第36話

「悪いね。兄弟揃って愚痴っちゃって」

「謝るようなことじゃないです。僕が自分で首突っ込んだんですから」


 先ほどまで健治が座っていた丸椅子に、今度は真治が座っていた。

 健治が背筋を伸ばして座っていたのとは対照的に背中が丸まっている。普段の立派な看護師としての姿は欠片もなく、ただただくたびれた大人がうつむいていた。


「それで、どうして健治さんに会わないんですか? 話した感じ、勢い任せなところはあっても良識的な気がしましたけど。身内に対してはものすごく甘ったれだったりするんですか?」

「うんまあ、甘ったれたところはないでもないけど、一般的な範囲内。さっきの感じだと克服して、一人歩きし始めたって感じ」

「会うくらい問題ない人だと思うんですけど」

「問題あるのは俺さ」


 いつも真治の予定を考えず、会うつもりがあるのか無いのか不明瞭なメッセを送ってきていた。

 真治が家を出た時からさほど変わっていないと思っていた。

 先ほど歩と会話している健治は、メッセを送って来た相手と同一人物とは信じられないほど大人びた雰囲気をまとっていた。

 自分の視点しか持っていなかった子供が、真治の視点に立って考えるようになっていた。ただ逃げただけだった真治の意思を尊重して自分の意向を引き下げるまでになっていた。

 身に着けたばかりだろうそれは、きっと思いやりと呼ばれるもの。その考えが自然とできるほど身についた時、健治は優しい大人になるのだろう。

 対する真治はどうだ。偉そうに論評するくせに、いざという時には無様に逃げ去った。

 恥ずかしい。気まずい。嫌になる。


「僕が知ってる真治さんは立派な人ですよ。必死に生きてる誰かを助けています」

「前に話したろ。ありがとうって言ってもらいたいだけなんだよ、俺は」

「それでも僕が助けてもらったことに変わりありません」


 口で立派なことを言うだけなら誰でもできる。

 反対に、誰だって簡単に出来る人助けでも、行動に移す人はどれだけいるのだろうか。

 歩は真治に助けられてきた。どんな理由であれ世界が終わるその日まで誰かの力になろうとする姿を尊敬している。

 そんなまっすぐなまなざしが今の真治にはひたすらつらい。


「刺さるなあ……ごめん歩くん、今はフォローしないで。自分の駄目っぷりに泣きそうになる」


 一回り年下の少年に庇われて情けなさが加速する。優しい言葉は砂粒のようで、まなざしで付けられた傷口によく染みた。


「健治さんに会えるほど立派じゃないから会いたくないってことですか? ……でも、そのくらいで二階から飛び下りるかな」


 考えを整理するために言葉を口にする。

 今日の健治を見て、ひとり立ちし始めた弟が自分より立派で会いづらくなった、なら分かる。

 真治は昨日、会いに来た健治から異常な必死さで逃げている。そこまでする理由が分からない。


「気まずいんだよ、ほんと。恥ずかして死にそうになる」

「何かあったんですか?」

「俺さ、家を出る時にちょっとだけ健治と話したんだ。その時に『俺にお前は必要ないし、俺もお前はいらない』って言ったんだ」

「……いらないっていうのはキツイ言葉ですね。そのことを後悔しているんですか」


 真治は、健治には甘ったれなところがあると言っていた。

 きっと依存しそうになっていた健治を振り切るために強い言葉を使ったのだと歩は推測している。

 去り際に弟へ暴言を吐いたことを後悔する気持ちは分からなくもない。そんな弟が会いに来たらさぞ気まずいだろう。二階から飛び降りるほどか疑問だが。


「違う。いや、違わないけど、きつく言ったのを後悔してるんじゃないんだ」


 真治は下を向きながら首を横に振る。

 頭を下げ続ける姿は懺悔しているかのようだった。

 懺悔したいならしたいだけどうぞ。

 どうせ暇な身だ。世話になっている人の力になれるならお安い御用。


「何を後悔してるんですか」


 水を向けられた真治は喉に詰まっていたものを吐き出すように言った。


「母親と同じ言葉を言ったこと」


―――


 鈴片真治と鈴片健治の母親は、およそ育児に向かない人だった。

 楽しいことが大好きで、面倒なことが大嫌い。

 享楽的で自由。短気で身勝手。

 体は大人になっても心は子供のままだった。


 義務感と気まぐれ、周囲の協力である程度形になってはいても、当人が子供なのだ。子供を育てる器量はなかった。

 その結果、当たり散らされて育ったのが真治であり。

 真治への当てつけに優しさも擦り付けられたのが健治である。


 健治は真治に守られながら育った。

 母親の悪意を受けることがあっても、愛情と思えるものを受け取っていた。

 期せずして飴と鞭を使い分けるように育てられた健治は、母親のことを嫌いになれずにいた。

 だから、世界が終わると聞いた母親が、子育てなんかしていられないと家を飛び出そうとした時にも追いすがった。

 どこにいくの。さびしいよ。


『お前なんかいらない』


 うるさいと我が子の手を振り払った女はそう言い放った。

 父親は仕事に出かけていた。真治は進学先が決まり、引っ越しの準備で家を空けていた。友達と出かけているはずの母親が家に来たこと自体が二人の想定外だった。

 いらないと言った後にも母親は健治を詰った。罵詈雑言の嵐は当時のマンションの隣人が止めるまで続いた。

 母親にゴミのように打ち捨てられた健治は、続けざまに家を出ようとする真治にも寂しいと言った。

 立ち去る人の背に声をかけることが母を想起させた。母にしたのと同じように縋り付くことはできなかった。

 怯える健治に真治が振り返りもせず放った言葉は、


『お前に俺はいらないし、俺もお前はいらない』


 真治は、健治は自分がいなくてもやっていけるし、自分は健治がいなくても生きていける、程度の気持ちで言った。

 周囲に恵まれた健治が妬ましい部分もあり、言葉は強くなった。

 どんな言葉でも受け取る者次第で意味を大きく変える。

 もし真治の言葉を、真治の意図通りに聞いていたなら、ただ寂しがる程度で済んだだろう。

 真治の言葉は健治の耳に母親の言葉と二重になって聞こえた。

 健治は真治を慕っていた。母親にも好きなところがあった。

 そんな二人から立て続けにいらないと言われた。

 健治の心の土台にヒビを入れるには十分な痛みだった。


「あのクソ女を嫌っておきながら、いざって時には同じ相手を同じ言葉で傷付ける。泣けてくるよ」


 咲希から話を聞いた時、納得があった。

 健治が、真治と会おうとするだけでストレス性の貧血になるのも無理はない。

 世界が終わる前にもう一度会おうとした身内に、またいらないと言われたら。

 健治にとって「いらない」と言われることはトラウマにも等しい傷となっている。

 復縁しようとしている相手は過去にそれを口にした相手。

 再び言われたらと思えば足がすくむ。

 そんなことを知らず、何を怖がっているのだと不快に感じていた。

 自分自身がトラウマを刻んだ一人であるにも関わらず。

 健治に合わせる顔がない。だから逃げ出した。逃げ出したことも負い目となって真治を苛む。


「話に聞いた限り、お母さんは真治さんみたく気に病んだりしなさそうですけど」

「間違いないな」


 真治は乾ききった笑みを浮かべた。

 母親は健治のことも真治のことも忘れて遊び惚けているだろう。何かの拍子で逆恨みしていたとしても驚かない。

 今、母親のことはどうでもよかった。生きるも死ぬも真治に関わらない場所で好きにしてくれ、としか思わない。

 きっと歩はフォローのつもりで言ってくれたのだろうが些か的外れだった。

 知らぬ間に母親と同じことを言い放っていたのはショックだった。だが、今の真治にとって辛いのは、知らぬ間に弟を深く傷付けていたことと、自分が傷付けたにも関わらず守ってやったと上から目線で考えていた自分の愚かしさだ。


「……なんか、ごめんな。歩くんにはぜんぜん関係ないことなのに思いきり愚痴って」

「かまいません。どうせ暇ですし。愚痴くらいいくらでも聞きますよ。こう見えて口は堅いんです。話す相手もいないですし」

「あー……ごめん、笑っていいやつ? 笑わない方がいいやつ?」

「笑ってもらって大丈夫です」


 学校も休みがちだった歩は対人スキルが未熟である。入院歴が長い関係で年上相手に丁寧な応対をすることは得意だが、軽口や雑談の経験が少ない。おかげで冗談もへたくそだ。

 そんなへたくそな冗談を言ってまで和ませようと気を遣わせてしまったことが情けない。

 真治はふう、と息を吐く。


「歩くん、聞いてくれてありがとう。おかげでだいぶ楽になったよ。弟に会うかはまた考えてみる」


 意識的に笑顔と明るい声を作り、真治は立ち上がる。

 まだ仕事中だ。そろそろ切り替えないといけない。いつまでもぐだぐだと愚痴をこぼすわけにもいかない。無理やりにでも止めないといつまでも弱音を吐いてしまいそうだった。


「いえ、僕こそ不躾に踏み込んですみませんでした」

「いやいやいやいや、謝ることないよ。こっちが巻き込んじゃったんだし、弟の相手までさせちゃって申し訳ないやらありがたいやら」


 歩に謝られ、必死に頭を上げさせる。

 巻き込んだのは全面的に鈴片兄弟である。自分から首を突っ込んできたと言っても、兄弟揃って年下の歩に愚痴をこぼしているのだ。これで歩に失礼だ、なんて言うほど頭おかしくなってはいない。

 慌てる真治を尻目に歩はすぐ頭を上げた。にやにやとした口元を見るに、冗談だったらしい。


「なんか、すぐに会って逃げたことを素直に謝れば丸く収まる気がしますけどね」

「それを実現する心理的ハードルが山のように高いんだって。……ていうかもしかして、歩くんは会うの推し?」

「そりゃまあ。健治さんも悪い人には見えなかったですし。家族がこれだけ会いたいって思ってるのにどうしようか悩むなんてゼイタクだなって思います」


 笑顔の言葉が真治の心臓をぶん殴った。

 歩は気力を失くした時期があった。何があったか調べ、事実をおおよそ把握している。

 歩の両親は滅多に顔を出さなくなった。来院の頻度は世間体のために仕方なく、といった程度。

 来た際には丁寧に楽し気に会話しているのだが、その光景を目にした際にはあまりの空虚さに怖気がした。

 歩の話を興味深く聞いているような口ぶりなのに、表情はろくに変わらず、体も動かないのだ。

 人間、会話に興味があれば体が前のめりになる。逆に忌避感を持てば身を引く。内心は動作に多少なりと現れるものだ。

 歩の両親は張り付けた笑顔を浮かべ同じ姿勢を維持し、いつも同じような時間に帰っていく。関心があるていを装っているだけなのは一目でわかった。

 そんな歩に、会いたいと言っている弟を避ける理由をくどくど語っていたのだ。盛大な嫌味と取られていても仕方ない。


「え、ちょっと真治さんどうしたんですか。待って、ごめんなさい、べつに僕の事情を振りかざすつもりとかないんです失言でした、弟さんとのことは真治さんの好きにすればいいって本当に思ってます。だから無言で土下座しようとしないで」


 静かに床へ正座し頭を下げた真治を、今度は本気の必死さで歩は起き上がらせるのだった。

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