第40話
相沢佳花は自室のベッドの上でスマホをいじっていた。
メッセのアプリを立ち上げてその画面を上に下にとスクロールし見返している。
相手の登録名は松。アイコンの写真は、いかにも近所で適当に撮りましたと言わんばかりにそっけない松の木だ。
新着情報を問い合わせても表示されるメッセは増えない。過去に遡っても見落としているメッセはない。普段ならこんなやりとりをしたなと楽しい気分になる一方で、なんでこんな浮かれたメッセしてるのと布団をかぶって悶絶したくなりもする。
今日ばかりは違っていた。どこを見ても出てくるのはため息ばかりである。
メッセはちょこちょこ届いていた。そのたびに慌てて画面を見て、目当ての相手ではないと確認してため息をつく。
「結局残念会もしなかっちゃったし、メッセの返信もないかー」
スマホを軽く放り、背中をベッドに倒す。
その拍子に窓の外が見えた。夜空に尾を引く光が走っていた。
たまらずカーテンをひっつかみ窓を隠した。
五年前からずっと世界は終わると言われ続けてきた。暴動が起きたりしたが、佳花はどこか他人事のように考えていた。
佳花の目に見える証拠が何もなかったからだ。たとえば、見知らぬ人に「明日地球が爆発します」と言われて真に受ける人は少数派だろう。別の意味で怖いかもしれないが。
数日前から、夜になると空に流れ星のような光が見えるようになった。
それを見た瞬間に悟った。
ああ、本当に終わりなんだな――と。
大騒ぎになるかと思ったがそうはならなかった。少なくとも佳花の周りは静かなものだった。
みんな佳花と同じだったのだ。一目見た瞬間にあれが世界を終わらせるもので、今さら喚いたところでどうにもならないと理解させられた。
最後くらい楽しもうと浮足立っていた人も、世界が終わるなんて嘘だと言い張っていた人も、みんな等しくしめやかな態度を取り始めた。
せめて安らかに終わりたい。妥協と諦念が街を覆っていた。
世界の終わりを強く意識して、一緒に過ごす誰かを探す人が増えた。
佳花に来るのもそんなメッセばかりだ。
よくあたしに連絡するよな、と思う。メッセを送ってくるのはまともに会話したこともない相手ばかりだ。
美人になったという自負がある。最後は美人と過ごしたいとでも考えているのだろうか。それとも誰でもよくて手当たり次第なのだろうか。
どちらでもよかった。どうせ会わないのだから、どんな理由だろうと佳花には関係なかった。
「放置プレイにもほどがあるぞまっつー」
秀人が咲希にフラれたら残念会をする。
そんな約束はいまだに果たされていない。送ったメッセもなかなか返事が来ない。
「いい加減あいそ尽かすからなー」
などと言いながらスマホの画面をスワイプしてメッセの更新をする。
いい加減、と言い続けてもう何か月経つのだろうか。
残念会の約束をした翌日、秀人は姿を消した。咲希や健治が言うには旅に出たらしい。しばらく時間を置いて届いたメッセにもそう書いてあった。
意味が分からなかった。秀人のことだから一週間もしないうちに咲希に告白すると思った。そして付き合い始めたばかりの彼氏がいる咲希は秀人を振って、残念会をして、あわよくば隣に居座ってやろうと思っていた。
それが、残念会どころか咲希に告白することもなしに旅立った。
告白してフラれて旅に出るならまだ分かる。何もせずに飛び出したのは何なのか。
佳花は旅に出たという話に懐疑的である。旅行はともかく、誰にも挨拶せず何もかもほったらかしていなくなるようなことを、佳花が知る秀人はしない。
地元では手の付けられない狂犬として知られる秀人だが、その実は穏やかな性格だ。一度やると決めたら手段を選ばず決行するので凶暴に見えるのだ。
そのことを知るきっかけとなったのは小学校四年生、夏の終わりの出来事だった。
当時、佳花はまだ容姿に気を遣わず、成績もいまひとつで、あまり運動をしない子どもだった。
隙だらけだったが、佳花は運が良かった。
小学校は二年ごとにクラス替えがあった。入学時のクラスは、当時恐れていた秀人がいる以外は問題なかった。
担任は若く人気のある女性教師だった。担任教師の明るい性格に引かれたのか居心地のよいクラスだった。三年生のクラス替えの際も同じ担任で、引き続き秀人と同じクラスだったこと以外文句のつけようがなかった。
運が尽きたのは四年生に入った頃。担任教師が産休を取った。育休も取得し、しばらく休職するとのことだった。
代わりに担任となった教師が悪かった。厳しく陰湿で、支配的な教師だった。
新しい担任はクラス内で問題が起きそうになれば、底辺の児童を一人生贄にした。『〇〇さんのせいで』『〇〇さんがきちんとしないから』と同級生の前で攻撃し責任を擦り付けた。それが事実かどうかなど関係なかった。担任が言った通りに生贄を責めていれば担任に優遇され、簡単にやり過ごせた。
明るく居心地が良かった教室はたちまち崩れ去った。昨年の過ごしやすさが嘘のように、立場が弱い児童は息をひそめ、強い児童は偉そうに振る舞った。
それが嫌で自分の親に頼んで抗議した児童がいた。しかし担任は職歴が長く、当時のPTAの会長や教頭と懇意だった。その子の両親も簡単にやり込められ、抗議した子は苛烈な攻撃にさらされて不登校になってしまった。
弱い児童は逆らえず、強い児童は逆らう必要がない。
佳花はいつ自分が生贄にされるのかと怯えていた。
運動会に備えた練習が始まった頃だった。
運動が苦手だった佳花はクラスの足を引っ張るようになった。
特にクラス全体で披露するダンスが苦手だった。うまく踊れない自覚があったせいで身を隠すように小さく動き、悪目立ちする。
罪悪感を抱えている、誰の目にも足手まといの冴えない少女。
担任が生贄に選ばないわけがなかった。
『相沢さんがみんなの努力を台無しにしています』
『こんなみっともない踊りを保護者のみなさんの前で見せるわけにはいきません』
『クラス全員で居残り練習です』
『相沢さんひとりがきちんと踊らないせいでみんなに迷惑がかかっています』
『みんなに見てもらってしっかり練習しなさい』
放課後、居残り練習を命じられ目に見えて不機嫌なクラスメイトたち。その非難は佳花に集中していた。
そんな中、みんなの前で一人で踊れという。
体が冷え切ってうまく動けなかった。早くしなさいと言われて慌てて動こうとするが、もともと踊りは上手くない。委縮しきった状態でまともに踊れるはずがなかった。
とても指導とは言えない罵声が担任から響く。クラスメイトたちの非難の視線が刺さる。次第に踊りどころか呼吸すらまともにできなくなっていった。
『先生、すみません』
一人の男子が手を挙げた。
松葉秀人だった。
みんなの注目が彼に集まった。
担任は舌打ちするも、秀人に声をかけた。
『なんですか松葉さん、相沢さんがきちんと踊れるまでみんな帰れませんよ。それとも私がすることに文句でもあるのですか』
担任は警戒している様子だった。
秀人は常日頃から喧嘩騒ぎを起こしていた。それでいて担任が生贄にした相手を攻撃することはなく、自分が孤立させられても平然とし、運動神経は抜群で、勉強も標準的なラインを越えていた。親を使って攻撃しようにも松葉家の両親は嘘交じりの告げ口を信じなかった。トラブルに慣れているのか親子揃って肝が据わっていた。
問題を起こし、生贄には不適切で、担任に従わない。目の上のたんこぶだった。
『違います。下手な踊りをだらだら見ていても時間の無駄なんで、自分で練習してていいですか』
担任はにんまりと笑った。
ストレスのはけ口は佳花がいればいい。自分に従わない秀人がいなくなるなら好都合だった。
何より初めて秀人が生贄の児童を攻撃するような言動を取った。引き止める理由はなかった。
『構いませんよ。好きになさい』
他の児童は踊るより担任の思惑通りヤジを飛ばす方が楽だったので、秀人に追従することはなかった。
佳花はひっそりとパニックを起こしていた。クラスの足手まといになっただけではなく、学校で一番恐ろしい秀人の不興を買ってしまった。
喉の奥がひきつって声も出ない。体に力は入らず、その場に崩れ落ちて泣きそうになった。
泣かずに済んだのは、唐突にクラスメイトたちの視線が届かなくなったからだ。
秀人の背中が目の前にあった。
好きにしろと言われた秀人はさっそく立ち上がり、佳花の前で、佳花に背中を向けてゆっくりと踊り始めていた。
『なにをしているのですか!』
『踊りの練習です』
当然のように激昂した担任に対し秀人はどこまでも淡々としていた。
『こんなところでしていいなんて誰が言いましたか!』
『好きにしろって言ったじゃないですか。それに相沢だってお手本が目の前にあれば練習しやすいでしょ。俺は練習出来て、相沢の手伝いにもなる。一石二鳥です』
担任は奥歯を強くかみしめた。
あくまでも踊りの練習という体裁をとっていた。あからさまな体罰や単なる罵倒を行えば冷静になる子供が現れる。指導の枠を明確に逸脱すれば他の教師に見つかった時に面倒だ。だからあくまでも踊りの練習を口実にした。
秀人は自分が練習し、佳花の練習を手伝うと言った。
無理にやめさせれば秀人は担任に言われた通り好きにするだろう。別クラスの幼馴染たちを呼んで、放課後になれば解禁されるスマホで現場の動画を撮ろうとするかもしれない。
担任が仕方なく黙っていると、秀人は後ろの佳花にぼそりと声をかけた。
『ゆっくりやるから真似してみろ。音楽は聞かなくていい』
言われるままに秀人の動きを真似した。まだ秀人が恐ろしかった時期だ。逆らうなんて考えもせず、秀人の動きを必死に見て同じ動きをした。
秀人は一度も佳花を振り返らなかった。自分に見られたら佳花は怖がって動けなくなると分かっていたからだ。
クラスメイトたちはヤジを飛ばさなくなった。万が一にも秀人の気分を害せば殴られる。うかつなことを口に出来なかった。自分たちを睨むような秀人から顔を背けた。担任はそんな様子を口惜しげに眺めていた。
佳花はいつの間にか誰の視線も刺さらなくなっていることに気付いた。
次第に体が動くようになった。秀人の一挙手一投足を見落とさないよう集中し、体を動かした。
もともと小学生用に簡略化された振り付けだ。委縮せず、きちんとした手本を見ながら必死に練習すれば覚えるのは難しくない。
一時間もしないうちに佳花は他のクラスメイトと同程度に踊れるようになった。
上手いとまでは言えない踊りだったが、佳花より下手なクラスメイトは何人もいる。うかつにやじを飛ばして自分に飛び火することを恐れたクラスメイトは何も言わなかった。
『……相沢さん、よくがんばりましたね。みんなにお礼を言いなさい』
不本意なことが筒抜けの賛辞は耳を通り過ぎた。授業の終礼と同じくらい気のない声でありがとうございましたと言って居残り練習は終了した。
ぞろぞろと連れだって体育館を出るクラスメイトたちを尻目に秀人はさっさと校舎に戻っていた。その背を追いかけて「あのっ」とみっともなく上ずった声で呼びかけた。
『松葉くん、ありがとう』
先ほどとは違う心のこもった言葉に秀人は『おう、お疲れ』とだけ返して足早に去っていった。
この出来事以降、担任は秀人を目の敵にするようになり、佳花の生活は落ち着いた。そして秀人が担任にやり込められることもなかった。
担任の攻撃を受けても平然とし、堂々と担任を非難したからである。非難そのものは長年教師を務めた担任にとって痛手ではなかったが、口答えする児童がいて、それを御せないのでは担任の支配の絶対性が揺らぐ。
それを嫌った担任は秀人のことを無視するようになった。
一方、佳花はちらちら秀人を見るようになった。
ふとそんなことを思い出して身悶える。
そんなベタなきっかけで気になり始めた。容姿に気を遣い始めて、まれに咲希を挟んで会話するようになり、いつの間にか好きになって早七年。自分も大概執念深い。
何度か友人から合コンの誘いとか異性の斡旋、紹介があった。
佳花とて年頃である。磨き抜いた美貌に自信がある。このまま使うことなく地球と一緒に宇宙のチリではもったいない。
友人たちも佳花を撒き餌にしてレベルが高い男性を引き寄せようとしていた。それゆえ佳花に紹介される男性はいずれも好条件だった。
モデル、インターハイ出場者、金持ちの息子、中には抜群にセックスが巧いと評判の看護師なんかもいた。
あ、いいなと思ったことはある。どうせ世界が終わるなら楽しいと言われること、気持ちいと聞くことは片っ端から試してみるのもアリかな、なんて刹那的な考えを持ったこともある。
そんな誘いを承諾しようとすると、決まって秀人からメッセが飛んでくるのだ。
内容は佳花が送ったメッセに対する返答がほとんどである。
例外はたった一度、どこで撮ったのかも分からない星空の写真が送られてきた時だけ。
『いつも返信が遅くて悪い』という一文が添えられていた。会話を続けることに夢中でその時は気付かなかったが、おそろしいほど星空を近くに感じる写真だった。
秀人からの返事はたいがい短文である。けれど『屋台なら炭火焼ソーセージとか好きだ』なんて色気の欠片もないメッセになんて返そうかニヤニヤしながら全力で頭をひねっていた。メッセのやり取りに応じてくれる時間は短いので、他のことは放り出して全力でやりとりを重ねた。
やりとりが終わってから友人の誘いを思い出すと、さほど興味を惹かれない。紹介された男性に必死でメッセを送る自分が想像できなかったし、やりとりするのも面倒くさいなと感じてしまった。
何度かそんなことを繰り返しているうちに今日まで来た。
どんな店で残念会をしてやろうかと企画していたのに、ここ一年は秀人の声すら聞いていない。帰ってこないし電話も全くつながらない。
こんなことなら誰かの誘いに乗っておけばよかったかな、とほんのり後悔する。
いっそメッセを寄越してきた相手とか、友人に紹介された遊び人の看護師と連絡とってやろうかしら、なんて半ば本気で考えた瞬間だった。
「わっ!?」
ヴ―、とスマホが震えた。メッセの着信音ではない。電話のコールである。
久しく電話がかかってくることはなかった。メッセの設定もごく一部の相手以外はメッセージの送受信のみで電話機能はロックしているのである。
驚いて取り落としそうになりながら画面を見ると、発信者は『松』だった。
「松……まっつー!? え、電話!? ……あー!!」
慌てて応答しようとして、手が震えて拒否ボタンを誤タップしていた。
呼吸が止まりそうになりながらも脊髄反射的にスマホを操作、たった今着信があった番号を折り返しコールする。
自分の心音でコール音も聞き取れないような状態だった。せっかく電話くれたのに拒否って嫌われてたらどうしようと数秒の間に悪い想像が雪だるま式に膨れ上がる。
『もしも……、……いざわか』
「もしもし、まっつー?」
『わ、なつかし……な、今で……話…てだい……ぶか』
松葉秀人の声だった。久しぶりに聞く声に泣きそうになる。
電波が悪いのか途切れ途切れでもどかしい。どこか歩きながらかけているのだろうか。コツコツと足音が聞こえるのに、肝心な声が不明瞭だ。
慌ててスマホのスピーカーを左耳に押し付ける。右手を口元に添える。
「うん、大丈夫だよ!」
きっと秀人も聞こえづらいだろうと思って大きな声で返した。
するとスマホから女の声がわずかに聞こえた気がした。
『……あれ、……のこ……』
コツコツという足音がやけに鮮明に聞こえる中で、不鮮明ながらも疑問形のつぶやきが聞こえた。
「ごめんまっつー、よく聞こえない、ちょっと大きい声で話してもらっていい?」
再び佳花は大き目な声を出した。
秀人からの返事は少しの間来なかった。コツコツという足音だけが聞こえる。
足音が止まった。
「『こんばんは』」
そしてやや大きな声が、右耳と左耳に同時に届いた。
まさか、と思い至って先ほど閉めたカーテンを開ける。
外を見ると松葉秀人が大きく右手を振っていた。
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