ!」

「何すか、姉貴。こっちまで屁が来てますぜ」

「私らの息でその屁を上に吹き飛ばすぞ」

「なるへそ、合点!」

 美味と総長が上を向いて大きく息を吸い込み始める。その甲高い吸気音はジェット機を思わせた。

 息を溜め、頬を膨らませた二人が前屈みになり、息を放出する。

 それは大型台風の瞬間最大風速並みの威力で、ノブナガの屁は勿論、転げまわる三人組までも上空へ吹き飛ばしてしまった。

「ふう、屋台百食の課題もクリアしたし、小うるさい妹共も消えたしで気分爽快だな」

「へへへ、単コロでマッポ撒いたみてーに気分いいっすね」

 美味と総長、二人揃って両腕を上げながら爽やかな笑みを浮かべる。

 そこへ例の三人組が錐揉み状態で落下、そのまま巳茅の屋台に直撃した。

「おのれ……よくもこのボクを……」

「ほ、ほえー……」

「な、何て屁だい。悪趣味過ぎね、キキッ……」

 バラバラになった屋台の上、目を真っ赤にし涙と鼻水まみれで這いつくばる三人を道矢はやれやれといった笑みで見ていた。

 そう、「憶えてろ!」と捨て台詞を残して地面に消えて行くのだろうと高をくくっていた。

 美味らと日常を過ごしてる内に、道矢は人型土魚が人を襲い喰らう生物という事をすっかり忘れていたのである。

「ほれほれ、早く帰って母上にこう言え『美味は何が何でも帰る気がないようです、金輪際手を出すのは諦めましょう』とな」

 腕を組んで見下ろす美味を、這いつくばったアカオウが上目で睨む。

「まさか戦う前にこんなダメージを受けるとは思って無かったである、さすが姉上と言っておこう。だが、ボクは母上から策を授かっているである」

「ほう、どんな策だ?」

 真顔になったアカウオが唇を薄く開け、笛の様な音を出し始めた。

 突如学園内に、男女入り混じった悲鳴が同時多発で発生する。

「むっ……!」

 屁の騒動で人がいなくなったこちらへ大勢の人々が押し寄せてくるのが道矢の目に映った。

「な、何だ?」

 押し寄せて来た人々の向こうに噴水の様な血しぶきが所々上がる。

 何事かと目を凝らすと人々の後ろを何かが飛び跳ねているのに気付く、それは遊覧船を追いかけるイルカの群れを思わせた。

 あれは変種土魚の群れだ! 集団で獲物を狩るみたいに、後ろから追い掛けて包囲しようとしているんだ!!

 道矢のみぞおちが急激に沈み込み、掠れた声が喉から絞り出される。

「ここにも変種だー!」

「ハンターコースの連中は何やってんだ!?」

「どこに逃げたらいいのよー!」

 入れば間違いなく袋の鼠となってしまう校舎の前に追い込まれ、恐慌をきたした人々が他者を押し倒し、右往左往に逃げ回る。

 その場にうずくまる者、押し倒され呻き声を上げる者、それに変種土魚が容赦なく襲い掛かった。

「お兄ちゃん、あぶない!」

 道矢を突き飛ばし、巳茅が地面から顔を覗かせた変種にEEガンを打ち込む。

「きゃぁぁん、こっわぁぁ! いやんいやん!!」

 文乃を脇に引き寄せたあかりが首と腰を振りつつEEガンを連射、二匹の変種に命中させる。

 それに目をやっていた美味がアカウオを睨んだ。

「貴様!……何という事を!」

不敵な笑みでアカウオが睨み返す。

 そんなアカウオの右手が素早く動き、飛んできた何かを掴んだ。

 それはちぎれた手首であった。

「一番目の姉上、お前がボクらと一緒に帰るなら下僕共をこの場から退かせるである」

 ブチリという音を立て、手首の指を噛み千切ったアカウオが口をモグモグと動かす、そして肉のかけらが付いた小骨をぺっと吐き出した。

 たまらず道矢と巳茅が目を逸らす。

 ぐっと両手を握り、恐ろしい形相を浮かべる美味、だがそれはすぐに引っ込んだ。

 ここにいる無数の変種土魚はアカウオらの下僕だ。

 下僕は主にしか服従しない性質を持っている。

 つまりこのアカウオらが「止めろ」と命令しない限り人々を喰い続けるだろう。

 自分や総長、ノブナガで下僕を退治する手もあるがその間、どれだけの犠牲が出るか。

 一刻も早くこの惨状を止めるにはこう言うしか無かった。

「わかった、お前らと帰ろう。だから早く下僕共を退かせろ」

「ふははは、本当にこの策が効くなんてビックリである。何で人間なんかの為に……」

「早く退かせろと言っている!!」

 空気を震わせるこの怒号に道矢達は勿論、アカウオすらも心胆寒からしめた。

「わ……わかったである……」

 ガクガクと膝を震わせたアカウオが、先程とは別な音色を口から吐き出す。

 それと同時に、地面の上を跳ね回り人間を襲っていた変種達が一斉に地中へ消えた。

 それでも近くから、遠くから悲鳴は続いていた。

 道矢が呆然とした顔でコンクリートの校庭を見渡す。

 数珠つなぎで転がる血に染まった提灯、血の手形が付いた屋台、いたる所にある血溜まり、半狂乱で走り回る人々。

 二つのすすり泣く声が聞こえてくる。

 目をやると文乃と巳茅が両手を顔にしゃがみ込んでいた。

 それを見た道矢自身も泣き出す寸前になっているのに気付き、慌てて目元を拭う。

「鳴瀬道矢」

 その声に振り向くと、美味が沈んだ目でこちらを見ていた。

「わ、私がここに居るせいでこんなとんでもない事態を招いてしまった。ど、どう償えばいいのか……私には……」

 そう言うと、明日この世が消えるかの様な表情を浮かべて唇を振るわせる。

 道矢は咄嗟に「悪いのはその妹達と美味先輩の母親だ」と返そうとした。

 だが、口が僅かに開いただけで言葉は出なかった。

 何故なら頭の片隅に、美味がここへ来たせいでこうなった、という思いがあったからだ。

「姉上、早く帰るである。また下僕に人間共を喰わせたいであるか」

 美味は言い返さなかった。

 ただうな垂れたままアカウオの前に歩み出るだけだった。

「よし、母上の所へ帰るである」

 アカウオが足元からズブズブと地面に沈み始め、横にいる美味も俯いたままそれに続く。

 呆然とそれを見詰める道矢の頭には彼女との様々な思い出が浮かんでは消えていた。

 初めて美味出会った時の事。

 総長とのトンコツラーメン競争の事。

 巳茅を導かなければならない、と言う自分を切ない目で見る美味の事。

 そして『料理って楽しいな』と満面の笑みを浮かべる美味の顔。

「ちょいアカウオ、確かナルセ何とかいう人間も連れて来る様母上から言われてたんじゃない?」

 モモウオの言葉に腰まで沈んだアカウオの動きが止まる。

「忘れていたである。ボクは先に行くである、お前達あいつらを連れて来いである」

 そう言うと再び沈み始め、そのまま完全に地面へ消えた。

 美味もその後を追う様に両肩が地面に消える。

 そして残った顔も沈みこもうとするその間際、道矢と視線が合った。

 その目は重い悲しみを湛えた色を帯びており、薄っすらと涙が浮かんでいた。

 美味の目が詫びる様閉じると、地中へ没した。

「ほえー、メンド臭いよー」

「だまらっしゃい、リーダーの命令は絶対よキキッ!」

 シロウオ、モモウオが道矢達に体の正面を向けた。

「えーと、あんたとあんたがナルセってんだよね」

 道矢と巳茅を指差す。

「ナルセ……何だったかねー」

「ミがつかなかったけ、ほえー」

「あっ、そうかもね。えーっと、ミ、ミ…ミンチ? 違うか、キキッ!」

「ミートボールだよ、ほえー。いやミートパスタだったかも」

「ミートばっかじゃないかい趣味が悪いわね、キキッ!」

 シロウオのわき腹を肘で小突き、モモウオが短い息を吐いた。

「面倒臭いから二匹共連れて行くかね、キキッ!」

 そう言うなり道矢と巳茅へ物凄い速さで向かって来た。

 その速さは美味や総長と同等で、言葉通り息を飲む間も無く道矢の前に移動して来た。

「キキッ! あたいはこのオスを持ってくからあんたはそっちのメスを……」

 後ろのシロウオに聞こえる様首を曲げたモモウオの横っ面にどこからか飛んできた拳がさく裂した。

 かつて二階の部屋から間近に見た落雷そっくりな轟音に、道矢が目を閉じて後ろによろけた。

「テんメー! 何の真似だ、コラァ!」

 拳をかざした総長が牙を剥いて唸る狼の様な形相で叫ぶ。

 殴打の勢いで横を向いたモモウオの顔がゆっくりと総長へ動いた。

 驚いた事にあの凄まじい衝撃にも関わらず軽く口を切っただけであった。

「二番目の姉、不意打ちするとは趣味が悪いわね、キキッ!」

 ズレた分厚いメガネを直し、ニヤッと笑うモモウオに再び拳を叩き込もうと総長が腕を振り上げる。

「ちょいお待ち、あたいが合図すればまた下僕が人間を襲うよ」

 総長の瞼がピクリと震え、振り上げた拳が止まる。

 その逡巡が一瞬の空白時間を作ってしまった。

「あっ! おに、お兄ちゃん…!!」

 驚きを含んだ悲鳴が上がる。

 それに道矢が振り向くと、シロウオの大きく広げた口に下半身を飲み込まれる巳茅の姿があった。

「巳茅!」

 道矢が助けようと駆け出すも妹の上半身は吸い込まれる様口の中へ飲み込まれた。そしてそのままシロウオは地中に没する。

「キキッ! マヌケ!」

 そちらへ注意が向いた総長を肩で突き飛ばしたモモウオが両手で口を大きく広げ、道矢の背中へ襲い掛かる。

「ヴッ!! 道矢、あぶねー!!」

 地面の上で受け身を取りつつ叫ぶ総長、その声に振り向いた道矢の目にモモウオの口が映る。

 それは小学生の時分テレビでやっていた巨大人喰いザメの映画の一コマ、牙だらけの大口が画面いっぱいになるシーンと驚く程似ていた。

 魅入られた様に道矢の体は動かない。いや、動けなかった。

 乱雑に並んだ牙の奥、白い舌やピンク色の口内がはっきり見えたその時、突如視界が開けた。

 そしてドタッという音で道矢は我に返った。

「いい加減にしなさい!」

 自分の足元に目をやると、仰向けに倒れたモモウオの顔面を踏み着けるノブナガの姿が写った。

「ノ、ノブナガ……ありがとう」

「か、勘違いなさらないでくださしまし。あ、あなたまで連れ去られたら美味お姉さまに顔向け出来ないと思ってこうしたのですわよ」

「キキー! そ、そにょ足をどきな。こにょ屁ったれ姉!」

「あらまっ! 今屁ったれと言いました? 言いましたわね! 許せませんわー!!」

 ノブナガが憤怒の表情でモモウオの顔面を物凄い速さで踏み続ける。

「キキーッ! お止め、屁ったれ姉! あ、メガネ飛んだ! メガネ、メガネー!!」

「いやぁぁん、ノブちゃんすっごぉぉい! 人型土魚捕まえちゃうなんてぇぇン、もう二重丸ぅ!」

 手足をパタパタさせながら近づいたあかりがモモウオの太腿にEEガンを撃ち込んだ。

「キキャッ!?」

 白目を剥き、ゴトリと地面に顔を横たえる。

「ほ・か・くぅ、てへっ! ノブちゃん、そのまんま押さえててねぇン。超超超強りょっくな土魚用睡眠薬持って来るからぁン」

「はい、出来ればお早く願いますわ。この不肖な妹にはなるべく触れたくありませんから」

 そんなやりとりを横目に、ハンカチを口に当てた星乃が青ざめた顔で道矢の背中へ近づく。

「……こんなヒドイ事になっちゃって、ど、どうなっちゃうのかしら?」

「わからないよ……」

 道矢が力無くうな垂れる。

 泣こうが喚こうが無慈悲に人を喰らう土魚。

 その恐ろしさは本やニュース、ネット画像を見て知っているはずだった。

 いや、知っているのは頭の中だけだった。

 今目の前に広がる光景――無造作に転がる肉塊、風に乗って流れてくる吐き気をもよおす血の臭い――これが現実なのだ。

 学園でのほほんと健康に気を使った料理を作っていたこれまでの日常がいかに脆いものか、胸が張り裂けんばかりに思い知らされた道矢はぎゅっと両手を握りしめた。


ボンッ!


目の前の地面からロケットでも発射された様何かが飛び出し、驚いた道矢が尻餅を着く。

「え?……え?」

見上げるとアカウオが埃の弧を伴ない落下しているのが目に入る。

よく見るとジャージはボロボロ、おかっぱ頭はボサボサ、顔はボコボコに腫れ上がっている。

「よっと」

 アカウオが打ち上げられた穴からメイド服をなびかせ美味が現れた。

「美味先輩!?」

「ふっ、鳴瀬道矢、驚かせてしまったな」

「帰ったんじゃ……」

「ふん、私はいい様にされるのが何より許せんと言ってたろう」

 二人から数メートル離れた所にキノコ頭ことアカウオが勢いよく地面に叩きつけられた。

「付いてゆく振りをして後ろから襲い掛かってやったのだ。そして思う存分殴りまくった後、渾身の力で蹴り上げてやった」

 うつ伏せで完全に意識を失っているアカウオを見下ろし美味が嘲り笑う。

「で、でも泣いてたじゃありませんか?」

「む? ああ、あれは、これからこのキノコ頭を後ろからボコボコに出来るのかと思い、込み上げて来た嬉し涙だ」

「はあ?」

 そんな二人の側を、あかりが腰を振りつつアカウオへ向かう。

「いやぁん、美味ちゃんが人型土魚退治してカムバァァック! じゃあこちらもぉ、注射しましょうねぇン」

「ちょっと待て、緋月あかり」

「なあにぃ? 美味ちゃぁん」

 やおら四つん這いになった美味がアカウオの耳に噛みつきそのまま立ち上がった。

「うぎっ!? いでででででででで」

 口から耳を放す、それと同時に今度は指で耳を掴んだ美味がアカウオを宙ぶらりんにした。

「おいキノコ頭、何故母上は鳴瀬という人間を連れて行いと命令したのだ?」

「いでででで! 知るかである! 放せ、み、耳がちぎれるである!」

「ちぎれる? 私の丈夫な歯で噛み切られるの間違いであろう? 言わないと本当に両耳を噛み切るぞ」

「いでで!! わ、わかったである。母上はそのナルセとかいう人間の料理に興味があるのである。だから連れて来い言ったである! いでで、放すであるー!!」

「母上が、料理に……興味がある……?」

 それに驚いた顔になる美味だったが、すぐに指先からぶらさがるアカウオをあかりに差し出した。

「緋月あかり、待たせたな」

「いやぁん、キノコちゃぁぁん!」

 おまたせとばかりに注射器の針がアカウオの臀部へ深々と突き刺さる。

「ふはっ!?」

 電気が走った様全身を震わせたアカウオだったがすぐに意識を失い、全身をだらりとさせてしまった。

「大漁、大漁だわぁン」

 ペロリと上唇を舐めたあかりがアカウオを軽々と持ち上げ肩に担ぐ。

「研究所に連れて行くわねぇン」

 空いている肩にモモウオを担ぐと文乃へウィンクして校舎へ歩き出した。

 それを見送った美味が道矢へ顔を向ける。

「鳴瀬巳茅は母上が出した命令の巻き添えを食って連れて行かれた様だ」

「俺の料理に興味があるって言ってましたね……」

「あの母上がな……何を考えているのかまったくわからないがやる事は決まっている。おいアホウ、ノブナガ」

「なんすか姉貴」

「はい、何でしょう、お姉様」

「よく聞け、これから母上の所に殴り込みをかける」

「ヴッ! マジすか、姉貴」

「妹共を使い、こんな事態を引き起こした母上は断じて許せん。私自身が然るべき報いを下してやる! という訳で付いて来い」

「わかったっすよ、今更あっちに戻る気ねーし、ギッタンギッタンに暴れてサヨナラしてやるっすよ」

「本能寺の変で織田信長と共に果てた蘭丸と同じ気持ち。付いて行きますわ、美味お姉様」

 総長とノブナガに頷いた美味が道矢へと顔を向けた。

「お前は私達が帰ってくるまで歌津文乃の研究所で身を潜めてるのだ。いつ別な妹共が連れ去りに来るかわからないからな」

「……お、俺も行きますよ! 巳茅が捕まったってのに隠れてられないですよ!」

 これに文乃が間髪入れず怒鳴った。

「口だけ勇ましい事言った所であんたに何が出来るのよ! ここは美味達にまかせなさい!」

 それに道矢は怒鳴り返した。

「俺は料理が出来る! 美味先輩のお母さんがそれに興味を持ってるんだ。そしてそれが解決する糸口になる気がするんだ」

 吊り上った目を大きくした文乃が何か言い返そうと口を開いた、だが気が変わったのか呆れ顔になる。

「……はあ、もういいわ。別に私が行く訳じゃないし。勝手にしたら?」

 溜め息を吐き、手を持ち上げ首を振る。

 そして素っ気なくこう続けた。

「あ、ついでといっちゃ何だけど、私が開発した対人型土魚用兵器の試作品をモニターして来てくれない」

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